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初恋は猫である

作者: たゆたうよ

「……死んだってさ」


口に出してみても、実感は湧かなかった。

電話越しに叔父がそう言ったときも、変に落ち着いていた自分がいた。

祖母が亡くなった。

それだけの事実が、どこか遠くの世界の話みたいだった。


「……一応、行くけど。片付け、俺でいいの?」


返事も待たずに通話は終わった。スマホを机に置いた瞬間、部屋の中が急に静まり返った気がした。

都内のワンルーム。書きかけの原稿。読みかけの本。

どれも、何かを生み出す気配のないまま、ただ“置かれている”。


湊は立ち上がり、クローゼットからスーツケースを引っ張り出した。


「逃げてるだけじゃねえか、俺……」

つぶやいてみたところで、否定する理由もなかった。



駅のホームに降り立った瞬間、湿った空気が肺に絡みついた。


「変わってない……というか、古くなった?」


誰もいない改札、剥がれかけた看板、ゆるい坂道。

記憶の中にある風景と似ているようで、微妙に違う。


もしかしたら、自分のほうが変わったのかもしれない。

もう十年以上も前のことだ。


祖母の家までの道を、足が自然にたどっていくのが不思議だった。

覚えてないと思っていたのに、体はちゃんと覚えているらしい。


「……なにか、忘れてる気がするんだよな」

ぼそりと、誰にともなく呟いた。



玄関の引き戸は、ぎい、と懐かしい音を立てて開いた。

湿気と埃と、どこか味噌のような匂いが混ざった空気。

靴を脱ぎ、廊下を抜けると、仏間に遺影が飾られていた。

祖母の写真は、意外と若い頃のもので、淡く笑っていた。


「……来たよ。ばあちゃん」


言葉を口にしたとたん、胸の奥がきゅっと詰まった。

涙じゃない。感情でもない。名前のつかない、妙な空白。

居間の戸棚には、使いかけの茶葉や乾物がそのまま残っていた。


リビングのカレンダーは、三ヶ月前で止まっていた。

何も終わっていない。けど、誰も戻ってこない。

この家にあるのは、ただ「途中で止まった時間」だけだった。



片付けを始めたのは、翌朝になってからだった。

湊は寝袋を広げた四畳半の部屋で目を覚まし、コーヒーを淹れてから、押し入れに手をかけた。


祖母の服、毛糸の帽子、古い裁縫箱。

ひとつひとつ丁寧にしまわれていて、それがかえって胸に刺さった。


「きちんと生きてた人の部屋って感じだな……」


言葉にした瞬間、静寂が深まった気がして、湊は黙った。

そのとき、押し入れの奥から、一枚の紙がひらりと落ちた。


拾い上げると、それは子どもが描いた絵だった。

色鉛筆で描かれた、ちょっと不格好な猫。

ぶち模様で、耳が片方だけ妙にとがっている。


「なんだこれ……誰のだ?」


見覚えがあるような、ないような。

ただ、どこか、胸の奥がざわついた。

絵の隅に、小さな字で一言だけ、書かれていた。


「ナナ」


「ナナ……?」

思わず声に出していた。


名前……だよな?


でも、それは猫の名前なのか、描いた人の名前なのか……わからない。

不思議なことに、「懐かしい」とも「知らない」とも言い切れない感覚が胸の奥に広がった。

それ以上考えるのが面倒になって、湊は絵をそっと木箱に戻した。



その日の夜、湊は台所でレトルトのご飯を温め、簡単な夕食を済ませた。

食器を洗いながら、ふと縁側の外に視線をやる。

薄明かりの庭。揺れる草木の影。


何か、動いたような気がした。


「……ん?」


窓を開けて、外を覗き込む。


暗闇の中に、何かの気配があった気がする。

でも、それが何だったのかは、わからなかった。

ただ、どこか“懐かしい違和感”だけが、胸に残っていた。


「……いる」


朝の縁側で、コーヒーを啜りながら湊がぼそりと呟いた。


ガラス戸の向こう、庭の石畳の上に、猫がいた。


白と灰のまだら模様。細身で、毛並みは少しくたびれている。

首輪はなく、野良にしては妙に落ち着いた雰囲気があった。


「おまえ……昨日の影?」


気配だけ感じた“あれ”が、たぶんこいつだったのだろう。


猫はこちらに目もくれず、庭をゆっくり横切り、縁側の端で立ち止まった。

そして、そのままぴょんと軽く飛び上がって、陽のあたる畳の上に落ち着いた。


「ちょ、勝手に……!」


声をかけたが、猫は一瞥もせず、くるりと身を丸める。

湊は思わず苦笑した。

「図太いな……」



それからというもの、猫は毎朝やってきた。

必ず午前九時ごろに庭の奥から姿を現し、縁側に上がり、畳の同じ位置で眠る。

午後にはいなくなっていて、どこに行ったのかはわからない。

追い出す気にはなれなかった。

理由はわからない。

ただ、その姿がここに“あること”に、不自然さを感じなかった。


「おまえ、どこから来てんだよ」


ある日、猫に話しかけてみると、ちらりとこちらを見て、また目を閉じた。

その目が、どこか人間じみていて、ぞくりとした。



猫が毎日眠る畳の場所——そこは、祖母が生前ほとんど使わなかった部屋だった。


「誰かの部屋……だったよな、昔」


引き戸のすりガラス。和箪笥の引き手にぶら下がった古びた鈴。

微かに香る古本のにおい。

なんとなく、この部屋だけ空気が違う。

いや、違うというより、時間が残っている感じがする。

猫がいることで、よりいっそう「誰かが戻ってきた」ような錯覚に陥った。



夕方。片付けの手を止めて、コーヒーを淹れた湊は、猫の寝息を聞きながら小さく呟いた。


「……ナナ」

自分でも、なぜその言葉が出てきたのか、よくわからなかった。


ただ、その名前が“浮かんできた”のだ。

前に見た子どもの絵。片耳が欠けた猫。

絵の端に書かれていた小さな文字。


「ナナ」


「おまえ、名前あるのか?」

猫は眠ったまま微動だにしない。


「……勝手に呼ぶか」

湊は、ため息まじりにもう一度言ってみた。


「ナナ」


音にしてみると、どこか、懐かしさとは違う“距離感”があった。

愛着、ではない。

でも、ただの名付けでもない。


記憶の中の何かと、名前だけが擦れているような、不思議な感覚。


「まあ、いいや。いっときの同居人だ」

湊は立ち上がり、コーヒーを飲み干した。


その後ろで、猫——ナナは、静かに目を開けていた。

まるで、呼ばれるのを、ずっと待っていたかのように。



「……ナナって、誰だったっけな」


朝食を済ませた湊は、洗い物をしながらぽつりとつぶやいた。

昨日、なんとなく浮かんできたあの名前。

猫に向かって呼んだのに、どこか違和感が残っていた。


「猫の名前、って感じじゃないんだよな……」

かといって、じゃあ人の名前なのかと聞かれると、それもしっくりこない。

ただ、“ナナ”という音に、何か大事な記憶が結びついているような気がしてならなかった。



昼前。

押し入れの奥を整理していたとき、箱の底に、小さなノートが挟まっているのを見つけた。

表紙に名前はない。中身は、子どもの走り書き。


〈きょうは みなとくんと しりとりをして まけた〉

〈ナナは すぐに うとうとしてた〉

〈さよならのれんしゅうをした〉


「みなと……俺?」

思わず声が出た。


確かに、子どもの字だ。でも、どれも曖昧で、はっきりとした映像は浮かばない。


「日記……だよな、これ。誰の?」


ページを繰るたびに、時々、同じ名前が出てくる。


ナナ


「……ああ、やっぱ、人の名前か?」

誰かを記録するように綴られたその字面が、


不思議と“誰かを思って書かれた”ように感じられた。

湊はそっとノートを閉じ、隣の畳の上で寝そべる猫をちらりと見た。


「おまえと関係あるって……思ってたけど、違うのか?」


猫は返事をせず、ただしっぽの先をぱたぱたと揺らした。



「……あ、そうだ」

急に思い出して、階段下の物置を探る。

昔のアルバムが、そこにあったはずだ。



埃をかぶった段ボールの中から、アルバムを引っ張り出す。

ページをめくると、祖母と誰かの集合写真、家の前で笑っている少年、どこかの遠足らしき風景。

その中に、ふと目にとまる一枚があった。


縁側で笑っている女の子。隣には、小さな少年——たぶん、自分。

二人の足元に、小さな動物がいる。

ぶち模様の……何か。


「これ……」

顔が見切れていてよくわからない。

ただ、女の子の髪に結ばれた赤いリボンと、こちらを見ている笑顔だけが妙に鮮明だった。


「あれ?……」


喉の奥まで、何かがせりあがってくるのに、名前が出てこない。

まるで、熱を出したときのような、もやもやした感覚。


「……ナナ……?」

小さく声にした瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。



夜。

縁側に置いた小さな卓にノートを広げ、湊は鉛筆を持った。

いつぶりだろう。物語ではない何かを書こうと思ったのは。


〈ナナという名前を思い出した。

 誰かの名前だった気がする。でも、顔が浮かばない。

 夢の中で会ったような気もするし、本当にいた気もする〉


風が吹き、ページの端がめくれる。

ふと顔を上げると、猫がこちらを見ていた。


「……おまえは、誰なんだよ」

そう呟いた声に、猫は一瞬だけ瞬きをした。


そのしぐさが、なぜか懐かしくて、湊は胸の奥を押さえた。

まだ、何かが思い出せそうで、思い出せない。

でもそれは、すぐそこまで来ている気がしていた。




祖母の部屋にある整理箪笥の中を開けていたときだった。

奥の引き出しの底に、一冊のノートが挟まっていた。

布張りの、古びた表紙。

日記のようで、日記と断言できない不規則な筆跡。

湊は静かに座り込み、ノートを開いた。



〈今日、千早ちゃんが来た。〉

〈畳の上にずっと座ってた。言葉は少なかったけど、なんだか笑ってた〉

〈もう長くはないかもしれないって、あの子のお母さんが言ってた〉



「千早……?」


見覚えのない名前だった。けれど、どこか耳馴染みがあるような気もした。

ページを繰る。



〈事故のこと、まだ誰にも話してない。湊にも。

 あの子がいなくなったあと、ナナが毎日ここに来るようになった〉



「……ナナ?」

鉛筆が止まる。


再びページをめくる指が、思わずゆっくりになる。



〈ナナは、最初の数日は家の前で鳴いていた。

 でもある日を境に、家の中まで入ってくるようになった。

 まるで、誰かを待ってるように〉



——事故。

——千早という女の子。

——ナナ。


なにかが、重なる。

けれど、つながらない。


「ナナって……その子の友達? 飼ってたペット? ……人?」


考えがまとまらない。

ただ、心の中に張られた糸が、ぴんと微かに震えていた。



ノートを閉じたあと、湊は縁側に戻った。

猫——ナナは、今日も畳の上で寝ていた。


「おまえ……ここに、いたことあるのか?」

問いかけると、猫は少しだけ顔を上げ、ゆっくり瞬きをした。

その仕草に、なぜだか少し胸が締めつけられた。


「なあ、ナナ。おまえが誰かの名前なら……」

湊は言いかけて、やめた。


名前は、誰かを想うためにある。

けれど、いま自分が呼んでいるその名前が、誰のものだったのか——まだ、わからない。

ただ確かなのは、この猫の存在が、自分の記憶を揺らしているということだった。


「……会ったこと、あるよな。どこかで」

声に出すと、猫が目を細めた。

それは、否定でも肯定でもない、ただそこに在るという仕草だった。



その夜、湊は久しぶりに夢を見た。

夕暮れの庭。

小さな背中。

名前を呼ばれる感覚。

——湊くん。

でも、振り返ることはできなかった。

夢の中の声は、やさしくて、でも少しだけ、遠かった。



——湊くん。

その声で目が覚めた。

夢だったのか、現実だったのか、判然としなかった。

けれど、胸の奥に水のような違和感が残っていた。

顔が、見えなかった。

それなのに、声ははっきりと耳に残っていた。


「……千早」

昨日読んだ祖母のノート。あの名前が、ぽつりと浮かぶ。

言葉にした瞬間、なにかが揺れた。

頭では「知らない人」のはずなのに、喉の奥で感情が引っかかった。


「会ったこと……あるのか、俺」

畳の上で丸まっていた猫が、顔を上げた。

こちらをじっと見つめてくるその目が、妙に澄んでいて、なんとなく目を逸らしてしまった。



その日の午後、湊は祖母の本棚を見ていた。

小説や詩集のあいだに、古いメモ帳が挟まっていた。

パラパラとめくると、子どもの筆跡で書かれた短い詩のようなものがいくつか並んでいる。



〈さみしくなったら ほしをみる〉

〈ななのこえは やさしいこえ〉

〈ひかりのなかで だまってる〉



「……なな?」

名前がまた現れた。

でも、今度は“ナナ”ではなく、“ひらがな”で。

なんとなく、“名前”ではなく、“象徴”のように見えた。


「……まるで、誰かを隠してるみたいだな」

声に出すと、部屋の空気が少し冷たくなったような気がした。



夕方。

縁側でノートを開いていた湊は、急に強い風にページをめくられ、鉛筆を取り落とした。

足元にころがったそれを拾おうと身をかがめたとき——

記憶が、ひとつだけ鮮明に浮かんだ。


——夏の午後。

——縁側。

——並んで腰かけていた、小さな誰か。


笑ってた。

こっちを見て、まぶしそうに目を細めてた。

でも、顔がどうしても思い出せない。


「どうして……」

湊は額を押さえた。


あの時間があったことは確かだ。

でも、その“誰か”が、どうしてもぼやけて見える。

名前は、千早。


でも顔がない。声がない。温度だけが、残ってる。

それが、たまらなく、苦しかった。



その夜、ナナがいつになく近くにいた。

湊が寝袋に潜り込むと、彼の枕元にちょこんと座り、何も言わずにじっとしていた。


「……おまえ、千早のこと、知ってるのか?」

猫は動かない。


湊は、吸い込まれるようにその目を見つめた。

黒くて深い、でも何かを宿しているような、そんな目。


「……なんで、おまえがここに来るのか、わからないけど」


言葉にするたび、胸の奥に少しずつ何かが集まってくる。


「あの頃のこと……もう少し、思い出せる気がする」

ナナは一度、目を閉じた。

そして、何も言わずに背を向け、静かに部屋の奥へと歩いていった。



湊はその背中を見送りながら、自分でもわけのわからない涙が滲んでいることに気づいた。

泣くほどの理由なんて、まだわかっていないのに。

ただ、ずっと遠ざけていた何かが、確かに近づいてきている。

その予感だけが、熱のように体に残っていた。



日差しの強い午後、湊はふと縁側の天井を見上げた。

風鈴がない。

けれど、耳の奥に残っている——澄んだ音。


——ちりん。

思い出の中の音だ。

なのに、それが今、この家の空気に溶け込んでいる気がした。


「思い出す、ってこういうことか……」

呟きながら、また物置の中をあさる。


もう見落としはないと思っていたが、床下の板の隙間に、小さな封筒が差し込まれているのを見つけた。

中に入っていたのは、何枚かの古い写真だった。


一枚目は、祖母と誰かの集合写真。

二枚目は、見覚えのある縁側。

三枚目——そこに、いた。

少女と猫と、少年。

並んで座っている。


「……これ……俺、だよな」


小さな自分。隣の女の子の顔は、まっすぐにカメラを見ている。

その腕の中に、すっぽりとおさまる小さな猫——白と灰のぶち模様。

そして、左耳の先が……欠けていた。


湊は、その瞬間、すべてがつながったような感覚に襲われた。


——ナナ。

「ナナ……」

声に出した。

心が震えた。


頭の奥に、ひびのように広がっていた曖昧な記憶が、一気に音を立てて崩れていく。


千早。


少女の名前。

そして、彼女が抱いていたあの猫の名前。


「……おまえ、ナナだったのかよ……」


湊は縁側へ向かって、走るように廊下を抜けた。

そこに、いた。


今日も、いつもの場所で、日差しを浴びて丸くなっている。

けれど、湊の気持ちは昨日までとはまるで違っていた。


「ずっと、いたのか……」

呼吸が乱れる。

けれど、泣くことも、笑うこともできなかった。

ただ、そこに“ちゃんと在ったもの”が、やっと名前を取り戻したような——

そんな、救いにも似た感覚。


ナナは、湊の顔を見上げた。

その目には、何の説明もなかった。

でも、説明なんていらなかった。


「ナナ……ごめんな。気づくの、遅すぎたよな」

言葉にするたび、胸の奥が柔らかくほどけていくのを感じた。


ナナはゆっくりと立ち上がり、すっと湊の足元に近づいた。

何年も前と同じように、鼻先をすり寄せる。


——あの夏。

——あの別れ。

——そして、いまの再会。

すべてが、やっと時間の上に並び始めた。



夕暮れ。

湊は写真を、祖母の仏壇の前にそっと置いた。

その横で、ナナが静かに座っていた。


「ありがとう。思い出させてくれて」


その声に、ナナは一度だけ、にゃあと短く鳴いた。

それは、千早の声にも似ていた気がした。



最初で最後の、名前の奥にある返事。




その夜、湊はなかなか眠れなかった。

寝袋に潜り込んでも、まぶたを閉じるたびに昼間の写真が浮かぶ。

千早の笑顔。小さな自分。

そのあいだにいたナナの、柔らかそうな毛並み。あたたかさ。呼吸の音。


「……忘れてたわけじゃなかったんだよな」


ただ、思い出せなかっただけだ。

封じていたのか、忘れるしかなかったのか、それすらもうはっきりしない。

けれど、ナナは、そこにずっといた。

湊が何も思い出せないままでいても、あの畳の上で、毎日を重ねていた。


それが、答えだった。



ふと気配を感じて顔を上げると、ナナが近くに座っていた。

まっすぐにこちらを見ていた。

目が合う。

それだけなのに、胸の奥がひどく痛んだ。


「……行くのか?」

言葉にした瞬間、後悔が襲った。


ナナは、ゆっくりと立ち上がる。

迷いも躊躇いもなく、湊の手元へ歩いてきて、そっと前足を重ねた。

冷たくも、あたたかくもない。

ただ、その重さだけが確かだった。


「ありがとう」


その言葉に込めた意味は、うまく言葉にできなかった。

ナナは、小さく一度だけ鳴いた。


そして、縁側のガラス戸のほうへ向かった。

鍵は開けたままだった。

戸がわずかに動き、夜の風が入ってくる。

ナナは庭へ出る。


一歩ずつ、ためらいのない足取りで、草の影へ消えていった。

振り返ることはなかった。

それが、別れというものだと湊は思った。



朝になっても、ナナは戻ってこなかった。

畳の上には、陽の光だけが落ちていた。

いつもそこにいた姿が、なにも言わずに消えていた。

湊はゆっくりと荷物をまとめた。


仏壇の前に写真を供え、祖母とナナと千早のことを、静かに胸の中で呼んだ。

そして、リュックの中にノートと、絵と、子どもの日記を入れた。


「また来るよ」


そう小さく告げて、縁側の戸を閉めた。



東京に戻ってしばらくして、湊はようやく机に向かっていた。

何日も、何ヶ月も止まっていた手が、するすると動く。

ページを埋めるのではなく、記憶を掬い上げるような感覚だった。


タイトルを書き入れる。


『初恋は猫である』


少しおかしなタイトルだと自分でも思った。

でも、それ以外にしっくりくる言葉がなかった。



優しさとか、温度とか、待っていてくれた時間とか。

全部が名前のなかに閉じ込められていた。


初恋は、ひとりに向けたものではなかった。

でも、あのふたりと過ごした時間が、たしかに“それ”だった気がする。


湊はペンを置き、目を閉じた。

風の音が、どこかで鳴った気がした。

それは、もう一度「さよなら」を言いに来た風かもしれない。


あるいは、これから書く物語の最初の音かもしれなかった。




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