11-3:「交渉」
北の山脈で、<侵略者>の痕跡が発見された。
その報せは三国の首脳部を騒然とさせ、首脳会談は即座に同盟の交渉へと姿を変えた。
そこまではある種リデルの読み通りだったが、そこからが違った。
「――――もう一度、言って貰えるかしら」
公都宮殿内の小会議室の一室、そこに三国の交渉官達が集まっていた。
円卓の3方を占める彼女らはこの1週間、表向きは首脳会談のスケジュールを進めながら、密かに同盟の交渉を進めていた。
ただこの交渉は、何も今始まったわけでは無い。
それこそこの1年間、断続的に交渉の場は持たれていた。
今回、<侵略者>の痕跡が見つかると言うきっかけがあったので、一気に妥結の雰囲気が出てもおかしくは無かった。
しかしここに来て三国の1つ、連合の側が新たな要求を出してきたのである。
「我々は、同盟の対価として大公国とフィリアリーンに国土を求める」
国土を求める、つまりは領土の割譲要求だった。
当然、法外である。
「我が連合は三国最大の人口を持つものの、国土は荒地が多く耕地に適さない不毛の土地だ。前回の交渉でも言ったが、<侵略者>とか言う敵が来た場合、対応すべきは大公国だ。にも関わらず我が軍の兵士を戦場に送るには、同胞達を納得させる材料が要る」
努めて感情を押し隠したような声音で、ラタが言った。
今回の交渉で連合側は交渉の代表権を武官と文官に分けているが、ラタは武官側の代表だった。
昨日までは文官の代表に全てを委ねていたのだが、今日に入って発言するようになった。
ただし、言っていることは相当に理解しがたい。
「食糧についてなら、大公国側が前回までの交渉で援助を約束したじゃない」
「確かにその件については聞いている。だがそもそもは、大公国側が連合の民、つまりフィリア人を今の土地に追いやったことが原因だ。それを思えば、我らの要求は不当なものでは無い」
「だから、それはもう何度も話し合ったでしょう」
大公国と連合、ソフィア人とフィリア人を協力させる上で、両者の和解――までは行かなくとも、手を結ぶ――は必要事項の1つだ。
だからまず最初にそれを話し合った。
賠償を求める連合と謝罪を拒む大公国、両者を何とか交渉のテーブルにつかせて、過去の交渉の中で大公国側が連合にいくつかの援助をすることで折り合った。
援助の規模は大きく、連合側は国民に「事実上の賠償」と説明できるレベルのものだった。
それを今、ラタは否定したのだ。
過去の交渉の積み重ねを否定されたわけだから、かなり腹が立った。
だがここで激高したら交渉そのものが破綻する、堪え所だった。
「我々は構いませんよ」
実際、連合側のボールを大公国側が受けた。
イレアナは長い脚を組んで円卓に座り、指先で眼鏡に触れながら。
「ゼロベースで交渉し直すと言うなら、構いません。ただその場合は、これまでの合意事項を全て白紙にさせて貰います」
「イレアナ殿、それは今の停戦のことも含めてのことと受け取って良いのだな?」
「全て白紙です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「高圧的だな。強気に出れば我らを押せるとでも思っているのか」
「最初に受諾不可能な条件を突きつけて来ておいて、何を今さら」
「ちょっと待ちなさい。何を熱くなってるのよ、落ち着いて頂戴」
それこそ不毛な応酬が始まりかけて、リデルが止めた。
他の交渉官達がざわざわと騒いでいる、いろいろな声が聞こえてくるが、明確な議長がいないので発言を禁止できないのが辛かった。
交渉の席には三国の王もいる、序列をつけることそのものが危険だったからだ。
「この交渉の原点を思い出して頂戴。来るべき<侵略者>に対して皆でどう対処するか、そのための協力をどうするのか。それを考えるための交渉のはずよ。お互いの要求を突き付け合う場所じゃないわ」
ただしベルフラウも教皇も、そしてアーサーも、いるだけである。
言葉を発することは出来ない。
これは、そう言う交渉だった。
そして3者3様に心配そうな視線を向けてくる彼女らを前にして、リデルは何とか交渉を継続させようと必死だった。
「とにかく、もう一度論点を整理しましょう。過去の合意事項の遵守を前提として」
ともすれば離れようとする2国の手をそれぞれの手で掴みながら、着地点を見出す。
歴戦の外交官でも頭を悩ませる問題に、リデルは取り組んでいた。
もう、それほどに時間は残されていないと言う焦燥感の中で。
◆ ◆ ◆
結局、交渉は一時休憩と言うことになった。
「ああっ、もう! 毎回毎回、何なのよあの連中!!」
けたたましいが室内に響いた。
それは机上の地図に置いてあった駒が、床にいくつも散らばった音だった。
何故そうなったかと言うと、リデルが腕で机の上を思い切り払ったからだ。
それは本当に苛立った様子で、遅々として進まない交渉に参っている風でもあった。
「もう時間が無いって言うのに、どっちも自分の都合ばっかりじゃないのよ。事あるごとに停戦破棄をチラつかせるとか、あれって私が止めるの前提でやってるわよね? 超苛々するわ」
「ま、まぁまぁ、落ち着いて下さい。今は焦っても仕方ないんですから」
「わかってるわよ! 今はむしろこんな時に落ち着いてるアンタの方がムカつくわ」
「ええぇ――……」
確かに苦労している傍で落ち着いていられると、妙に腹立たしい。
だがそれが自分の苛立ちを逸らすためのものだとわかっているから、リデルもそれ以上は特に何も言わなかった。
床の上で、ひとまわり大きくなったリスが駒を拾っているのが見えた。
大きく息を吐いて、前髪を掻き上げる。
悔しい話だがアーサーの言う通り、今は苛立っていても仕方が無い。
必要なのは冷静さ。
たとえ亀のような歩みでも、とにかく同盟の交渉を続けることが大事だ。
「わかってるわよ、戦略構想は変わらないわ」
フィリアリーン・大公国・連合の3つで同盟を結び、<侵略者>を打ち払う。
だが、それだけでは不足だ。
それでは共通の敵がいなくなった時、同盟はすぐにも瓦解してしまうかもしれない。
だから、そうならないための構想が今から必要だった。
最も、その構想は今はリデルと、それからアーサーしか知らない。
同盟一つでさえこんなに苦労する段階で明らかにしても、見向きもされないだろうからだ。
まずは同盟を結び、共通の敵を倒したという実績を作ることが優先事項だ。
段階を踏む必要がある、もどかしいが、それはリデルにもちゃんとわかっている。
「同盟は同盟、一時的な物に過ぎないわ。大事なのはそれを制度化して、皆に守らせることよ。仲良く、それでも緊張感をもって」
交渉は公都の宮殿で行われている。
ここは宿泊のための部屋では無く、それぞれの交渉団が会議を行うためにあてがわれた部屋の1つだ。
実際、他の部屋に比べると壁紙やカーテンが質素だ。
まぁ、それでも調度品や家具は一級品なわけだが。
「そのためなら、何回だって仲介するわよ。頭だって下げてやるわ。まぁ、それにしたってあの連中、事あるごとに揉め事ばかり起こすったら」
「リデルさん、振り出しに戻ってますよ」
「五月蝿いわね」
しかし、それにしてもだ。
「今回の連合の要求は、またいつにも増して急でしたね」
「多分、ファルグリンが絡んでるんでしょ。他の交渉官は、どっちかと言うと交渉をまとめたがってる感じがしたわ」
喋っているのはラタだが、言葉はファルグリンの物だろうとリデルは踏んでいた。
そのラタにしても、首脳会談の時はむしろ融和的だ。
急に態度を硬化させたなら、それは間違いなくファルグリンの指示だ。
そうすると、こちらとしては聖都にいるファルグリンの考えを推し量らなければならないわけだ。
いくらか気持ちが落ち着いてくれば、そう言うことも考えられるようになる。
「交渉官はそうだとしても。すると、聖都は交渉するつもりが無いと言うことでしょうか?」
「…………」
そんなはずは無い、と思う。
同盟の交渉に価値を見出していないなら、さっさと席を立っているはずだし、国境に兵を集めているはずだ。
だが国境は極めて平和らしいし、ラタたち交渉団が席を立つ様子も無い。
とすると、可能性は2つ。
席を立つつもりが無く、落とし所を探っている場合。
そして席を立ち交渉を打ち切りたいが、そう出来ない理由がある場合だ。
リデルの見る所、連合はこの2つの中間あたりに立っているように思えた。
(皆、頭が痛いでしょうね……)
ここで言う皆とは、2人の少女のことを指す。
頼みの綱とはいつだって細いものだが、今はそれに縋っているような状態だった。
頭が痛くなって、リデルはまた前髪を掻き上げた。
◆ ◆ ◆
ラタは、困惑していた。
「今こそ」
彼女は連合の最高司令官であるファルグリンの直弟子であり、同時に側近でもある。
ラタの軍略の全てはファルグリンに叩き込まれたもので、彼女が師で無ければ、20代で一軍の指揮官になることも交渉団の武官代表になることも無かっただろう。
ただラタにとって、前者はともかく、後者は毛色が明らかに違う。
正直に言って、交渉などと言うものは大の苦手だ。
だから文官側に丸投げするつもりだった、軍人は上の命令を完遂することだけを考えていれば良いと思っていたからだ。
それでも、ファルグリンの命となれば不得意なこともしなければならない。
「今こそ寛容な精神で、粘り強い交渉を望みます」
だがここに来てラタが困惑しているのは、教皇が頑なに交渉の継続を訴えていることだった。
当初の公都訪問の予定は3日間だったが、交渉がまとまるまでは聖都に戻らない――もちろん、交渉相手に漏らしてはいないが――と宣言し、事実、予定より4日が過ぎても公都に留まっていた。
公務もあるのでいつまでもと言うわけでは無いだろうが、ギリギリまで踏み止まろうとしていることはラタにもわかった。
ラタでそうなのだから、他の交渉官の困惑はより強いものがあった。
何しろ、教皇がこうまで我を主張したことは無かったからだ。
公都訪問の決断もそうだが、まるで人が変わったようだ。
今も強い瞳で交渉団を見つめ、「ここを動かない」とアピールしている。
「聖女フィリアの教えにもあります。たとえ意見を異にしていたとしても、それを理由として対話を拒んで良い理由にはなりません」
「はぁ……」
しかし、ラタとて聖都の民だ。
軍人である前に、聖樹教の信徒である。
これまではファルグリンと教皇の方針が一致していたから――と言うより、教皇に意思など無いに等しかった――困惑を覚えることなど無かった。
だが今、両者の意図は明らかにズレている。
ラタは今、聖都のファルグリンから交渉の方針を指示されていた。
簡単に言えば、大公国がこちらの要求を受け入れなければ一度聖都に戻れ、と言う指示だった。
おそらく交渉そのものを打ち切るのでは無く、聖都で2回目の交渉の場を持たせたいのだろうと思う。
要は、相手のペースで交渉が進むのが気に入らないのだろうとラタは解釈していた。
(こ、この場合はどうすれば……)
片や交渉の中断を命じ、片や交渉の継続を望んでいる。
間に挟まれる形となったラタとしては、困惑するしか無かった。
◆ ◆ ◆
「別に困惑する必要は無いでしょう」
宮殿の通路を歩きながら、イレアナは言った。
玉座の間で公王ベルフラウとの謁見を終えた後で、<公の道>を通って執務室に戻る所だった。
彼女はぞろぞろ部下や付き人――取り巻きとも言う――を引き連れていたのだが、1番傍にキアがいた。
イレアナと話しているのはキアだけで、他は黙ってついて来ているだけだ。
「公王陛下のお言葉は、それほど的を外しているわけではありません」
一言で言えば、今のイレアナの状態は連合におけるラタの立場に近い。
連合との同盟の交渉に意味を見出せないと感じている一方で、公王は交渉の継続を要請してきている。
周囲にはベルフラウを侮る向きもあるが、それでもイレアナは今の公王を一定程度、評価してもいた。
『あまり、リデルと教皇を困らせないであげて頂戴』
『何も、私達の方から交渉を打ち切らなくたって良いでしょ』
つまるところ、ベルフラウが言ったことはそれだけだ。
前者だけなら子供の我侭と言うだけだが、後者が続けば一考の価値はある。
「体面と言うものも、大事だと?」
「覚えておくことです、同志キア。時として体面は戦争を引き起こすのですよ」
国家にとって、あるいは王にとって、体面と言うのは非常に重要だ。
相手の国の王を一言侮辱しただけで戦争になった例もある、それだけ国家にとって体面とは重要なのだ。
今回の場合、大公国の側から交渉を打ち切るのは体面が悪い、と言うことになる。
今、大公国を含む三国は平和に向けた協議を行っている。
表向きは、そうだ。
そこで大公国が1番最初に交渉から降りる、外から見てこれがどう見えるか。
「我らが公王陛下は慈悲深く、敵国の王と友誼を結び給う。まら和平の交渉を打ち切るに忍びなく、交渉の成功を望まれている。そう言う風聞が広まるのは、悪いことでは無いでしょう」
「特に今は、公王家と協会の関係が不安視されている時期だから、ですか」
「否定はしません」
視線だけを横に向ければ、キアは特に気負った様子も無く車椅子を動かしている。
むしろ、周囲の取り巻き達の方がはらはらとした表情を浮かべていた。
ノエルを除けば、もはや正規の<魔女>はこの2人しかいない。
キアの方が年少だが、傍から見ると2人の<魔女>が協会における主導権を争っているように見えるのかもしれない。
実際、イレアナに意見できるような存在はキアしかいない。
リデルあたりは可能だろうが、あれはあくまで外部の人間で、大公国の内政に干渉できるわけでは無い。
だからこそ、キアが何かを言うといらぬ緊張が周囲に走ってしまうのだ。
だがイレアナはキアにだけは直言を許していた、この娘は自分の役割を良く心得ている。
「状況は未だ流動的、それは結構」
重要なことは、いつでも同じだ。
軍略でも政でも、あるいは人間同士の関係であっても。
「指し手のつもりでゲームをしていて、気が付けば自分が指される駒だった。そうなりたくは無いものですね」
要は主導権を握ること、又は主導権を持っている者から目を離さないこと。
流されるだけの交渉ほど、つまらないものは無い。
そして今回の場合、交渉の行方が誰にかかっているかなど、言うまでも無いことだった。
◆ ◆ ◆
とにかく、大公国と連合の交渉をまとめなければならない。
この2つの大国が手を結ばない限り、アナテマに未来は無いのだから。
「スンシ曰く、『善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為す』。とにかく、負けない体勢を作らないと」
<侵略者>については謎が多い、と言うかわかっていることの方が少ない。
しかし侵略する側である以上、元があるはずだ。
あの<大魔女>でさえ恐れた存在が、北にはいるのだ。
それが国なのか組織なのかはわからない、いずれは対処しなければならないだろう。
つまり対処するまでは、侵略は何度でも起こる可能性があると言うことだ。
元を断つか、あるいは和平を結ぶかしない限り。
いずれにせよ何度か侵略は受けるわけだから、それを跳ね返せる体勢は整える必要がある。
特に実際に黒い軍勢の片鱗が見つかった今は、交渉に手間取っている場合では無い。
「ま、良いわ。焦っても仕方ないし。むしろ焦ったら足元を掬われかねないしね」
どうせこれまでも、大公国と連合の間を調停する毎日だったのだ。
例えば交易、大公国と連合は互いに条件を譲らなかったので、直接の交易が出来なかった。
そこでフィリアリーンを間に挟んだ三角貿易を行うことになった、幸いソフィアの属領だった頃に街道は整備されていたから、やってみると意外と上手く行った。
ついでに街道周辺の賊の討伐も進んだので一石二鳥、フィリアリーンも大陸の交易ルートに乗せられて一石三鳥の策だった。
その他にも、事あるごとに利害が衝突する2国を取り成してきた。
だから今回も、と言う気持ちで望むことにする。
「とりあえず、いきなり要求を吊り上げて来た連合の分析からやり直すことにするわ。まぁ、つまるところはファルグリンの考えを読むって話だけど。アイツのことを考えるのって、何か面倒くさいわね」
「それは良いですけど。リデルさん、大丈夫ですか?」
「え? ああ、いや大丈夫よ。ファルグリンは好きじゃないけど、ちゃんと考えるから……」
「いえ、そうではなくて」
ひたり。
不意に額に手を当てられて、リデルは動きを止めた。
アーサーに触れられているのだと、数秒後に気付いた。
不快を感じたわけでは無いが、不思議には思った。
「何?」
「余り無理をしないで下さい、顔色が良くありません」
「私は元々、こんな顔色よ。それに何よ、ルイナの真似?」
ルイナはなんだかんだと自分の世話を焼いてくる。
早く寝ろとかたくさん食べろとかだが、正直、ちょっと鬱陶しい。
「別に体調は悪くは無いわよ。まぁ、ちょっと考えることが多いけど。最近は夢の中でも考え事してるような気がするけど」
「余り根を詰めると」
「大丈夫よ、心配しないで頂戴」
笑って、手を押し戻す。
アーサーの手は綺麗なようでゴツゴツしていて、男性らしいと言えばそうだった。
「考えるのが、私の仕事よ。アンタは余計な心配とかしてないで、自分の仕事をしなさいな」
「僕の仕事って何でしたっけ」
「ぶっ飛ばすわよアンタ!? 偉い人に出来るだけ会って偉そうなことを偉そうにお喋りしてって頼んだじゃない!」
「それで何をするか理解できる人間が何人いるんですかね……」
上流階級と顔を繋いでおくのも、今後を考える上で大事なことだ。
それはリデルには出来ないことで、王族――本人はこの肩書きを酷く嫌がるが――であるアーサーにしか出来ないことだった。
一言二言、言葉を交わしておくだけでも、そうしなかった場合とは雲泥の差が出るものだ。
「ほら! 早く行って行って! 次の交渉まで時間も無いんだから」
「リデルさん?」
「何よ」
背中を押して部屋の外まで押し出す。
通路に蹴り出そうかと言う時、アーサーがこちらを振り向いた。
その目はやはりどこか心配そうで、リデルはあまりその目が好きでは無かった。
「ひとりで、抱え込まないでくださいね」
眉を寄せて首を傾げると、やれやれと溜息を吐かれた。
何だか腹が立ったので、今度こそ部屋の外に押し出して、扉を閉めてやった。
息を吐いて腰に手を当てて、閉ざされた扉を睨んだ。
「まったく――考えるのが私の仕事だって、何回言わせるんだか」
閉ざした扉は、何も答えない。
――――答えられるはずが、無い。
◆ ◆ ◆
アーサーがいなくなった後、リデルは床に散らばった駒を拾い集めた。
リスが机の脚を上っていくつか駒を持ってきてくれて、それに「ありがと」と言って、机の上の地図に並べ直す。
旧市街の地図職人カリスの描いた地図だ、かなり正確な物である。
「公都と聖都、それから旧王都、ね」
集団で議論することも、何かを考える時には大切だ。
しかし一方で、こうして1人で思索する時も同じくらいに大切だった。
「<侵略者>と戦うなら、大公国と連合の協力は必要不可欠。大公国だけじゃ兵力が足りないし、連合の軍が北の大山脈で戦うには大公国の領土を通らなきゃならない……」
どちらにとっても、ハードルが高いことはわかっている。
連合はそもそも過去の謝罪も無しに大公国に協力することは心情として難しいし、大公国にしても連合の軍が街を占領しない保障も無いのに領内通過を認めることなど出来ない。
仮に王や首脳部が合意できたとしても、民は違う、つまり軍の大部分を占める兵卒は違う。
互いに信じ合えない兵が、それでも背中を預け合って同じ戦場で戦ってくれなければ、共に滅びるしか無いのだ。
その意味において、さっきも言ったが、仲介国・中立国としてのフィリアリーンの存在は大きい。
大きい、はずだ。
コツッ、と、旧市街にあたる部分に駒を置く。
「旧市街は、豊かになってきたわ」
まず、食糧事情がかなり改善された。
公都のように飽食でも、聖都のように管理されているわけでも無いが、以前に比べればずっと多くの食べ物が市内に入ってくるようになった。
工場群で手に入れた食糧はすでに食い尽くしてしまったが、市場も頻繁に開かれるようになったし、何より石油を交易品として産業化したのが大きかった。
大公国や連合から、石油と引き換えに質の良い農具や種苗が入るようになった。
今は一次産品同士の取引だが、いずれは石油に一工夫を加えてより多くの外貨を得たい。
水についても、工場群の停止で少しずつ改善の向きが見えし、山から地下水を引けないか試みている所だ。
住んでいる人間達にも笑顔が増えてきて、レジスタンスは今や役所のような存在になっていた。
「……でもその豊かさを、戦に使わなくちゃならない」
コトリ、と、駒を横倒しにする。
豊かになって来たとは言っても、大公国や連合のように軍制が整備されているわけでは無い。
100騎の警備隊で国中を駆け回るのでも、相当の手配が必要だったのだ。
<侵略者>との戦いとなれば、100騎ではとても足りないだろう。
これから作る同盟軍の中で一定の発言権を維持するためには、やはり一定の規模で参戦する必要がある。
いくら公王・教皇と友人と言っても、国の大事がそれで決まるわけでは無い。
実際、今も同盟の交渉に手間取っている。
100騎では話にならない、3000でも足るまい、5000人か、あるいは1万人か。
フィリアリーンにとっては、まさに血肉を搾り取られるような気持ちだろう。
「食べ物も足りなくなるかもしれないし。何より、人が死ぬわ」
勝つにしろ負けるにしろ、戦をすれば人が死ぬ。
仲間が、家族が恋人が友人が、死ぬ。
だから古の軍師は「戦わずして勝つ」ことを最上と考えたし、それは世の軍師が最初に学ぶ兵法の基礎でもある。
何故なら、民にとって戦とは無駄な物でしか無いからだ。
時々、どうしようも無く怖くなる時がある。
本当に、この戦はするべき戦争なのだろうか。
<侵略者>と戦うのは当然だ、だがそれは連合の言うように領土を侵される大公国の軍だけで良いのでは無いか。
錬度の低いフィリアリーン兵など、いなくとも良いのでは無いか。
あの旧市街の人々の笑顔を曇らせるようなことをする資格が、自分にあるのだろうか。
「パパなら、どうしたかしら」
怖い。
怖い、怖い、怖い。
何かを創るのでは無く、何かを失わせる決断をしなければならない。
10年先、100年先を思えば、この戦に参加することに意味がある。
だけど100年先には、今を生きている人間は誰もいない。
犠牲を払うばかりで、恩恵を得られない。
今日を明日をと求める刹那的な人々に、必要だからと強いなければならない。
「こう言う時、どうするのが正しいのかしら」
アーサーにはああは言ったが――いや、やはり体調が悪いわけでは無かった。
悪い所があるとすれば、心だ。
どうしようも無く、寒い。
額に、アーサーが触れていた部分に触れると、確かに、いつもより冷たかったかもしれない。
「パパ……」
胸元を手で探っても、形見の宝石はもう無い。
地図の上の手指にリスが身を摺り寄せて来て、足元では大蛇が這う音が聞こえる。
けれど、彼女らは言葉を話すことが出来なかった。
言葉を話すことが出来ないから、リデルに答えてくれる者は誰もいない。
議論は皆で出来る。
相談は2人で出来る。
けれど、決断は1人でなければ出来ない。
それはこの1年の間、リデルが軍師としての自分に課してきたことだった。
それがアーサーの心配の種なのだと、気付きもせずに。
◆ ◆ ◆
深い樹海の中に、湯が湧き出る泉がある。
アナテマ大陸では余り見ないタイプの物だが、ここミノスでは良くある光景だった。
その中の一つから鼻歌が聞こえている、低い音程、男だ。
日に焼けた筋肉質の身体を惜しげもなく晒し、天然の湯の中で上機嫌そのものの様子だった。
いつもは何人もの美女を侍らせている彼は、今は酒を友に湯を楽しんでいる。
もしかしたら、誰に遠慮するでも無く歌いたかったのかもしれない。
そう思えるくらいに、その鼻歌の音量は大きかった。
つまりは、1人の時間を満喫していた。
「ヤレアハ」
しかし哀しいかな、人払いをしていてもやってくる人間はいるものだ。
腰に曲剣を下げた女、セーレンだ。
ミノス王の側近である彼女は、彼の妾以外では唯一、ヤレアハの湯殿に立ち入ることが出来る。
具体的な身分があるわけでは無く、昔からそうだったのだ。
「何だ、セーレン。俺は今、珍しく良い調子だったんだが」
「音が外れてた」
「……ああ、もう良い。それより何の用だ?」
どこかふてくされたようにそう言うヤレアハに対して、セーレンはあくまで冷静だった。
と言うより、セーレンが表情を変える所は彼でさえも1度しか見たことが無い。
それくらい、このセーレンと言う女は感情を動かすことが無い。
今も、翼長1メートル程の鳥を肩に乗せて顔色1つ変えていなかった。
「むん? その鳥はもしかしてだな」
「手紙を持っていた」
「ほう、疑念が確信に変わったな」
その鳥は、リデルの下にいる島鳥だった。
当然ミノスでその種の鳥を見ることは無く、他の地域から迷い込んで来ることも無い。
そしてセーレンの手にミノスでは見ることの無い白い紙があれば、もう確定であろう。
セーレンはその場にしゃがみ込むと、手紙を広げて見せた。
ヤレアハの手が濡れていることと、湯気で紙がふやけることを避けたのだろう。
そもそも、そんなに多くの文面が書かれているわけでは無い。
だから読む時間も少なくて済む、ふむふむと頷きながら目を通すと、湯を波立たせて立ち上がった。
「ヤレアハ、どうする」
「どうする? お前らしくも無い、愚問だぞセーレン」
「ヤレアハが直接行くの?」
「それこそ当然だろう、俺が行かずに誰が征く」
逞しい裸身が白日の下に晒されても、セーレンは視線を逸らすことすらしなかった。
そしてそれを気にすることも無く、ヤレアハは湯から上がって横を通り過ぎた。
精悍な笑みを浮かべて、空を見上げ高らかに宣言する。
「さぁ、戦だ! 若い奴らを集めろ、我らの王と軍師が呼んでいる!」
アナテマ大陸の南西端、少数部族達の王ヤレアハ。
部族の精兵2000人を引き連れて、ミノスの山を越える。
――――これにより、彼は歴史上初めてミノスの山々を越えた王となった。
「おっと、酒と女を忘れるなよ。一人寝は寂しいからな!」
「妾の皆に山越えは無理」
「何ぃ? そこを何とかするのが側近の役目」
「じゃない」
「…………」
しかし、本人にその意識は無い。
後世に語られる歴史の真実など、案外こんなものなのかもしれなかった。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
スタンバイフェイズと言った所でしょうか、いろいろ準備中です。
終わりの足音が聞こえる、と言う雰囲気を出していきたいです。
それでは、また次回。