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虐げられた幼女、屋根裏から世界を変える声をあげた。  作者: 妙原奇天


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第4章 空に触れる方法

 夜が明けた。

 薄い雲が溶けるように散り、屋根裏の天窓から光が差し込む。

 ルークは眠っていた。折り重なる古い毛布の上で、肩を小さく上下させながら寝息を立てている。

 彼の髪に朝の光が当たって、濡れた金色がゆらめいた。


 ——人の声は、光と似ている。

 誰かがそれを受け取って初めて、世界を照らす。


 わたしは小さく息を吐き、指先を組んだ。

 セラの声が昨日から聞こえない。

 でも、それでいい気もした。

 彼の沈黙が怖くなくなったのは、きっと、ルークという「もう一人の聞き手」がいるからだ。


「……ねえ、起きてる?」

 毛布の中から、くぐもった声が返る。

「うん。お腹が鳴って起きた」

「ごめん、食べ物は……」

「いいよ、慣れてるから」

 ルークは笑って立ち上がる。

 その笑顔が、どうしてか懐かしかった。

 誰かが“わたしに笑って見せてくれる”ことなんて、いつ以来だろう。


 彼は天窓の縁に登り、外を覗いた。

「屋根の上に行けそうだ」

「危ないよ」

「平気。ぼく、孤児院でよく抜け出してたから」


 彼は細い腕で枠をつかみ、身を滑り出させた。

 朝の風が一気に流れ込み、埃が光の筋の中で踊った。

「ほら、来てみなよ。空気がきれいだ」

 彼の声が外から聞こえる。


 わたしは少し迷ってから、手を伸ばした。

 木の枠のささくれが指に刺さる。

 でも、痛みの向こうに“外”がある。

 何かが壊れる音を立て、心の中で枷が外れていく。


「……怖い」

「大丈夫、手を貸すよ」


 ルークの手が、わたしの指先を掴んだ。

 屋根の上に出た瞬間、息が止まる。

 風の匂いがした。草の湿り気と、遠くのパン屋の香ばしい匂いが混じっている。

 世界が、こんなにも広かったなんて。


 下を見れば、庭が小さく見える。

 昨日まで自分の世界の全てだった屋敷が、まるで玩具の箱みたいにちっぽけだ。


「わあ……」

 思わず声が漏れた。

 ルークは隣で笑っている。

「ね? 空に触れる方法って、簡単なんだよ」

「え?」

「高い場所に登ることじゃない。風を感じて、自分が生きてるって思うだけで、もう触れてる」


 その言葉が、胸の奥で静かに広がった。

 風を感じる。生きていると思う。

 それだけで、わたしの中に“声”が溶けていく。


 ——レミリア。


 セラの声が、久しぶりに響いた。

 ——その少年の言葉は、正しい。

 ——触れるとは、境界を溶かすことだ。


「セラ……戻ってきたのね」

 ルークが不思議そうに首をかしげた。

「また、あの声?」

「うん。彼は、天の外にいる人」

「外……か」

 ルークは、少し目を細めた。

「ぼくも、外に行きたいな」

「どこに?」

「街の壁の外。昔、教会の本で読んだんだ。壁の外には“音が眠る森”があるって。そこでは誰でも、声の主になれる」


 音が眠る森。

 その言葉に、セラが静かに反応した。

 ——その森は実在する。

 ——お前の声が届いたのも、そこを経由したからだ。


「……そこに行けば、もっと声が届くの?」

 ——ああ。ただし、覚悟が要る。

 ——その森では“沈黙を守るもの”が徘徊している。声を恐れる者たちだ。


「沈黙を守るもの……?」

 ——神々の残響だ。かつて、声を禁じた存在たち。


 ルークが眉をひそめた。

「つまり、神の敵?」

 ——違う。沈黙は必要だ。だが、永遠の沈黙は、死だ。


 風が強くなった。

 屋根瓦がきしみ、二人の髪が乱れる。

 セラの声が遠ざかるように薄れていく。


「レミリア、森へ行け」

 ——声が導くだろう。


 声が途切れた。

 わたしとルークは顔を見合わせた。

「……森へ行けって」

「じゃあ、行くしかないね」

「でも、わたし、外に出たらきっと捕まる」

「ぼくが連れてく。屋敷の裏の排水路を知ってるんだ。夜になったら抜け出そう」


 彼の言葉に、心が熱くなった。

 わたしのために、誰かが“何かをしてくれる”。

 それが嬉しくて、怖かった。


「ルーク」

「うん?」

「ありがとう。でも、もし危険だったら逃げて」

「逃げないよ。ぼく、もう一人で生きるの飽きた」


 彼の笑い方が、まっすぐで、少し泣きたくなる。


 その夜。

 屋敷は静まり返っていた。貴族の晩餐が終わり、クラリッサも寝室に引き上げている。

 ルークが合図をする。

「行こう」


 わたしは裸足のまま廊下を抜け、裏口の鍵を開けた。

 外の空気は冷たい。夜露が肌を刺す。

 ルークが先に身を屈めて排水路へ降りた。

「手を」

 その手を掴む。


 外に出た。

 屋敷の壁を越えた瞬間、胸の奥が震えた。

 “ぼろ雑巾”という名札が、どこか遠くへ飛んでいった気がした。


 夜風が草を揺らし、遠くの森が影のように広がっている。

 そこが——音が眠る森。

 わたしの“声”が導いた場所。


「ルーク」

「うん?」

「わたし、こわい。でも、行きたい」

「じゃあ、行こう。こわくてもいい。行くって決めたなら、それで十分だ」


 彼はわたしの手を強く握った。

 そのとき、空が鳴った。

 雷ではない。

 “鐘”の音が、どこからともなく響いた。

 まるで、天が二人を見つめているような、透明な響き。


 セラの声が、再び届く。

 ——レミリア。

 ——その少年と共に行け。声の交わる場所へ。


 わたしはうなずいた。

 屋敷の屋根が遠ざかり、道が続く。

 夜明け前の空に、淡い金の線が差し込んでいた。


 その光を追いながら、わたしは初めて“声を出す”以外の方法で世界に触れた。

 それは、歩くという行為。

 一歩ごとに、地面が応える。

 声を出さなくても、世界が返事をくれる。


 「ねえ、ルーク」

「ん?」

「空に触れる方法、もう一つ見つけた」

「なに?」

「一緒に歩くこと」


 ルークが笑った。

「それ、すごくいい方法だ」


 二人の影が、夜明けの道に伸びていく。

 風が吹き、遠くで鳥が鳴いた。

 それは、まるで新しい世界の合図のようだった。

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