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京都にての物語

龍安寺~吾、唯足るを知る~

作者: 不動 啓人

「大体禅宗の庭っていうのはねぇ、見立てなんだよ。石やなんやを意図的に配置する事で、一つの世界観を作り出しているんだよ。だからね、ここの石庭もきっとなにかの見立ての筈なんだ。そう考えていけば、必ず答えは出る筈だよ」

「凄いですね。で、石庭はどんな世界観を表現しているんですか?」

「まぁ、色々と云われているけど、僕も実際に見るのは初めてだからねぇ、一回しっかりとこの目で確認してから、レクチャーするよ」

「楽しみですぅ」

 山下聡志やましたさとしは銀縁の眼鏡を右手の中指で押し上げ、軽く微笑んだ。

 仁平洋美にへいひろみは聡志に手を引かれ、心から楽しげに笑っていた。

 残暑厳しい初秋の龍安寺。まだまだ生い茂る緑の葉の色は濃い。

 龍安寺りょうあんじはかつて徳大寺家の別荘だったものを、室町期の管領かんれい細川勝元ほそかわかつもとが譲り受けて寺地とし、義天玄承ぎてんげんしょうを開山として創建された名刹だ。中でも有名なのが方丈前に設けられた石庭であり、あるいは龍安寺の名を知らなくても石庭の存在を知っている人は少なくないだろう。

 二人は境容池きょうようちを左手に見ながら進み、案内板に従って石庭に向かうべく、庫裏くりへの階段を登った。

 この日、二人は京都に入った。二人にとっては付き合いだしてから初めての旅行で、到着後、早速レンタカーで金閣寺に向かい、続いてこの龍安寺を訪れたのだ。

 拝観料を支払い、靴を脱いで庫裏に上がる。

 庫裏と方丈は繋がっていて、中を進めばやがて左手に石庭を窺う事ができた。

 さすがに京都でも有数の観光地だけに拝観者が多い。更には外国の方の姿が多いのも特徴的だろうか。

 二人は石庭のやや右寄りに場所を確保し、腰を下ろして一息吐いた。

「凄い人ですね」

「さすがって感じだね。それよりも、さて、この難問をどう解くかな」

 聡志は右膝を立てて座り、右手を口元に当てて、その肘を立てた膝に置いた。一度髪をかき上げ、眼鏡を上げてから、また元の体勢に戻る。

 そんな姿を、洋美は石庭そっちのけで惚れ惚れと見る。


 石庭は作者、作庭年代も不明とされている。作者については相阿弥そうあみ他幾人かの名が挙がっているようだが、特定には至っていない。

 そんな謎の多い庭だからこそ、その解釈は多岐に渡り、ついには「永遠に新しい庭」とも呼ばれている。つまり、この石庭の解釈には普遍的な唯一の答えなどないのだ。ないのだから、唯一の答えを得ようとしても、辿り着いた答えは自己満足に過ぎない。が、その自己満足も決して『間違い』ではないのだが――

 聡志は、その唯一の答えが得られずに苛立っていた。

 いくつかの説の通りに見立てるが、納得できず、ならば、と自分なりの解釈を試みるが、納得できず、時は過ぎるばかりで、風は過ぎ行くばかりで、いつの間にか周りに座る顔ぶれは変わり、変わらぬは二人の姿と石庭ばかりであった。

 やがて、そんな思考の静寂を打ち破るように、何組かの団体客が大挙して方丈に押し寄せてきた。そして彼ら彼女らは口々に石庭を誉めそやし、語り合い、ちょっとした喧騒となった。

 その喧騒に洋美は苦笑いの視線を向けたが、耳元で舌打ちが聞こえた途端、

「行くぞ」

 と、聡志が勢いよく立ち上がり、石庭を後にして方丈の後ろへと向かってしまった。

 それを見て、洋美も立ち上がり後を追う。

 洋美が追いつくや、聡志は、

「うるさい!」

 と声を荒げ、髪の毛を掻き毟った。

 そして――眼鏡がずれた。


「何が綺麗だ!何が美しいだ!だいたい何を以て綺麗だとか、美しいって言えるんだ!適当に見栄張って、口からでまかせを言うな。しかもでかい声でそれをベラベラと。信じられない!」

 ずれた眼鏡をそのままに、聡志は方丈裏手の木々を前にして体を震わせていた。が、彼の苛立ちは当然団体客に向けられたものだが、その要因の六、七割以上は、納得がいく石庭の解釈を見出せない己への不甲斐なさに起因していた。

 彼は記憶力、理解力、応用力、判断力において人一倍優れていた。一般的にいえば『頭が良い』のである。幼き頃からそれを自認し、学歴という面でも申し分ない。就職先も大手だ。結果、それなりのプライドを身に着けている。そのプライドがうずいて仕方ない。

 そんな聡志を、洋美は驚きと共に見ていた。聡志はいつも冷静で、大人の振る舞いで。今まで洋美の前でこんな風に感情を露にした事はなかった。けれど、かといって恋が冷める訳でもなく、人であれば誰しもこういう面を持っていて当然で、ならば自分が聡志の気を落ち着かせてあげなくてはと、龍安寺のパンフレットを手に健気にも話題を石庭から遠ざけた。

「この方丈の北東に、水戸光圀みとみつくに公が寄進されたといわれるつくばいがあるそうですよ」

 水戸光圀とは、かの有名な水戸の黄門様で。

われ唯足ただたるをるだろ」

「そうです。知ってたんですか」

 問い掛ける洋美を無視して、聡志は方丈を東へと歩き出した。

 そして指差す。

「これだ」

 その指の先には、中央の四角の穴を『吾唯足知』という四文字の『口』の部分に当たるよう配置された意匠のつくばいが、その口の部分に水を湛え据えられていた。

「これですか。凄いですねぇ」

「だから何が凄いんだ。光圀か?このつくばい自体がか?」

「えっ?」

 ついに聡志の苛立ちは、洋美にも向けられた。

「なにが足るを知る、だ。そんなの自己欺瞞でしかない。知ったようなこと書きやがって。こんな物、いっそ蹴り倒してやろうか」

 聡志は本当に縁側から降りようと一歩踏み出した。

 慌てて洋美がそれを抑えるように、聡志の腕を取る。

「駄目ですってば」

「うるさいな!」

 言うや聡志は洋美の腕を払いのけ、洋美の右頬を目掛けて右の平手を振り下ろした。が、洋美はそれを左腕で受け止めると、すぐさま右の正拳突きを聡志の腹部に決めた。

 聡志は見事に倒れ、腹を抱えて呻いた。

「あっ、ごめんなさい」

 洋美は倒れた聡志の肩に手をやり謝るが、もがいている間に眼鏡のはずれた聡志は、なにも答えられなかった。


「ごめんなさい。私、昔空手をやっていたものですから、条件反射で」

「……な、何色の帯とか着けてたの?」

「……黒帯です」

 ようやく眼鏡を掛け直した聡志は、まじまじと洋美を見る。こんな華奢な子が、と驚き入る。まだ突かれた腹部は痛むが、吐き気などは収まった。と同時に、苛立ちも収まっていた。

 冷静になった聡志は考える。今起きた、一連の感情の流れを。正直、苛立ち出すと性質が悪いのを聡志は自覚していた。その苛立ちが、なぜか一点の痛みにおいて引いたのである。いや、痛みというよりも重要なのは、不意の一撃であったという事だろうか。不意とは意識していない状態の事だろう。その状態を別の言い方でいえば『無』であったといえないだろうか。無の状態にあったからこそ、染み入った戒めの痛み。

 聡志は突然思い至り、もう一度石庭へと回った。幸いな事に入れ替わるように団体客の多くが方丈の裏手へと回っていく。

「突然、どうしたんですか?」

 追い付いた洋美をやはり無視して、聡志は石庭の正面に胡坐をかいた。そして息を大きく吸い込み、吐き出す。

 石庭と対峙すること数分、

「あっ、これでいいんだ」

 聡志は得心いったように呟いた。

 洋美の不意打ちから聡志が学んだのは、己を無にする事。つまりなにも意識せずに、ただ石庭に向かい合うこと。すると、心にはぽっかりと穴が空く。まるでつくばいの四角い穴のように。そうして石庭の景色は、その穴を埋めるように入り込んできたのだ。砂が、石が、土塀が、木々が、雲が、空が、鳥が、音が、臭いが、光が、風の感触が、空間が――

 それはとても美しかった。何一つ余分なものはなく、何一つ足りないものはなく。心に空いた穴は埋め尽くされ、

「吾、唯足るを知った」

 聡志の満足の頷きとなった。


「洋美」

「はい?」

「君のお陰で、一つ勉強になったよ」

 隣に座る洋美の姿もまた、聡志の目にはいつにも増して美しかった。

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