第6章 王は沈黙の中で待っていた
森を抜けると、そこはまるで別の世界だった。
空気は澄み、土は柔らかく、どこからともなく“音”が生まれては消えていく。
風の揺れ、枝の擦れる音、遠くの水の流れる音――どれもが、かすかに声のようだった。
ルークが足を止めた。
「ここが……“声の国”?」
わたしは頷く。胸の奥で、何かが静かに脈打っていた。
セラの気配は感じない。けれど、空の上に見えない目があるような、そんな視線を感じる。
草むらの奥に、白い塔がそびえていた。
石ではなく、まるで光そのものを固めたような質感。
塔の表面には無数の文字が浮かび、それが風に合わせてゆっくりと流れている。
――声の記録。
過去に“語られたすべての言葉”が、ここに刻まれているのだと、直感でわかった。
「ねえ、レミリア。あれ、誰かいる」
塔の前に、一人の男が立っていた。
白い衣を纏い、髪は灰のような色。
瞳は深い金色で、見る者の心を映す鏡のようだった。
彼は静かにこちらへ顔を向けた。
「……ようやく来たか」
低く、柔らかい声。
けれど、その一言に、世界の重みが宿っていた。
わたしとルークは、思わず足を止めた。
「あなたは……誰ですか?」
「私は“声を封じた王”。この国を守る最後の者だ」
王はゆっくりと手を差し出した。
その指先に、かつて神殿で見たことのある印が刻まれていた。
“沈黙の契約”――声を代償に平和を得る古の術。
「なぜ、あなたは沈黙を?」
「……かつて世界は、言葉によって壊れた。
祈りが呪いになり、歌が戦いを呼んだ。
私はそれを止めるために、すべての“声”を封じたのだ」
その声には痛みがあった。
わたしの胸の奥がずきりと痛んだ。
沈黙は、守るためのものだった。
けれど――わたしは、知っている。沈黙の裏には孤独がある。
「……でも、沈黙は救いじゃない」
王が目を細めた。
「なぜそう思う?」
「声がなければ、誰も届かない。
わたしは屋根裏で、それを知りました。
呼ばなければ、世界は動かない。
だから、わたしは声を上げたんです」
風が吹いた。
塔の壁に刻まれた文字がざわめき、幾千もの囁きが空へ溶けていく。
王はその音を背にして、静かに目を閉じた。
「……レミリア。お前の声は、神々の沈黙を破った」
「それでも、あなたは止めようとするんですか?」
「私は恐れているのだ」
王の声が震えた。
「声を取り戻せば、再び争いが生まれる。
世界は、痛みに耐えられない」
ルークが前に出た。
「でも、黙っていたって、痛みは消えないよ」
その言葉に、わたしは息をのんだ。
彼の声が、森の奥まで届くように響いた。
「声があるからこそ、人は気づく。
謝ることも、笑うことも、名前を呼ぶこともできる。
それを奪ったら、ただ“息をしている影”しか残らない」
王はルークを見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
その瞳に、わずかな光が宿った。
「……お前は、恐れを知らぬ子だな」
「恐いよ。でも、恐いまま話すんだ」
沈黙が落ちた。
やがて、王は右手を上げ、わたしに向けた。
「レミリア。お前に問う。
沈黙を破り、声を世界に戻す覚悟があるか?」
わたしはうなずいた。
「あります。
たとえ、誰かに嫌われても。
たとえ、また“ぼろ雑巾”と呼ばれても。
わたしは、声を捨てません」
その瞬間、塔が光った。
無数の文字が浮かび上がり、宙に舞う。
それぞれの文字が音へと変わり、空に還っていった。
風が唸り、世界が鳴動する。
王の身体が淡く透けていく。
「……ありがとう。
お前たちが来るのを、ずっと待っていた」
「王様……!」
「私はもう、いらぬ。沈黙の時代は終わる。
これからは“声を繋ぐ者たち”の時代だ」
彼の輪郭が崩れ、光の粒となって空に散った。
その光は風に乗り、わたしたちの周りを巡った。
耳を澄ませると、どこからか懐かしい声が聞こえた。
——レミリア。
——よくやった。これが“赦し”だ。
「セラ……!」
風が頬を撫でた。
それは、まるで“触れられる声”のように柔らかかった。
「レミリア」
ルークが微笑んだ。
「君の声、ちゃんと届いたね」
「うん……あなたの声も、わたしを助けた」
二人は見つめ合った。
光が塔の上から流れ落ち、森の外へと広がっていく。
遠くで鐘が鳴った――それは、誰かが「生きている」と告げる音。
風が囁いた。
――声は、命そのものだ。
――沈黙を越えて、語れ。
わたしたちは歩き出した。
もう、屋根裏の少女でも、ぼろ雑巾でもない。
名を持ち、声を持ち、世界と向き合う“ひとりの人間”として。
足元の草が揺れる。
その音も、風も、鳥のさえずりも――
すべてが、祝福のように聞こえた。
そして空の彼方で、セラの声が最後に囁いた。
——レミリア。お前の声は、世界に残る。
——それが、沈黙への最大の赦しだ。
光が消え、朝が始まった。
わたしは空を見上げ、静かに呟く。
「ありがとう」
風が応えた。
まるで、世界そのものが微笑んでいるようだった。




