第3話
冷たい予感が胃の奥を撫でた直後だった。
俺の手の中にあるダンジョンコアが、まるで心臓の鼓動のようにドクンと脈打った。
空中に浮かぶシステム画面で、九百九十九万という異常な数値が激しく明滅している。
コアから溢れ出した青白い光が、部屋全体を包み込むように渦を巻き始めた。散り散りになったはずの光の粒子が、見えない糸に引かれるように一点へと収束していく。
眩さに思わず目を細める。
やがて光が収まると、そこには一人の少女が立っていた。
半透明だった身体は、今は確かな質量と色彩を持っている。迷宮のコアと同じ色の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。
「……マスター?」
シズクは自分の両手を見つめ、信じられないというように指先を動かした。
「シズク、お前……消えなかったのか」
「はい。コアに蓄積されていた莫大なDPが、私の存在を再構築し、実体化させてくれたようです」
彼女はふわりと宙に浮くのをやめ、初めてその足で迷宮の床に降り立った。石畳を踏む微かな音が、静寂の部屋に響く。
俺は安堵の息を吐き、改めてシステム画面の数値を見上げた。
「それにしても、このDPはどういうことだ? 侵入者の恐怖や絶望から搾取するのが普通なんだろ?」
「ええ。ですが、マスターの場合は全く異なる法則が働きました」
シズクの淡々とした声に、微かな熱が帯びる。
「マスターが十年間、毎日この迷宮に通い、深い愛情を持って接してくださったこと。その滞在時間そのものが、迷宮への最大の魔力供給源となっていたのです」
十年分の魔力還元。
誰にも見向きされなかったこの場所で、俺がコツコツと過ごした時間が、莫大な力となって蓄積されていたというのか。
効率が悪いと嘲笑され続けてきた俺の日常は、決して無駄ではなかった。
「それだけではありません。コアを継承したことで、マスター自身のステータスも限界突破しています」
言われてみれば、身体の奥底から無尽蔵の力が湧き上がってくる感覚があった。視界は異様にクリアになり、遠くの水滴が落ちる音までが鮮明に聞こえる。
俺は部屋の隅に転がっている、大人が三人掛かりでも動かせないような巨大な岩に近づいた。
片手を添え、軽く力を込める。
ズズッ、と鈍い音を立てて、重い岩がまるで発泡スチロールのように持ち上がった。
「……嘘だろ」
さらに、腰に下げた安物の鉄剣を抜いてみる。
十年使い込み、刃こぼれも目立つ錆びた鉄剣。だが、今の俺が魔力を流し込むと、刀身が澄んだ青い光を放ち、周囲の空気を震わせた。
軽く振るだけで、鋭い風切り音が石室に反響する。
長年使って馴染んだだけだと思っていたが、いつの間にか常人には扱えない代物になっていたらしい。
◆ーーーー◆
「マスター、迷宮の運営権限を確認してください」
シズクの案内に従い、俺は空中に浮かぶシステム画面を操作した。
迷宮の構造、魔物の配置、罠の稼働状況。さらには居住空間の拡張や内装の変更まで、あらゆる項目がずらりと並んでいる。
「これだけのDPがあれば、迷宮を絶対防衛の要塞にすることも、快適なマイホームにすることも可能です」
「マイホームか。誰にも邪魔されない安全な場所……それは悪くないな」
俺は苦笑しながら、画面の端にある項目に目を留めた。
「シズク、この迷宮の名前の由来になってる苔だけど……」
俺は壁を覆う、淡い緑色の光を放つ苔に触れた。
「はい。それはただの植物ではありません。迷宮全体の防衛機構であり、索敵ネットワークを担う特殊な魔法生物の群体です」
シズクが説明すると同時に、俺の脳内に膨大な情報が流れ込んできた。
第一階層から最下層まで、苔が生えているすべての場所の視覚と聴覚が、俺の感覚とリンクする。
水滴が落ちる音。微かな風の流れ。迷宮の隅々までが、まるで自分の身体の一部になったかのように感じられた。
「すごいな……これなら、どこに誰がいるか一目でわかる」
「ええ。マスターの意思一つで、苔を通じて迷宮内のあらゆる要素を操作できます」
シズクは誇らしげに微笑んだ。感情表現が乏しい彼女にしては珍しい表情だった。
俺は壁の苔をそっと撫でた。
見捨てられたこの迷宮には、俺の知らない秘密がまだたくさん眠っているらしい。
◆ーーーー◆
その時、脳内に鋭い警告音が鳴り響いた。
苔のネットワークが、第一階層の入り口で多数の侵入者を感知したのだ。
俺はシステム画面に視界を投影した。
映し出されたのは、豪奢だが趣味の悪い装飾品を身につけた小太りの男。
バートンだ。
その後ろには、完全武装したギルドの討伐隊が数十名、足並みを揃えて続いている。
『こんな場所に派遣されるとは、私の経歴に傷がつく。利益を生まない無駄なものは即座に切り捨てる。今日で跡形もなく消し去ってやる』
バートンの傲慢な声が、苔を通じてはっきりと聞こえた。
『さっさとコアを見つけて破壊しろ。こんな薄暗い場所に長居したくない』
俺は静かに息を吐き、システム画面を睨みつけた。
「あいつら……本当に来やがったか」
「マスター、迎撃の指示を」
シズクの声が冷たく研ぎ澄まされる。彼女の瞳には、迷宮に害をなす外敵への容赦ない敵意が宿っていた。
「ああ。だが、無駄な殺生はしない。無傷のまま、二度と近づきたくないと思わせて追い返す」
俺の大切な居場所を、理不尽な理由で奪おうとする奴ら。
絶対に、この奥へは立ち入らせない。
俺は莫大なDPを消費し、マスター権限を行使した。
「第一階層から第三階層までの構造を組み替えろ。分断し、迷路にする」
ズゴゴゴゴッ、と迷宮全体が低い地鳴りを上げる。
画面の中では、討伐隊の目の前で石壁が動き出し、通路が複雑に変化していく様子が映っていた。
『な、なんだ!? 地震か!?』
パニックに陥る討伐隊。
「さらに、魔物を進化させる。スライムは強酸の巨大スライムへ。ゴブリンは重武装のホブゴブリンへ」
DPが消費され、迷宮内に配置されていた低級な魔物たちが次々と光に包まれる。
彼らは巨大化し、圧倒的な威圧感を放つ強大な魔物へと変貌を遂げた。
強酸スライムの溶解液が石畳をジュウジュウと溶かし、ホブゴブリンの重厚な鎧が鈍い音を立てる。
『ひぃっ!? なんだこの化け物は! 初心者ダンジョンのはずだろうが!』
進化した魔物たちが討伐隊の前に立ち塞がり、威嚇の咆哮を上げる。
罠として設置した落とし穴や粘着性の網が作動し、討伐隊の動きを完全に封じていく。
落とし穴の下には柔らかい粘着性の網を張り、ホブゴブリンには峰打ちを命じている。誰も傷つけることなく、ただ圧倒的な恐怖と絶望だけを与えて追い詰める。
バートンは腰を抜かし、無様に地面を這いずっていた。
『ば、馬鹿な……こんな場所が、なぜ……!』
俺は冷ややかな目でその光景を見下ろしていた。
これで終わりだ。あとは逃げ帰るのを待つだけ。
そう思った瞬間だった。
バートンが震える手で、懐から禍々しい赤い光を放つ魔道具を取り出した。
『ええい、怯むな! これを使えば、どんな魔物だろうと一掃できる! コアさえ破壊すれば私の勝ちだ!』
『査定官殿、それは危険すぎます! 我々まで巻き込まれる!』
『黙れ! 私の命令が聞けんのか!』
その魔道具から放たれる異常な魔力の波長を、苔のネットワークが敏感に察知し、俺の脳内に強烈な警告を送ってくる。
ただの討伐隊ではない。ギルド本部が用意した、迷宮そのものを崩壊させかねない規格外の兵器。
圧倒的な戦力差を覆すための罠と進化した魔物たち。
だが、あの魔道具の力が解放されれば、この迷宮はどうなるのか。
「マスター……」
シズクが不安げに俺を見上げる。
俺は手元の鉄剣の柄を強く握りしめた。
討伐隊の執念と、未知の脅威。
この絶対防衛の要塞と化した迷宮で、俺は奴らを完全に退けることができるのか。
冷たい緊張感が、最深部の空気をヒリヒリと焦がしていた。




