Prologue:「――12 years ago――」
新作開始、です。
では、どうぞ。
――――その日は、嵐だった。
薄い木の家の壁や屋根を、強風と豪雨が軋ませる。
そんな、夜だった。
湿った薪がささやかな火を灯し、家の中心から薄く全体を照らしていた。
薄い影が、雨風に湿る床や壁に浮かび上がっている。
家には2人の人間がいた、30代後半の男と5歳頃の女の子だ。
火の前に座る男は銛の刃先を研いでおり、部屋の隅にいる女の子は網を編んでいた。
「…………?」
どうやら漁師の父子らしい2人が、不意に顔を上げた。
雨と風の音でも、まして熱で薪が割れる音でもない別の音が聞こえたからだ。
トントン、ドンドン。
その音は、家の戸を外から叩く音だった。
不審に思いつつも、父親はゆっくりとした動作で立ち上がった。
「……誰だ?」
娘が漁具の陰に隠れるのを確認してから、警戒しつつ戸を開けた。
ほんの少しだけ、外を窺うようにだ。
そして次の瞬間、彼はぎょっとした。
「――――船を、貸して貰えないだろうか」
男。
そう、男だ、1人の男がそこに立っていた。
若くは無い、自分と同年代かそれ以上だろうと父親は思った。
黒い外套で身を覆った長身の男で、彫りの深い顔と鮮やかな紫の瞳が妙に印象に残った。
「船を、貸して貰えないか」
「あ……あ、あぁ」
繰り返しの声に、父親は我に返った。
いつの間にか男に意識を奪われていたらしい、人の視線を引き寄せる力が男にはあった。
それだけに、少し恐ろしくなった。
強盗や夜盗の類では無いようだが、全身からポタポタと雨の雫を滴らせて、しかしピクリとも表情を動かすことなく立っている男が。
今も嵐は続いていて、父親自身の身も吹き込んでくる雨風でズブ濡れになりつつある。
しかし父親が気にしているのは濡れた自分の身体のことでは無く、何とかして目の前の奇妙な男を追い払えないかと言うことだった。
「ふ、船ったって……なぁ? この嵐、しかもこんな暗い中じゃ……」
しどろもどろになっていた父親だが、不意に視線を男の胸元に止めた。
そこに何かが、いや誰かがいたからだ。
小さな、そう、彼の娘よりも小さな女の子だった。
乳幼児から幼児になったばかりだろう、そんな女の子が男の腕に抱かれていた。
父親は、自分の胸を占めていた恐怖心が氷解していくのを感じた。
妖怪じみて見えていた外套の男が、急に己に近い存在のように思えた。
そして逆に、怒りを感じた。
事情はわからないが、こんな嵐の夜に子供を連れ歩くなんて、と。
男が外套で守っていたのか、それほど濡れていないが、それでもだ。
「……入りな」
今度は、男の方が僅かに首を傾けた。
その人間らしい仕草に、ますます父親の中の恐怖心が消えていった。
むしろ彼は乱暴に男の肩を掴むと、強引に家の中へと引き入れた。
戸を閉めて顔を上げれば、怪訝そうな表情を浮かべる男と目が合った。
「心配すんな、嵐が過ぎたら船を貸してやる。だがどこに行くにしても、その嬢ちゃんをあっためてやるのが先だろ」
「…………」
父親が、奥へと足を向ける。
その背を目で追えば、途中、漁具の陰からこちらを窺っていた娘と目が合った。
茶色の髪の可愛らしい女の子だ、だが彼女は男と目が合うとひゃっと悲鳴を上げて隠れてしまった。
そして男は、自分が抱いている存在へと視線を落とした。
そこには、2歳にもなっていないだろう小さな女の子がいる。
眠っているのか、目を閉じているせいで余計に顔が青白く見える。
雨水から守られていても、小さな身体は冷たく冷え切っていた。
「――――――――」
男が呟いた何事かに、せめてもの足しにと粗末な布を探していた父親は笑みを見せた。
娘も、漁具の間からじっと見つめている。
男、父親、娘、3人の視線を受けるのは……小さな小さな、女の子だ。
雨に濡れた金色の髪を、力無く頬に貼り付かせている女の子。
何の力も無い、小さく、儚い存在だ。
そう、この時点ではまだ、世界中の誰もが「彼女」のことを知らない。
だが12年の後、「彼女」は、世界中の人々にその名を知られることになる。
――――そして、時は流れる。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
いよいよ、「小説家になろう」と言う本拠地に戻って参りました。
そうは言っても、以前から何度か投稿もさせて頂いているので、そんなに離れていた印象は無いかもしれませんね。
しかし、今回の作品は1年を連載期間として想定していますので、しばらくはこちらです。
流石にここまで本格的なオリジナル長編の計画は初めてのことなので、いやはや、上手くいくか不安もありますが。
何とか完結まで持っていけるよう、頑張りたいと思います。
それでは、またお会いしましょう。