36歳クソニート風邪をひく
プロローグ
喉の風邪に掛かった。クソニートには免疫力が無いので当然のように掛かった。
男は手洗いうがいをまめにするが、家庭内3人目なら仕方のない事のように思えた。
症状は熱が出て、辛く、喉が金属飲んでいるように痛むようだった。
両親の二人は既に寛解していた事もあり、不安は考えなかった。
1日目
男は長男だ。長男なのに家族に耐えさせるクソニートであるため、弱音と痛みはなるべく飲み込む意味のない抵抗をしていた。
熱は辛く、体は起こせず、呼吸は苦しく、嚥下する行動全てが痛かった。ただ、耐えるのは難しくなかった。
しかし手指の感覚が無いのは問題だった。これだけは許せなかった。
男は手足と太腿と丹田に熱量さえあれば血は巡ると思っているクソニートなので、全ての気力で体を起こし、シャワーを当てに風呂場へ向かった。
結果、痺れは弱くなったので、その後1時間風呂場とドアの間で横たわる羽目になり、起こせるようになった体でさめざめと再度シャワーに戻ろうとも満足であった。
2日目
熱は辛かった。しかし39度に入っていないのに辛いと言うのは甘えではないのか。男は逆説的に熱さえ下がれば楽になると信じる事にした。
ゼリー飲料にてカロリーを摂取し人造顔首冷却材人間になりながら、何もせず過ぎ去るらしい時を求めた。
しかし、問題は精神面のほうであった。明らかな疲弊であった。
「横になっているだけでも疲れは取れる」との母上様の金言に従い横になり続ける愛すべきベッドは、
喉と歯と骨と頭痛、つまり途切れない意識、とめどなく舌下腺から溢れる唾液、
数呼吸に一度、後鼻漏によって鼻から流れ落ち続けるモノを排除するため喉を動かす激痛を伴う行為、
口端左端から流れ落とす唾液に新鮮な塵紙を当てがうインサーターと化した手が動いていた。そこはさながらセルフ処刑場であった。
クソニートはこの世界から消失した快よさを求めシャワーへと向かった。そこには物理的な温かさがあった。
最悪な体は溺れる可能性を加味しても風呂に入るべきだ。と提案したので男はお湯を張りはじめたが、数刻後には暖かき闖入者のおかげで解熱薬を飲みなおし体は愛すべき処刑場に戻ることができた。
3日目
良い話と悪い話がある。熱は安定したといっていい段階に入った。そして悪い話は、熱が下がっても一切楽にならなかった事だ。
何も変わらぬ喉の痛さ、咳、悪化する歯痛、悪化する頭痛、忘れていただけの関節痛、肩凝り。基礎スペックの低さは伊達ではなかった。
気合を入れずとも上体を起こせるようになったので、痛みを我慢するだけで大抵の事は出来るようになった筈だった。しかしクソニートにはすべき事が無かった。
ふと最悪な事に、一睡もする事が出来ていないという予感が芽生えた。
30分横になり咳1度で目覚めるまでの推定睡眠時間は5分かそれ以下、体感は0。
実は眠れているだろう。ばかばかしい。タイマー機能を使い測った。眠れてないという予感は実感になった。
!このままでは発狂してしまう!のは間違い無かった。父親が睡眠導入剤を持って居るのを男は知っていたので軽く交渉をした。一蹴。
精神に摩耗を感じていた男はシャワーに向かった。シャワーから得られる一時の平穏は真実であった。
4日目
体温は平熱になった。
しかし、何一つ良くなってはいなかった。体の状態は最悪だった。左前歯の痛みは丸薬を詰め込んだ。
右の顎関節は強く触ると大きな音を出しズレる玩具のようになり、クソニートの暇な肉体はそれを嬉々として弄んだ。
結果鈍い痛みが熱を持ち保持され、頭の側部に鉄球が入ったようだった。下唇の一部は繰り返し当てがった塵紙で擦れ腫れた。
喉は相変わらず痛み、薬が切れれば呼吸も辛かった。
でもそんな事は全て些細な事だった。
男はシャワーへ向かった。体力も無かった。思考能力も僅かだった。ただ気力を温水で誤魔化していた。
男はそれしか考えていなかった。どうすれば眠る事が出来るのか。
もはや発狂は冗談ではなくなっていた。
PM7:00
夜食は鳥がゆだった。男の家族はまるで聖人である。いうまでも無いが。
喉が痛い。美味しい。薬を飲む。解熱剤は痛み止め成分の他に睡眠成分も入っている。
当然のように眠れないが。
クソニートの体が顎関節を破壊してしまう。シャワーへ行き暖め位置を調整する。眠る確信を持ち男は寝室へと向かった。
PM8:00
髪を乾かすのに手を抜いたせいで冷えて眠れない痛恨のミスを起こす。薬も時間切れ。男はクソニートである。
PM9:00
部屋の室温やシーツの状態体の不具合に対処しながら横になり続ける。
PM10:00
眠れず。
PM11:00
眠れず。
シャワーへ行く。
AM2:10
完璧な薬のタイミング完璧な服装完璧な室温の状況が完成した。
男は眠った。
閑話。
疲労下で眠ると夢もなく瞬きのように朝を迎える事がある。
20年以上昔、当時まだ真人間だった男は、ゲームキッズだったのにも関わらず父親の富士登山に付いて行った。
行ってみたかったからだ。五合目登山ではあったが擦り切れた体力で、雑魚寝の布団にチェックインした。
あれほど寝つきが良かった覚えはない。しかし日の出より夜の月が綺麗だった。
幽体離脱の本を試した事がある。リラックスして体を沈み込ませたり上体だけ起こしたり。あれはマスターしたかったな。
一瞬だけ眠ろうとしたことがある。そして起きられずに沢山寝てしまうのだ。
少し意識が浮いた後、そこは今だった。
体を落ち着け、眠る事に集中する。少しの浮遊感。少しの浮遊感。少しの浮遊感。
瞬間を繰り返して理解する。冗談だろ?馬鹿げてる。
「この体は睡眠という機能が壊れたのでは?」
睡眠への完璧な状況下であった。これ以上の条件は望めないそんな状況であった。
男は必死だった。眠る事に全力であった。そして一つの糸が切れた。
AM3:10
薬の時間切れだ。呼吸が浅くなり、咳をすれば痛みが滲む。仮に眠れても咳一つで起きるのだ。
ここで眠れなければ気が狂うと本気で感じていた。思える状況であった。
男は家族が寝ている傍をすり抜け、睡眠導入剤の容器を探した。目的のものは意外なほどすぐに見つかった。
男は数日前にべもなく断られたそれを一錠飲んだ。
AM4:00
男は眠れていなかった。それどころかあくびのひとつすら出なかった。しかしクソニートの顎関節は壊れた。
男は眠る事を諦めた。睡眠導入剤の強い成分が体を極度に怠くしただけであった。
AM4:35
男はシャワーに居た。ただ作業のように温水を当てていた。
すると、あくびが出た。
勝った。体は壊れてなどいなかった。一度出ると何度も出た。
二度。三度。四度。繰り返すうち眠れる気がした。
AM5:10
男が風呂場から上がると母上様が起きてくる時間帯であった。
「どうしたの?」
そう問われたので男は答えた。
「死闘であった。眠るのが下手なのではなく睡眠障害だよ。」
話が通じないと思われたのでいかに眠れないのが辛かったのか伝えたがあまり伝わらなかった。
でも男は勝利していたので後は眠るだけであった。
AM6:25
小さな浮遊感のようなナニカを繰り返しながら眠れる事を信じて目を瞑り続けた。
小さな夢を見た。男はカードに嵌まった小さなピンク色の宝石を取り出せなくて喚いている
喚きながらも取り出せたそれは床に落ち他人のものになった。男は喚いた。「いちえん~!いちえん~!」
目が覚めた。意味が分からない。しかし久々の笑いだった。時間は経過していなかった。母上様がご出勤なので玄関まで見送りに行った。
AM7:10
男は眠れていなかった。夢を一瞬見たのがエラーであり睡眠が起きない状況だと断じるのに時間は掛からなかった。
男はシャワーに行くことにした。もう全ては温水が解決する気すらした。
途中、父上様が寝ているのが見えた。いかにこの状況がきついか泣き言を言いたかった。
あまりにくだらない理由すぎて、辞めた。
AM7:40
男は眠らずに精神と体力を回復する手段を模索することにした。
そしてキッチンの前でゼリー型栄養飲料を手に持ち握り、飲んだ。
突如である。左顔面から心臓に向けて急速な血流を感じた。それはなにかの決壊であった。
それは止まらなかった。さながらナイアガラの滝が皮膚の下を行き来し続けているようであった。
これ、ヤバイやつか?そう思うまで数秒も掛からなかった。
男は死を覚悟する時間もなく実感した。
閑話。
死を覚悟した時に何をしたいだろうか。
まずはそう、PCのデータを消去する事だ。現代人最大の恥部の一つだろう。クソニートにとっても当然そうだ。
ロックを外し0で上書きするツールを起動し、数秒の動作を待ち、立派なニートであったのか単なるクソニートであったのかぐらいはシュレディンガーの箱に閉じ込めるべきだろう。
長年の友にも連絡がしたいかもしれない。今は友など居ないのだが。
死とは一瞬でやってくるものだった。今までもそうだった。
子供の頃、雪の日に転んだ。そして頭を車道に投げ出す形で、目の前に迫る車、タイヤを見た。減速無し。反応なし。死んだ。死ななかった。通り過ぎた一台を眺めた。
一度だけ遊んだことのある子が死んだ。葬式に行きたいと言ったが関係ない人が行くべき場所ではないと言われた。今でも心残りである。
中学の頃、親友と呼べる人が居た。そいつは凄い良い奴で、面白くてよく笑う奴だった。そいつは良い高校に勉強して入った。
俺は近さで選んだ場所で推薦を貰っていたので、行けたら定期券が強くなるなと思い、記念に同じところを受けたが算数が死ぬほど嫌いだったので当然落ちた。
後にそいつは父親が大変な状況にあって母親の為に頑張って入ったと人伝てに聞いた。俺は無力で馬鹿だった。
高校生の頃、性善説が死んだ。
昼休みに寝ている間、机の上に置いていた腕時計が盗まれた。安っぽい話だが、本当にどうしても大事なものだった。
他のもので代用出来るならなんでも用意するつもりだった。当然帰ってこなかった。次に買った時計は3日も経たず盗まれた。
男は1000円で買った時計を壊れても使った。男は人間不信になった。
センター試験の日、財布が盗まれた。ゴミ箱に保険証だけを残して捨てられていた。優しい犯罪者だった。しかし男の心は折れた。
男はニートになった。無限の時間は無限の睡眠に使われた。
家族は男を心配した。ニートは家族を心配しなかった。
ニートは死にたいと思うようになった。ファッションなスーサイダーだったが眠らなければ飛び降りる確信があった。
ニートはもうどこにも行くつもりが無かった。もう嫌な思いをしたくなかった。
紆余曲折あり不相応に良い大学に一度受かったが寮だと聞いて拒否した。
それでも大学に入れたがった家族にニートは一番近い誰でも入れる大学に無理を言い入った。
男は人生をやり直していると感じた。講義は面白かったが男のリアクションペーパーの速度は酷く遅く、恥ずかしかった。
初回の連続だった。大変だったのは、体を大学まで運ぶ体力がなくなっていたことぐらいだった。
体育があった。少し年食ってますねと知らない男子にからかわれた。
その日、体育の更衣室で、盗みの騒ぎがあった。男の授業中に起こった出来事だった。男は笑った。ここも駄目じゃんよ。
男とニートの心は、粉になってしまった。単位制であるため行かなくなった事の発覚は遅かった。世界一無駄な授業料が積み重なった。
男は、男の中だけで世界を救ったり壊したり宇宙を作ったりした。誰も喜ばなかったが、誰も悲しまなかった。親は悲しんだ。
ニートだった頃には出来る事があったがもはやクソニートになってしまった男には出来る事が無かった。
代わりに死にたいと思う事も無くなった。酒もタバコもやれない体はどこもボロボロで、どこも健康だった。
不安と後悔だけを重ねても生きる事は許された。クソニートは受動的な終わりを漫然と信じていた。
男は極限であった。クソニートには人生の後悔をする選択肢は無かった。
クソニートはPCの電源を入れる時間すら生きていられないと感じた。こんな何も無い人生であった事を見せたくなかった。
クソニートは両親に感謝したかった。真っ先に母親にメールを打った。
それは出来合いの恋愛小説より安っぽい愛と感謝の言葉で埋まった。本心だったが送るのを躊躇うほどだった。
死なない可能性に賭けてメールの画面で止めておくのが賢いと感じた。でも伝えずに死にたくなかった。呼吸は早くなり続けていた。
どう死ぬかだけの時間だった。クソニートは救急車を呼ぶつもりがなかった。
でも生きたかった。
クソニートらしく死ぬべき時が来ただけだったが、生きたかった。
男は奔流のような血の流れに抗い、きっと寝ているであろう父親を呼び始めた。使える酸素の全てを使い、言葉にすらならない言葉をとにかく叫んだ。
ややあって、父親が来た。申し訳ない事を伝えるための言葉が思いつかなかった。男はクソニートだった。何をどう謝れるのかすら分からなかった。
男は感謝した。何に感謝したのかすら分からない。ただ感謝した。一生に一度のお願いも使った。良い人生だったなと思った。
エピローグ
8月xx日、救急隊長が見たその男性患者は、半ケツで、天然パーマのロン毛の頭を押さえ、手すりのないデスクチェアにて蹲っていた。
「血流!が!おかしくて!
死にそうで!頭の!位置が!動いた!死ぬ!」等の発言を、頭を両手で抑えハキハキと過呼吸にて応答する。
パニック状態の患者と努めて冷静に接していく。
まずは半脱ぎのスラックスを履かなければならない。この症状で死んだ人は居ない、等。
冷静に落ち着かせ続ける。冷静に。そう、ただ努めて冷静に。ほどなくして患者は片手を頭から手を離すと、半脱ぎだったそれに両脚を通し、履いた。
片方の手ではまだ頭を抱えたままの患者に、右の掌を貸し、患者と歩いて救急車へ同乗。通報者の患者父親と、事情を聴いていた隊員、共に救急車内に到着、搭乗する。
ストレッチャーに乗せオキシメーターを付ける。健康だ。と伝える。過呼吸で酸素が100で貼りついている。生年月日と現在の症状を聞き出す。深呼吸を。
36歳。同年生まれだったようだ。
「同い年だね。」
「そう!ですか!ご立派!です!」
対話しつつ、どこの病院に搬送して欲しいか等、聞き出していく。患者は前置きをし、4日前、家庭内にて、風邪に感染した経緯から話し始めた。
(中略)
「ゼリー飲料を飲んで、突然頭の左側の血流がおかしくなった。今はどこが痺れていますか?はい、下からですね。
左足底に痺れ。膝窩に痺れ腓腹部に痺れ。左の眉の上から目の端、目尻までに痺れ。」
現在の患者の状況を細かく聴取する。
「左の前歯の痛む部分に丸薬を詰めてるのが頭に行った、かもですか?
では、歯医者に搬送ですか?」
「いえ!ちょっと!まって!ください!」
「はい、大丈夫です。」
対話は続いていく。
「あの!選んで!くれま!せんか?!」
症状が分からないので、患者が選ばないと動けないのが救急車だ。と伝える。
再度手を握る事を求められ、また言葉を交わしていく。彼は頭の痺れが気になるという結論に至ったようだった。
「ということならば、神経内科に搬送ですか?」
「そこに!行きたい!です!」
搬送先を確定。隊員と交代し、手順を進めサイレンを回す。
「10分で着きますからね。」
「はい!ありがとう!ございます!」
「歯のほう、気になるので、元気になり次第行ってくださいね。」
「言葉も!ありま!せん!」
「その天然パーマ地毛ですか?羨ましいです。」
「呼吸が早くなっていますね。深呼吸しましょう。ふーっ。ふーっ。」
そうして話題を繋ぎ続ける隊員に指示を出す。
「ストレッチャー降りて歩けますか?」
「大丈夫!です!あれ!動けない!動けるはず!?動ける!?」
「大丈夫ですよ。寝たままで運びますね。」
「はい!ありがとう!ござい!ました!」
隊員の声掛けを聴き、次の手順に取り掛かる。
蛇足
俺は病院に辿り着いた。俺は36歳男性患者コロナ陽性だった。
父さんと、救急隊長36歳さんと、気さくな女性隊員さんと、病院の先生方と、栄養剤の点滴が俺を救った。
それは出来事だった。それが現実で、今だった。父さんと会話した。俺は、まだ子供だった。
おかしくなった血流の生きたい俺は間に合ったけれど、もう間に合ってないのかもしれない。
でも、受動的に死ぬのを待つのは、止めて、生きたい。
まだ続くで終わらないのが、人生だと俺は良い。