第2章 屋敷の外へ落ちる音
階段を下りるたび、足の裏が痛んだ。裸足のままでは、木のささくれが刺さる。けれど靴を履くことは許されない。ぼろ雑巾に靴など、贅沢だから。
扉の向こうには、主婦人クラリッサの影があった。
彼女は花の刺繍が入ったハンカチで口元を押さえ、わたしを見下ろした。
「また顔を上げているの? みっともないわね」
「……申し訳、ありません」
「謝る暇があったら、玄関の敷石を磨きなさい。来客があるのよ。あなたのような汚れを見せたら、評判が落ちるわ」
磨く。拭く。擦る。
朝から晩まで、わたしの手は世界を少しも変えない仕事をしていた。
でも、昨夜から胸の奥で光る“声の残響”が消えなかった。
セラ——堕ちた天の声。
“声は恐れの居場所を縮める”
あの言葉が、ずっと頭の中で回っていた。
クラリッサが去ると、玄関の外の風が通り抜けた。
夕立のあとで、空気が湿っている。遠くで雷の余韻が鳴った。
わたしは石畳を磨きながら、ふと手を止めた。
耳の奥に、微かな震えが戻ってくる。
——聞こえるか、レミリア。
——世界が少しだけ動いた。
「動いた?」
思わず口に出してしまう。
周りを見ても、誰もいない。屋敷の庭師も馬車の従者も、今は奥に引っ込んでいた。
空には黒雲が流れ、陽が射し込む隙間がひとつだけできている。
——お前の声が、風を生んだ。
——小さな声でも、届く相手がいれば変化は起こる。
「……わたしに、できることがあるの?」
問いはささやきになった。
その瞬間、玄関の扉が音を立てて開いた。
伯爵——屋敷の主が現れる。背は高く、金糸の刺繍入りの上着を着ている。
「おい、ぼろ雑巾。何をしている」
呼び名が胸に突き刺さる。
「す、すみません、今すぐ——」
「言い訳はいらん。客の馬車が来る。そこをどけ」
彼の靴先が、わたしの手元のバケツを蹴り飛ばした。
水が飛び散り、石畳に映っていた陽の筋を消す。
——恐れるな。声を出せ。
セラの声が、再び内側で響いた。
けれど声を出すことは、屋敷では罪だった。
喋れば叩かれる。反論すれば罰を受ける。
だから喉の奥が固まる。肺が縮む。
それでも——。
わたしは顔を上げた。
伯爵の影を見上げるのではなく、彼の背後に広がる空を見た。
雲の裂け目から、光が差していた。そこに向かって、静かに息を吸い込む。
「——聞こえますか」
わたしの声は、風に乗った。
伯爵の怒鳴り声よりも早く、庭の木々がざわめく。
空気が震え、落ちたバケツの水面が細かく揺れた。
遠くの塔の上で、鐘が鳴る。
それは時を告げる音ではなかった。
まるで、わたしに応えるような——祈りの反響。
伯爵が目を見開いた。
「……いまの音は、なんだ?」
「わかりません」
「お前が、何かしたのか」
わたしは答えなかった。
けれど胸の奥で、セラの声が微かに笑った。
——よくやった。
——その一言が、最初の“変革”だ。
雷が鳴り、雨が再び落ち始める。
屋敷の中に駆け込む人々を横目に、わたしは空を見上げた。
雲の奥に、見えない光の輪が一瞬、きらめいた。
——屋根裏の囚われ姫。お前の声を恐れる者が、これから増える。
——だが同時に、その声を求める者も現れるだろう。
ぼろ雑巾と呼ばれた少女の世界が、いま確かに動き始めていた。
(続章では、声に導かれた“外の世界”の異変と、レミリアが初めて出会う「彼女を名で呼ぶ人間」——孤児院の少年ルーク——が登場します。そこから物語は「声で世界を変える少女」から「声を共有する者たち」へと進化していきます。)




