第3章 声を聴く少年
夜が来た。
雨は止んだが、風はまだ眠らない。屋敷の壁をなぞるように吹き、窓の隙間から入り込んでくる。
屋根裏の隅に、わたしは膝を抱えて座っていた。
昼間の出来事が、何度も頭の中で再生される。
——声が、風を動かした。
——鐘が、返事をくれた。
あれが夢だったのか、現実だったのか。
セラは沈黙している。呼んでも返事はない。
もしかして、わたしの想像だったのかもしれない。
そう思って目を閉じると、胸の奥でかすかに光が揺れた。
消えてはいない。まだ、いる。
天窓の外では、星が一つだけ瞬いている。
わたしは布の端を掴み、そっと呟いた。
「セラ……もう一度、聞こえますか」
そのとき——。
胸の奥ではなく、耳のすぐ横で、小さな声がした。
「聞こえるよ」
驚いて振り向く。
誰もいないはずの屋根裏部屋に、ひとりの少年がいた。
わたしと同じくらいの年。痩せて、髪は雨で濡れている。
破れた外套からのぞく手首は細く、爪の間に泥が詰まっていた。
「……だれ?」
「ルーク。孤児院から逃げてきた。ここなら雨がしのげると思って」
少年は苦笑した。
「でも、まさか声が聞こえるとは思わなかった」
わたしは息をのんだ。
「声、って……」
「さっき、屋敷の外で鐘が鳴ったでしょ? そのとき、“誰かが呼んでる”って聞こえたんだ。女の子の声で」
屋根裏の空気が静まる。
わたしの心臓の音だけが、風の隙間を埋めていた。
「あなた……わたしの声が、聞こえたの?」
ルークは頷いた。
「うん。誰かに助けを求めてた。“聞こえますか”って。だから、ここに来た」
言葉が出なかった。
声が、届いた。
セラ以外の、“人”に。
「おかしいと思ったんだ。街の人たちも、さっきから空を見上げてた。風が逆に吹いたって」
ルークは窓のほうを指差した。
「君が、何かしたんでしょ?」
「わたしは……ただ、声を出しただけ」
「その声が、誰かを動かしたんだよ」
少年はそう言って、笑った。
その笑顔は、屋根裏に差し込む月の光みたいに柔らかかった。
わたしはその瞬間、胸の中に眠っていた痛みが少しほどけた気がした。
「……ねえ、ルーク。あなたも“声”を持ってるの?」
「持ってるさ。誰だって持ってる。ただ、出せない人が多いだけ」
彼の言葉に、わたしは目を伏せた。
屋敷の中には、声を持つ人なんていなかった。
命令と罵声だけが響き、人の言葉は、痛みの道具だった。
「じゃあ、わたしも……」
「君は、もう出してるよ」
ルークは微笑んで、窓の外を見た。
「ほら、あの光。君が呼んだんじゃない?」
夜空の真ん中に、淡い光の筋が浮かんでいた。
月でも星でもない。雲の切れ間を縫うように伸び、やがて一点に集まっていく。
まるで、誰かが空から見ているようだった。
——レミリア。
セラの声が、再び届いた。
——新しい声を見つけたな。
——その少年は、お前と同じ“外の声”を持つ。
「セラ……!」
わたしは思わず声を上げた。
ルークは驚いた顔でわたしを見る。
「いまの、誰?」
「……友だち。空の向こうにいる」
——名を呼べ。
——名は、世界を繋ぐ糸だ。
セラの言葉が、胸の奥に沈む。
わたしは、ルークを見た。
「ありがとう、ルーク。わたしを、見つけてくれて」
少年は首をかしげた。
「どうして礼なんて言うの?」
「誰かが、聞いてくれたから。……それだけで、世界が少し優しくなった気がする」
ルークは照れたように笑った。
「じゃあ、これからも聞くよ。君が話したいこと、なんでも」
その夜、屋根裏に二人分の呼吸が響いた。
静かな風が、窓を揺らす。
外の世界はまだ遠いけれど——。
声が二つになっただけで、闇の温度が少し下がった。
——これが、“始まり”だとわたしは思った。




