おおきな蛾
蛾
ガとは、節足動物門・昆虫綱・チョウ目(鱗翅目、ガ目とも)に分類される昆虫のうち、アゲハチョウ上科、セセリチョウ上科、シャクガモドキ上科を除いた分類群の総称だ。
日本にはチョウ目の昆虫が3500種類知られているが、「チョウ」と呼ばれるものは250種類にすぎず、他はすべて「ガ」である。世界全体で見ると、ガの種類数はチョウの20〜30倍ともいわれている。チョウ目の多様性はガによって表現されている。もっとも、チョウとガに明確な区別はない。
同じチョウ目でありながら、ガのイメージは「地味」「夜に行動」「気持ち悪い」など、派手な体色を持ち、昼間に可憐に飛び回るチョウのイメージとはあまりに対照的だ。しかし、中国ではしばしば美人の眉の形容など、好意的な意味で使われる。
「おおきな蛾」 作・レモンテイ
日曜日の午後、僕は彼女に会った。
会った、というより見た。休日の午後を利用して、例の店へ遠出をしてみようと思った僕は、数えるほどしか行ったことのない近所の駅のホームにて、強すぎる日差しに目を細めていた。目的の列車は暫く来ない。発車時間を考慮すれば、到着を今かと待ち構えるにはまだ早かった。そんな時、電車を待っている彼女を見かけた。驚くべき偶然、正に運命だった。いや、そうとはいえない。むしろ違う。これは必然だ。僕は彼女がこの時間この駅にいると知っていたからだ。彼女は僕に気付いていない様子だった。相変わらず彼女はぼうっと宙をみつめていて、物思いに耽っている様だった。広げたままの翼を休める、大きな蛾のような彼女。
あと五分程で彼女が乗る列車が到着してしまう。しかもそれは僕が乗る列車ではない。早くに来てしまった僕は、ホームで十五分後に発車する、街へ向かう列車へ乗車する予定だった。こんな偶然に遭遇することは予期していなかったので、目の前に示された運命に乗り入れるべきか、僕は多いに悩まされた。彼女は腕時計を見る。腕を上げるそれですら不精そうな仕草が僕に好感を与える。一体彼女はどこへ向かうのだろう。僕は知っている。
僕は向かうべき場所を見失いつつあった。目の前に広がる大いなる可能性。だがそこに飛び込むのには、僕はあまりに無防備すぎる。恐怖すら感ぜられる。それと較べると、例の店にはなんという安堵と至福が約束されていることか!
彼女はもう一度時計に目をやった。手持ち無沙汰という様子だった。苛々、というよりそわそわとしていた。辺りを見渡すように視線を泳がせていた。僕は彼女の視線に入らないよう、一歩後ろへと下がった。だが、こんなことではいけない! 何を恐れているのだ、頭で想像すればなんと簡単なことか。ただ一歩前へ踏み出し、彼女の視線を受け止めればよいのだ。そして彼女がアッと口を押さえたところで、こう言えば良いのだ。
「やあ、偶然ですねクラスメイトの渡辺さん。」――――絶対できない!
彼女が線路の向こう側を気にしている、
アア、来てしまった。
発車時刻まで一分を残して、彼女の待つ列車がゆっくりと滑らかな減速でもってやってきた。車輪が線路に接触する悲鳴のような音に、僕は二の腕に鳥肌が立つのを感じてしまった。もう時間が無い。僕の目の前を、嘲笑しながら先頭車両が通過していく。停車して、それを待ち望んでいた人々が我先にと乗り込んで行く。彼女は、その列の後ろの方から乗り込んだ。
二年前、僕らがまだ小学生だった頃。夏休みの自由研究に僕は昆虫標本を作った。上下に段が分かれた本格的なものだった。夏休みが終わって学校へ持っていくと、担任の先生が余計なことを言い出した。
「みんなの自由研究に評価を付け合おう!」
それを材料にして他の時間で何らかの議論を活性化させる目的もあったのかもしれないけど、結局、色紙交換のようなものになることは目に見えていた。そして、友達の少ない僕みたいな子供にとって、そういうイベントは苦痛にしかならないってことを何で大人は分からないんだ!
みんなが全員の研究にコメントを書かされた。予想通り、僕の標本へのコメントには見るべきものがほとんど無かった。「すごいね。」「種類がたくさんあって驚いた。」「博物館みたいだ。」「すごい。」小学生らしい単調な賛辞を一言述べるだけの、下手くそな社交辞令! そんなものは誰も望んでいないし、嬉しくも無いのに、どうしてみんなはそんなことをするのだろう。まあ、僕を揶揄するようなものがないだけまだマシという考えもあるかもしれない、しかしそれはつまり、誰からも見られていない、誰にとっても無関心な存在ということじゃないか!
友達だと思っていたあいつさえも、関心なさそうなコメントを書いている。ああそうさ、六年生にもなって昆虫なんて興味は無いだろうよ、ただの気持ちの悪い節足動物だものな。
だから僕は嬉しかったんだ。彼女の、
「上段の大きい蛾がいい。」
というコメントが。
***
あと一分。僕は運命から目をそむけている。
彼女が駅に来てくれた。重い足を上げて、わざわざここまで運んできてくれた。それなのに僕は、それに対して何も応えることができない。いや、そもそも彼女はそれを望んでいない。冷静になれ。足を運んだのは彼女じゃない、僕じゃないか。応えたいというのは僕の希望であり、応えて欲しいという彼女の願望では無いのだ。それでも電車の扉を通るとき、彼女の横顔が少しだけ沈んでいたように見えたのは気のせいだろうか。いいや、僕は確かに見た。大きな蛾が撒き散らした毒紛は、どんよりと曇った霧となって彼女自身を取り囲んでいた。
僕は確かに見たんだ!
僕が僕の内側に向かって叫んだのと同時に、彼女と僕との間を遮断する鉄の扉がシュウと間抜けに音を立てて閉まった。
結局僕は次の列車に乗ってお店に行った。狭い店内を、安い装丁で単価千円もする雑本を目一杯に詰め込んだ棚と、棚を凝視する連中が占拠する妙な場所。僕は床に落とした小銭を必死に拾いながら、店の中に彼女の姿を探した。まさか本当にいるとは、と驚いたが、人違いだった。あの上機嫌で饒舌な女性が彼女だったら、どんなに驚いたことだろう。僕はどうにかしている。ここに彼女がいるはずなどないのに。
安堵と至福が約束されているはずのその店からは、それら二つは得られなかった。ただ虚しさのみを感じた。僕はこんなところで何をやっているのだろう。
気が付けばもう日は大きく傾いていた。僕は駅ビル構内のファーストフード店で、夕飯代わりにハンバーガーをほおばり、入り口で貰ったクーポン券で涙をぬぐった。高くて不味いと今まで思い込んでいたその店は、予想外に美味しい食事を僕に提供してくれ、涙が流れたのだ。
日付が変わっていた。僕は自室にこもり、明かりは机のスタンドだけを点けて、その明かりを横顔に受けながら物思いに耽った。不快な汗が、じっとりと皮膚を覆っている。
帰りの電車に揺られていたとき、僕は丁度向かいの座席に座って携帯電話と対話している髪の長い男を見ていた。学生服と長髪の組み合わせが、彼の線の細い格好良さを強調していた。僕もこんな男だったら良いのに。そう思った。
ばたばた、ばたばた、と、空気を掻く音が聞こえて、暗闇の中で僕はびくりと身体を震わせた。僕の頬を嘗めるようにして、大きな褐色の蛾が羽ばたいていた。「わあ」と声を上げて僕は椅子から飛びのいた。
蛾は、僕とスタンドとの間を行き来するように、ひらひら、ばたばた、と動き回った。毛に覆われた枯れ葉が、意思を持って舞っているようだ。
「蛾が、蛾が、寄ってくる!」僕は泣きそうな声を出して、周辺を舞う蛾を手で払おうとした。でも払えば払うほど蛾はばたばたと羽を振るわせて、りん粉を撒きながら僕に向かってくる。待てよ。
彼女が変身しているのか?
***
綺麗なガラスの蓋のついた、大きな木箱を僕は取り出した。蓋を開けて、机の横へ置く。机の上には色々な器具が並べて置いてある。もうすっかり手馴れた動作でその列の中から注射器を取り出し、防腐剤を吸い込ませた。そして注射器を持った右手をゆっくりと移動させ、その針の先端を麻酔を染み込ませた布に載せた、褐色の大きな蛾の上へ持ってきた。ふわりとした毛に覆われた大きな蛾は、羽を広げて眠るように、白い布の上で死んでいた。
ぷすり、と空気の抜けるような音がして、蛾の身体の内に細い針が刺さった。最初に感じた僅かな抵抗がなくなると、するするすると針は蛾の内側に吸い込まれて行った。
僕は注射器を押した。
防腐剤が染み込んだ蛾から針を抜くと、丸く湾曲した背中の真中へ、ぶすりと、代わって取り出した虫ピンを刺した。そして日付を書いたラベルを付けて、木箱の底に敷いたベニヤ板へそれを留めた。僕の部屋へやってきた、たくさんの蛾のコレクション。変身した彼女が、僕のところへやってきた証。もう大分数が溜まった。そろそろいいんじゃないかな。
彼女の机に僕はそれを置いた。
「あげるよ。」
彼女はきょとん、として、開いた目を瞬いた。そして僕を見上げた。僕は目を逸らした。綺麗な眉を動かして、彼女は訊いた。
「わたしに?」
口が変な感じに動いて、僕は声が出なくなってしまった。でも彼女の質問には答えたかったので、頷いた。しかし大事なことを言うことができなかった。「君にとって大切な物でしょ。」と。くすり、と彼女が笑った。唇に手を当てていた。嘲るように唇は歪められていた。
「変なの。」
彼女はそう言って笑った。
(了)
純情な少年の初恋という青春。
陰湿なストーカーという変質者の恐怖。
正と邪という観点からすれば
両極端なこの二つの性質を
矛盾なく同時に描いて
青春の危機を郷愁とともに謳い上げた
かった。
ジャンル:文学とか言ってるが、その点に関しては気にしないで下さい。。。 「恋愛」よりは適切と思っただけです。