終章 屋根裏に還る声
帰り道は、行きと違って怖くなかった。
森はもう、わたしたちを閉じ込める箱ではない。葉の擦れあう音は囁きに変わり、夜露は祝福のように足もとで光った。
“声の国”で見た白い塔は遠ざかり、代わりに街の屋根が朝日に濡れてゆく。パン屋が窯の口を開いた匂い、洗濯女が桶を叩く水の音、寝ぼけた門番の欠伸——どれもが、懐かしく新しい。
「ねえ、レミリア」
「なに?」
「ぼくら、戻るんだよね。屋敷に」
「うん。あの屋根裏に、置いてきたものがある」
ルークは頷いた。
「取り返しに行こう。名前と、これからの居場所を」
屋敷の門は、昨夜と同じく大きく、重かった。
けれど、かつてのように胸が縮まることはない。扉が冷たいのは、扉が扉であるからだ。そこに意味を付けるのは、こちらの側。
インターホンの代わりに、わたしは空を仰いで息を吸う。
「——おはようございます」
それは挨拶であり、宣言だった。
声は風に乗り、正面ホールの扉を震わせる。鍵の内側で小さな金具が鳴り、執事の靴音が近づいてくる。
「……誰だ」
扉が開き、陰の中に執事の顔が浮かぶ。
わたしは微笑んだ。
「レミリアです。迎えに来ました。——自分のことを」
執事は一瞬だけ言葉を失い、それからいつもの仏頂面に戻った。
「勝手に屋敷を離れた挙句、戻ってきたのか。身の程を——」
「わたしの身の程は、わたしが決めます」
静かに、重ねる。
声は怒りに似ていない。けれど、沈黙を押し返す厚みを持っていた。
ホールの階段上に、主婦人クラリッサが現れた。昨夜の絹の夜会服の名残りを纏い、冷えた氷のような目で見下ろしてくる。
「その子は屋根裏の——」
「“ぼろ雑巾”と呼ぶのは、今日で終わりです」
わたしが言うより早く、ルークが言った。
少年の声は澄んでいて、よく通る。クラリッサが眉をひそめる。
「使用人風情が、無礼を」
「無礼は、誰かの名前を奪うことです」
わたしは階段の中央まで歩き、手すりにそっと触れた。
木肌に刻まれた傷跡は、何度も磨かれた痕。——わたしの両手の、日々の軌跡だ。
「クラリッサ様。わたしは“レミリア”です。
——名を返してください」
空気が、少し沈む。
ホールの時計が、遅れた振り子を取り戻すように鳴った。
クラリッサの唇が何かを言いかけて止まり、その代わりに乾いた笑いが落ちる。
「名を返す? 滑稽ね。名は与えられるもの。あなたのような子に、名を——」
遠くで、鐘が一度だけ鳴った。
それはセラの声によく似た、透明な響きだった。
その瞬間、わたしの中で、返すべき言葉はもう整っていた。
「名は、呼び合うものです。
わたしがわたしを“レミリア”と呼ぶ。
——それで十分です」
クラリッサの瞳に、わずかな苛立ちが走る。
彼女の足もとで、絨毯の模様の上を風がひと筋走り抜ける。
ホールにいた従者やメイドたちが、小さくざわめいた。誰かが、わたしの顔を初めて“見る”みたいに真正面から見つめる。
沈黙。
それはかつて、わたしを締め上げる縄だった。
いま、沈黙は舞台の幕だ。次の台詞を待って、静かに垂れている。
クラリッサが視線を逸らしたとき、階段の踊り場に別の影が現れた。
伯爵。屋敷の主。
彼はわたしを見下ろし、ひと拍の間を置いてから、低く言う。
「名は、確かに本人のものだ。……ならば問おう、レミリア。おまえは何者だ?」
——これは叙勲式じゃない。だけど、心の形は似ている。
わたしは胸に手を置き、逃げない声で答えた。
「レミリア。屋根裏の少女。声で世界と繋がる者。
“ぼろ雑巾”と呼ばれてきた子ども。
そして、呼ばれ名を終わらせる者です」
広間にわずかな笑いが走り、すぐに消えた。揶揄ではない。固いものが少し緩むときに漏れる、安堵の笑いだ。
伯爵の肩がほんの少し下がる。
彼は階段を下り、わたしと同じ高さに立った。
「……屋敷に残るか、去るか。選べ」
「残るなら条件があります」
「言ってみろ」
「屋根裏の鍵を開けてください。二度と、誰も閉じ込めない。
それから、使用人たちの呼び名を“名”にしてください。“おい”や“それ”をやめて。
最後に——食堂のドアを、昼だけでも開けておくこと。誰の声も届くように」
条件はすらすら出てきた。
ここへ戻る道で、ルークと何度も練り直した。怖がりながら、笑いながら。
伯爵は驚いた顔をして、それから噛みしめるように頷いた。
「……お前は、戻ってきて変わったな」
「わたしは“戻った”んじゃありません。
——やっと“来た”んです。ここに」
クラリッサが舌打ちし、踵を返す。
その背に、わたしは声をかけなかった。追いかける言葉はある。でもいまは、選ばない。
赦しは強制できない。赦すのは、いつだって互いの声が出会った後だ。
◆
屋根裏の扉が開いた。
鍵穴の錆びた音は、小さな時代の終わりの合図に聞こえた。
かつて世界のすべてだった薄暗い天窓、床板の節、釘の頭、折れた藁布団、ぺしゃんこの枕。
一つひとつに手を触れる。触れながら、心の中で名前をつけ直していく。
——ここは、監獄ではない。
——ここは、出発点だ。
ルークが腕まくりをした。
「掃除しよう。“ぼろ雑巾”じゃなくて、ちゃんとした雑巾で」
笑って、わたしも頷く。
床を拭く音、窓を撫でる布の音、埃が舞い、それが光を増す。
ふたりで磨くと、屋根裏は、驚くほどすぐ明るくなった。
夕方、初めての“食堂の開け放ち”が行われた。
使用人も、下働きも、メイドも、庭師も、皆が同じテーブルに向かい合う。
ぎこちない沈黙のあと、最初の声は思いのほか幼かった。
「……その、ぼく、庭の水やりをもっと朝早くにしたほうがいいと思います」
誰も笑わない。伯爵が頷き、庭師頭が「やってみよう」と短く答える。
それだけのやりとりで、空気が柔らかく変わる。
声が、席順を整え直していく。
わたしはテーブルの端で、その景色を目に焼きつけた。
胸の奥で、セラの気配が微かに揺れる。
——よく、還ったな。
「ただいま、セラ」
誰にも聞こえない声で、わたしは囁いた。
◆
季節がひとつ変わるころには、屋敷の“昼の開放”は街でも噂になり、行き場のない子どもたちや、言葉を持て余した大人たちが訪れるようになった。
わたしたちは食堂の隣に小さな部屋をこしらえ、板に「声の教室」と書いた。
教室は学校ではない。読み書きや計算を教える場所でもない。
たったひとつだけ、繰り返し練習する。
——自分の声を、名に結ぶこと。
最初の授業は、いつだって静かから始まる。
息を吸って、吐く。
喉の形を確かめるように、ひとつ音を置く。
「わたしは」
「ぼくは」
「私は」
短い主語が、その人の背骨を一本、一本、立てていく。
次に、名前を言う。
最初は誰もが小さな声だ。
けれど、三度目、五度目、十度目には、同じ名前が別の響きになる。
それを、わたしは何度でも聴く。何度でも頷く。
ある日、教室にクラリッサが立った。
彼女は扉のところで少し躊躇い、すぐにいつもの背筋を取り戻した。
「覗きに来ただけです」
「いらっしゃい」
わたしは席を勧めなかった。彼女の足は、まだこの部屋に根を張る準備をしていない。
クラリッサは壁際に立ったまま、子どもたちが自分の名を言うのを見ていた。
帰り際、踵を返す前に、彼女は小さく言う。
「……あなたのそのやり方、うるさくないのね」
「静かに始めるから。沈黙を嫌ってるわけじゃない」
「ふん」
鼻で笑って、去っていく。
扉が閉まったあと、セラが微かに笑ったような気がした。
——赦しは、いつも遅れてやって来る。
——だが遅い赦しほど、深い。
◆
冬の入り口に、街の小さな教会から依頼が来た。
礼拝堂を週に一度、子どもたちのために貸してくれるという。歌の会をやらないか、と。
わたしは承諾し、ルークと曲を作った。
歌詞は長くない。名前と、短い希望だけ。
レミリアは、ここにいる
ルークは、ここにいる
あなたは、ここにいていい
わたしたちは、ここにいる
初めての歌の会で、わたしは手を震わせた。
屋根裏の天窓の冷たさが、掌の奥にまだ残っている。
けれど、鍵はもうどこにもない。
子どもたちが歌い、大人たちが目を伏せて涙ぐむ。
誰かが嗚咽し、誰かが肩を抱く。
声は、痛みを無かったことにしない。
痛みが通り過ぎられるように、道を照らすだけだ。
歌が終わると、礼拝堂の鐘がひとつ鳴った。
誰も綱に触れていないのに。
セラが、そこにいる。
——レミリア。
——声は、もうお前一人のものではない。
——届いた声の数だけ、世界は軽くなる。
「セラ、あなたはどこへ行くの?」
問いは胸の内で浮かぶだけ。
答えは風になって頬を撫でる。
——どこにも行かない。
——声があるところ、私はいる。
◆
春。
屋根裏の天窓はすっかり磨かれ、窓枠には小さな花鉢が並んでいる。
新しく来た子たちは、最初にここへ案内される。
わたしは決まって窓の鍵を外し、天窓を押し上げる。
冷たい空気が頬に触れ、光が床を少しずつ移動する。
「ここは、わたしが“最初に空に触れた場所”」
子どもたちが目を丸くする。
「こわかった?」
「うん。すごく。でも、手を伸ばしたら、怖さの形が変わったの」
わたしはゆっくりと息を吸い、子どもたちを見渡す。
ひとりは両手をぎゅっと握りしめ、ひとりは口の中で自分の名を練習している。
もうひとりは、天窓から見える青に涙を浮かべている。
「——ねえ、みんな。空に触れる方法を教えるね」
わたしは指を一本立てる。
「ひとつ。息をすること。
ふたつ。自分の名を呼ぶこと。
みっつ。だれかの名を、間違えずに呼ぶこと」
子どもたちは頷き、真似をして指を立てる。
その顔は真剣で、同時に少し誇らしい。
「最後に、これがいちばん大事——一緒に歩くこと」
笑い声がこぼれ、土の匂いの風が部屋を横切る。
ルークが足音を忍ばせて入ってきて、目だけで「準備できた」と合図する。
今日は街の広場で、初めての“声の市”を開く日だ。
楽器を持たない人は拍手で、言葉が見つからない人は沈黙で参加する。
沈黙は罰ではなく、合図。
——「ここにいるよ」と、同じだけ強い声。
◆
広場に人が集まる。
屋台の鍋が湯気をあげ、幼子が走り回る。
鐘楼から一度だけ鐘が鳴り、わたしたちは輪になった。
「最初は、自己紹介を」
ざわめき。恥ずかしさ。笑い。
それでも、声は一つ、また一つと生まれていく。
「わたしは、マリア。パンを焼きます」
「ぼくは、ハンス。魚を運びます」
「オレは、イオ。……手が震えるけど、ここに居たいです」
名は短く、しかし世界を繋ぐ。
途中で、クラリッサが歩み出た。
人々が道を空け、わたしは彼女に目を向ける。
彼女はいつもより少しだけ疲れて見えた。
息を整えてから、短く言う。
「クラリッサ。……この街に、います」
それだけだった。
けれど、広場は静かに息を吐いた。
手を叩く者はいない。誰も囃し立てない。
ただ、名が輪の中に置かれ、輪がそれを受け取った。
——赦しは、こうやって形になるのだ、とわたしは思った。
派手な抱擁も、涙の顛末もいらない。
「いる」と言えて、「聞いた」と返せれば、それでいい。
夕暮れ、輪は自然に崩れ、広場はいつもの暮らしに戻る。
ルークが隣に座って、肩を寄せる。
「ねえ、レミリア。思うんだ。君が最初に出した声って、きっと“助けて”だった」
「うん」
「いまの君の声は“どうぞ”に聞こえる」
わたしは笑った。
「あなたの声は、いつだって“いっしょに”だね」
「そうだと、いいな」
空の高いところで、鳥が一羽、輪を描く。
鐘楼は沈黙している。でも、それは罰の沈黙じゃない。
歌の余韻のような、やさしい静けさだ。
◆
夜。
屋根裏の天窓の下で、わたしはひとり、古い藁布団に座って空を見た。
この場所はもう、牢ではない。
ここはいつでも、どこへでもつながる観測台だ。
「——セラ」
呼ぶと、風が返事をした。
言葉ではない。けれど、確かにわたしの名を撫でていく。
「あなたは、まだ“外”にいるの?」
風が頷く。
わたしも頷いて、微笑む。
「わたしは、中にいるよ。
声の中。
たくさんの名のまんなかに」
天窓の外に、小さな流れ星がひとつ走った。
願いごとは言わない。
もう、願いは“声”にして、昼の広場に置いてきた。
それを誰かが拾って、自分の名で呼び直してくれるだろう。
わたしは胸に手を当てる。
鼓動は昔と同じ速さで、でも、叩いている相手が違う。
世界の内側を、たしかに叩いている。
「——おやすみ、レミリア」
自分で自分に言ってみる。
それは、屋根裏でずっと待っていた言葉だった。
だれかが言ってくれるのを待つのではなく、わたしがわたしに贈る、最初の子守唄。
目を閉じる直前、遠くで鐘が一つ鳴った。
その響きは、わたしの体を通り抜け、街を撫で、森を渡り、白い塔のある場所へ届いたに違いない。
——声は、還る。
出ていった場所に、いつか、かたちを変えて。
“ぼろ雑巾”と呼ばれた少女の物語は、ここで終わる。
でも、レミリアの物語は、ここから続く。
明日の教室で、だれかの名を一緒に呼ぶために。
そして、また新しい“始まりの音”を聞くために。
静かな夜。
世界は眠り、声は息をひそめる。
わたしも、そっと目を閉じた。
——おやすみ。
——おやすみ、世界。
——おやすみ、わたし。
(完)




