第1話
薄暗い洞窟の中、岩肌を覆う苔が淡い緑色の光を放っている。
ひんやりとした空気が頬を撫で、水滴が落ちる微かな音が遠くで響いていた。
俺、レオンは今日も日課の探索を終えようとしていた。使い込まれた革鎧は所々擦り切れ、腰に下げた剣は手入れこそされているものの、刃こぼれが目立つ安物の鉄剣だ。
通路の角を曲がった瞬間、影から小柄な魔物が飛び出してきた。緑色の肌に、醜く歪んだ顔。ゴブリンだ。
「ギィィッ!」
耳障りな鳴き声を上げながら、錆びた短剣を振り下ろしてくる。
俺は慌てることなく、半歩だけ横にずれてその一撃を躱した。同時に、腰の鉄剣を抜き放つ。
無駄のない、最短距離の軌道。
刃がゴブリンの首筋を正確に捉え、抵抗を感じる間もなく斬り裂いた。
ゴブリンは短い悲鳴を上げ、黒い霧となって霧散する。後には、小指の先ほどの小さな魔石がコロンと転がった。
「今日もこれでおしまいか」
俺は魔石を拾い上げ、腰の革袋に放り込んだ。チャリン、と軽い音が鳴る。
この「苔むす洞窟」は、初心者向けの低難度ダンジョンとして知られている。出現するのはスライムやゴブリンといった弱い魔物ばかりで、得られる素材も二束三文にしかならない。
効率と利益を最優先する今の冒険者ギルドにおいて、ここは完全に「見捨てられた場所」だった。新人探索者でさえ、少しレベルが上がればもっと稼げる迷宮へと移っていく。
だが、俺にとってはここが一番落ち着く場所だった。
気がつけば、十年間も毎日欠かさず通い続けている。
誰に急かされることもなく、自分のペースで歩き、弱い魔物たちと適度に身体を動かす。効率は最悪かもしれないが、この無害で静かな日常が俺は好きだった。
帰り道、通路の真ん中を巨大な岩が塞いでいた。
昨晩の小さな地震で天井の一部が崩落したらしい。大人の背丈を優に超える、丸みを帯びた巨大な岩塊だ。
普通なら迂回するか、ギルドに報告して撤去班を呼ぶところだろう。
俺は剣を鞘に収め、岩の表面に両手を添えた。
「よっこいしょ、と」
ふくらはぎに力を込め、腕を押し出す。
ゴリッ、と鈍い音が鳴り、数トンはあるはずの巨岩が床を削りながら滑るように動いた。そのまま通路の端まで押しやり、人が通れるだけの道を確保する。
十年も同じ場所で身体を動かしていれば、自然と力の入れ方も身につくものだ。俺は特に気にする様子もなく、手のひらについた砂埃を払った。
ふと壁に目をやると、群生する苔が俺の動きに合わせるように、微かに光を明滅させていた。
ただの植物のはずだが、時々こうして意思を持っているかのように感じることがある。迷宮全体に張り巡らされたこの苔が、まるで俺の存在を認識しているかのように。
「また明日な」
俺は壁の苔に向かって軽く手を挙げ、洞窟の入り口へと歩き出した。
◆ーーーー◆
街に戻り、冒険者ギルドの重い木扉を押し開ける。
途端に、酒と汗の匂い、そして荒くれ者たちの喧騒が鼓膜を打った。
俺は周囲の視線を気にすることなく、カウンターへと真っ直ぐに向かう。
「お疲れ様です、レオンさん」
受付嬢のエリーゼが、赤いフレームの眼鏡を押し上げながら声をかけてきた。彼女は真面目で世話焼きな性格で、俺のような万年Fランクの探索者にも分け隔てなく接してくれる数少ない理解者だ。
「今日もゴブリンの魔石と、薬草が少しだ。査定を頼む」
「はい、お預かりしますね」
エリーゼは手際よく素材をトレイに移し、確認を始めた。
その間、背後のテーブル席からヒソヒソと嘲笑するような声が聞こえてくる。
『おい見ろよ、またあのゴミ探索者だぜ』
『十年間も初心者迷宮に引きこもって、よく飽きないもんだ』
『効率って言葉を知らねえのかね。時間の無駄だろ』
そんな陰口にはとうの昔に慣れている。俺は他人の評価のために生きているわけではない。
だが、今日のエリーゼの様子は少しおかしかった。
いつもなら素材の確認をしながら世間話をしてくれるのに、今日は視線を伏せたまま、指先を微かに震わせている。
「エリーゼ? どうかしたのか」
俺が尋ねると、彼女はビクッと肩を跳ねさせ、顔を上げた。その瞳には、明らかな戸惑いと申し訳なさが浮かんでいる。
「……レオンさん。実は、お伝えしなければならないことがあります」
彼女の声はひどく沈んでいた。
嫌な予感が、胃の奥を冷たく撫でる。
「ギルド本部から正式な通達がありました。『苔むす洞窟』は、明日をもって完全閉鎖されます」
「……閉鎖?」
俺は思わず聞き返した。
「はい。利益を生まない低難度ダンジョンは、維持管理のコストに見合わないと判断されました。明日、討伐隊が派遣され、ダンジョンコアを破壊することになりました」
頭の中が真っ白になった。
コアを破壊されれば、ダンジョンは完全に消滅する。
俺が十年間通い続けた、あの静かで穏やかな場所が、明日には跡形もなく消え去るというのか。
「そんな……急すぎる。あそこはまだ、初心者たちの訓練場所として十分に機能しているはずだ」
「私もそう進言したのですが、本部の決定は絶対で……ごめんなさい、レオンさん。私の力不足です」
エリーゼは深く頭を下げた。彼女に非がないことは分かっている。悪いのは、効率と利益しか見ようとしないギルドの体制だ。
「おいおい、受付で湿っぽい顔をするなよ」
背後から、耳障りな声が割り込んできた。
振り返ると、豪奢だが趣味の悪い装飾品をこれでもかと身につけた、小太りの男が立っていた。
ギルドの査定官、バートンだ。
彼は常に人を見下すような薄ら笑いを浮かべ、自分の権威を誇示することにしか興味がない男だった。
「バートン査定官……」
エリーゼが強張った声を出した。
「万年Fランクのゴミ探索者が、ゴミ迷宮の閉鎖を嘆いていると聞いてな。わざわざ慰めに来てやったぞ」
バートンは俺の前に立ち、鼻で笑った。
「あんな利益の出ない無駄な穴倉、もっと早く埋め立てるべきだったのだ。私の権限で、ようやく清掃の手配が整ったというわけだ」
「あんたが、閉鎖を決めたのか」
俺は低い声で尋ねた。
「いかにも。明日、私が自ら討伐隊を率いてコアを叩き割ってやる。お前のような無能がしがみつく場所など、この街には不要なのだよ」
バートンの言葉に、周囲の探索者たちが下品な笑い声を上げた。
胸の奥で、どす黒い感情が渦を巻く。
効率が悪い。利益が出ない。
それだけの理由で、他人の愛着や居場所を頭ごなしに否定し、奪い取るというのか。
俺は拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
だが、ここでバートンを殴り飛ばしても何も解決しない。権力に逆らえば、俺自身がギルドから追放され、二度とあの洞窟に近づくことすらできなくなる。
「……話は分かった」
俺は短く告げ、カウンターに置かれたわずかな報酬の硬貨を掴み取った。
「ほう、逃げるか。まあいい、明日の昼にはあの薄汚い洞窟はただの瓦礫の山だ。せいぜい新しいゴミ捨て場でも探すことだな」
背後から投げつけられる嘲笑を背に、俺は無言でギルドを後にした。
◆ーーーー◆
夜の帳が下りた街を、俺はあてもなく歩いていた。
冷たい夜風が頬を撫でるが、頭の中は熱く煮え滾っている。
十年間、毎日通い続けた。
誰に馬鹿にされようと、あそこは俺の大切な日常であり、唯一の居場所だった。
それが明日、理不尽な暴力によって永遠に失われる。
足取りは重く、気がつけば街の外れへと向かっていた。
見慣れた木立を抜けると、ぽっかりと口を開けた洞窟の入り口が見えてくる。
「苔むす洞窟」。
夜の闇に沈むその場所は、いつもよりずっと静かで、どこか寂しげに見えた。
明日の昼には、バートン率いる討伐隊がやってくる。
俺の力では、彼らを止めることはできない。ギルドの決定を覆す権力も、討伐隊を一人で退けるほどの武力も、俺にはない。
せめて、最後に挨拶だけでもしておきたかった。
俺は腰の錆びた鉄剣に触れ、ゆっくりと洞窟の中へ足を踏み入れた。
壁を覆う苔が、微かに淡い光を放っている。
まるで、俺を奥へと導くかのように、光の波が奥へ奥へと続いていた。
いつもなら浅い階層で引き返す。
だが今夜は、一度も足を踏み入れたことのない最深部へ向かうつもりだった。
ダンジョンコアがある場所。迷宮の心臓部。
そこに行けば、何かが変わるわけではない。ただ、十年間世話になった礼を言いたかっただけだ。
暗く冷たい通路を、一人で歩き続ける。
深く潜るにつれて、空気は重く、濃密になっていく。
肌を刺すような魔力の気配。
初心者ダンジョンには似つかわしくない、異様な圧迫感が全身を包み込み始めていた。
最深部には、一体何が待っているのか。
俺はただ、静かに歩みを進めた。




