78.パリ大虐殺
1944年12月15日 フランス共和国 パリ市
パリ市民は食料や燃料がなくなり飢えと寒さに苦しんでいた。
アメリカ、イギリスからの圧力によってフランス政府が物資の供給を停止してから一か月が過ぎていた。
親衛隊の指示で食料と燃料は配給制にして食品ロスを減らしたことで、約2週間分の備蓄はしてあったので、供給が停止されてからも配給量を半分に減らしながら1か月は配給を続けられた。しかし、とうとう3日前にその配給もなくなった。
各家庭でも数日分は備蓄があったかもしれないが、大半の市民は今日食べる物もないという状況になっており、パリの外にいるフランス政府に対しての抗議デモが始まった。
ナチスに対する抗議デモであれば、すぐに武力で排除されるので、パリ市民は本来であれば市民を人質に取っているナチスに向けられる怒りをフランス政府に対してぶつけるしかないのだ。
市民に対する配給を止めてからも親衛隊には未だに食事が与えられていることに、一部の市民が怒りを向けて、隊員兵舎を襲ったが、予め襲撃を予想していた親衛隊に全員射殺されるなど死人も出ている。
このままでは200万人が餓死してしまうので、アイザック達はフランス政府に対して、女性と12才以下の子供とを解放することをで食料供給を再開するよう交渉した結果、フランス政府はこの条件を受け入れて、市民の解放を確認した翌日には食料供給を再開した。
女性と子供の解放後は成人男性しかいなくなったパリ市の人口は70万人にまで減少した。
女性と子供が解放された3日後、パリ政府は約束通り食料の供給を再開させたが、1週間以内に武装を解除して投降しなければまた食料の供給を停止すると勧告してきた。
これはフランス市民全員に聞こえるように壁の外からスピーカーで何度も放送され、これを聞いたパリ市民は新総統官邸に押し寄せて、投降するよう抗議のデモが始まったが、武装親衛隊が市民に対して発砲したことがきっかけで、仲間を殺されて怒った市民は暴徒となり、火炎瓶や投石で親衛隊と戦ったが、旧ドイツ国内でも最精鋭なうえに最新鋭の装備が与えられた武装親衛隊の前には無力であった。
親衛隊20万人によって3日間で70万人の市民のうち40万人が虐殺された。残った30万人は元々ナチスに協力的な市民だったので、デモや戦闘には参加せずに家に隠れていたため助かったが、相変わらず食糧がない状況に変わりはなく、餓えにより衰弱するものが続出した。
西側連合国は今残っている市民はナチスの協力者であり、彼らもテロリストであるとの見解を示し、1944年12月23日にパリ市に対して原爆の被害範囲の外側からの砲撃と高高度からの爆撃を開始。
フランス政府はパリ攻撃に最後まで反対していたが、アメリカとイギリスが押し切る形で攻撃が行われた。
パリへの攻撃は24時間絶え間な続き、24時間後にはパリは瓦礫の山になっていた。
翌12月24日のクリスマスイブにナチスは連合軍に対して降伏したが、アイザックとクラーラの姿はなかった。
降伏した親衛隊員達からの話によると爆撃で二人とも死んだということなので、連合軍は二人の死体を探したが結局見つからずに、死亡扱いとなった。
また、ナチスの降伏を受けて、西側連合国と日中ソ連合、東ヨーロッパ王国連合は共同で第二次世界大戦の終結を宣言。
1939年から5年間も続いたヨーロッパ全土とアフリカ、中東を巻き込んだ歴史上最大の戦争はようやく幕を閉じたのだった。




