記憶の海
私は久しぶりに祖母の家へと訪ねた。
小さい頃は、作業台から祖母の皺だらけの手を覗いていたものだった。絵筆を持って繊細に描く様が幼いながら不思議で仕方がなかったのだと当時の気持ちを思い出す。水で溶いた絵の具が何皿も置かれたテーブルごしの褪せたエプロン。カラフルに染った指先が乾く前にウエスで拭こうとした祖母は、テーブルから一生懸命に首を伸ばす私を見て笑った。夢中になって筆先から生まれる何かを見ていた私は、色が混ざった飛沫が顔に着いてしまったらしかった。祖母は指で私の額を拭い「黄緑色だね」と笑った。私も自分の鼻辺りを腕で擦り「こっちは青だよ」と見せ合い、笑う。
それから、歳を重ねた。
交友関係も増えていった。
進学した。
やりたいことを見つけていった。
いつしか遊びに行くことも、挨拶しに行くことさえもなくなっていた。
そんな折に母からの電話が来たのだ。
「………」
「もしもし、母さん。何か用あったっけ?」
母はハッキリとものを言う質だ。普通なら、「もしもし、お米送っといたから、明日に届くよ」といった風に用件を済んだとばかりに「じゃぁ、切るね」一気に喋って終わらす。それが黙りとしているなんて、母らしくなかった。
片耳に呼吸音が当たる。やっとの思いで口を開けようとする声がやっと漏れ出た。
「お婆ちゃん……呆けてしまったの」
母の声は、やけに震えていた。「お婆ちゃん」と母は祖母を、そう呼びたくなかったのではと思ってしまうのだ。子供の前だからとしゃんとする姿の母を思い出す。母は、私がいない所で祖母と話す時は、何時も「お母さん」と呼んでいたからだ。
「私のことも、誰って………言ってきたの」
気丈に振る舞う母の姿は、耳に寄せた受話器の奥から掻き消えてしまった。
長い間、赴いてもみなかったのに、足が自然と向かう。公園の先にある上り坂に行けば良いんだっけ。手にした地図なんて意味がないとグシャッとコートのポケットに入れた。
今となって会いに行くには趣味が悪いと眉を顰める人もいるだろう、同情心で行くつもりなのかと偽善ぶった感情で労わろうとするなと言う人もいるだろう。
脳裏にそういう考えが過ぎると足取りが重くなる。ブーツの裏に砂利が無駄に擦れている。
そうではない、確かめたいことがあった。
自分に言い聞かせるように、振り切る。それは私であって、私じゃない。後ろめたさだ。
祖母は画家だった。膠と顔料の匂いを漂わせ、水の流れに沿わせて色を着けていた。手のひらくらいのサイズから、私の背を優に超えたものまでに描かれた絵の中の生き物は、幼いながらに生きているように見えたのだ。
坂を登れば、花が緑が絶えない庭に白い家が変わらずに建っている。黒い縁の窓には、硬った私の顔が遠目に映る。
嘗て見た祖母の背が確かにあるか知りたかった。
悴む指で呼び鈴を鳴らし、息を吐く。冷たい空気の中に小さな粒となって漂い霧散するそれは、頬を温めた。
ドアの奥から、昔よりも腰が曲がった祖母が訝しげに見据えていた。
「はい、どちら様?」
覚悟はしていた。我が子である母でさえ忘れられていたのだ。自分だけはだなんて都合の良いことなんてあるわけがないのだ。
「あの、絵を見たくて…」
涙を堪えながら、あながち嘘ではないとなんとか今を紡ごうとした。こうでしか祖母と向き合うことができない自分が情けなくて仕方がなかった。
段々かぼそい声になって俯いた私を、祖母は見据えていた。
「ふぅん、若いお嬢さんが来てくれるだなんて、私もちょっとは有名になったもんだね」
軽口を叩きながら祖母はドアを開け放つ。
「どうぞお入り」
膝を着いてスリッパを玄関框に置いていた。
「寒いと心まで冷えてしまうからね、絵でも見るついでに温まってきなさい」
そう笑む彼女は祖母の姿をしていた。
居間に通されて、此処に座ってと椅子を引かれて座る。手持ち無沙汰に見渡すと、子供の頃にはあまりにも大きく感じていた棚に、写真立てが置かれてあった。
「あの写真」
モノクロ写真にしても、随分と肌の色が白い身綺麗な青年の姿があった。威厳めいて写ろうとしていた時代に撮られたものなのに、柔らかに微笑む表情が風変わりな魅力を持たせていた。
「ああ、私の夫のユキジだよ」
私は思わず、祖父の顔を初めて知ったと言いそうになったが、言葉を選ぶ。
「昔からここら辺を知っていますけど、ユキジさんって見かけたことないですよ」
目の前にいる祖母が、どんな祖母かは未だわからないからだ。祖父は母が幼い時に事故で亡くなったと聞いてはいる。しかし、下手なことを言って、この場を壊したくはない。
「彼は画商だから、そこら中を周っているよ。今は船に乗っているかな」
祖母は遠くを見つめるように、パネルに描き留められた魚へと目線を流していた。年数が経って古びた日本画、アレは確か大事な絵だから残してあると祖母が言っていたものだった。
「画家と画商か、仕事で知り合ったのですか?」
「いや、その時は私は絵描きですらなかった」
私の言葉にピシャリと祖母は跳ねつけた。
「ユキジは御家同士の見合いでね」
急須を揺らして湯気をはらう祖母は、ほんの僅かだが冷めた目をしていた。
「ほら、自分で言うのもなんだけど私ってジャジャ馬娘だったんだよ、好きなことだけしてた」と祖母は言いつつ盆から湯呑みを取り、「咎められてばっかりだったけど」と何かに向けて憫笑していた。私にお茶を勧めてきたので、指を温めながら飲む。苦味の効いた深い味わいが舌に残った。
「こんなんじゃ誰も私を好きになってくれる人なんかいない、そう親に泣かれたこともあるくらい自由にしていたんだ」
一気に祖母は吐き出していた。祖母は、ユキジさんという名の祖父や抑圧してきた家族を嫌っているわけではないようだった。好きに振る舞おうとしていても、気にしている自分がいたのではないだろうか。
「そんな女学生時代に来たんだ」
祖母は静かに口を開いた。
「在学中に見合い話が持ち込まれるなんて、周りの娘でもそこは同じ立場さ。でも、私は嫌だったんだよ。押し付けられるのは真っ平ごめん。無理に着せらせた晴れ着が重くて気が滅入ってしまうと思ってた。苛立ちから、そうね、私は火蓋を切ったつもりになったんだろうね。
『何故、私となんです? 親御さんから無理に頼まれでもしたのですか』と言った時は言い切ったと特異になった気分だった。
それを聞いた彼は目をパチクリしながら『いや違いますよ、僕から申し出たんだ』と言いだしたのだから、私はのけぞってしまってね。
あの人は照れくさそうに整った髪を掻き撫でながら、私に話しだした。
『貴女を知ったのは、女学校に絵を届けていた時に見かけたんだ。驚いたよ、枇杷の木に女の子が登って烏と戦っていたものだから』
変な所を見られたもんだと私は顔を渋くして、『それは、その……は、はしたないところを……』とモゴモゴと決まりが悪くて悪くて。
『随分と元気な娘だと思ったけれど、それだけじゃないってその日に知ったんだ』
彼は急に真面目な顔をして、私を見つめた。
『え?』
おちゃらけた回想でも話すものだろうかとでも思っていたものだから、私はそうとしか反応ができなかった。
『僕は教材の絵を送っていただろう、廊下を歩いていると掲示板が見えて。《不届者》と張り出された絵に釘付けになった』
授業中に描いていた、絵と言って良いかはわからない代物。絵描きを目指す人のスケッチにすら敵わない、そう決め付けられた下らないもの。
『板書そっちのけで落書きしてたもので、ちょっと叱られたものなんです、アレは』と私は言ったのさ。
『落書き? とんでもない!』卑下しようとした私を『そうやって損なうことない』と塞いでくれた。
『粗々しくも情熱的な線で描かれたそれに驚かされたよ。乱暴に破いて壁につけられたそれに目が離せなくなって、描いたのは誰ですかって聞いたんだ。そしたら、伊藤海子……さん、だと』
初めてだった。今まで私の好きなことを下らないという一言で片付けられていたのに。ここまで言ってくれる人なんて見てくれる人なんているんだと思った。
『僕は君の絵に惚れたみたいなんだ』ってはにかんでた。長谷雪路は、今でも思うけど変な人」
言い終えた祖母は満足そうに口角を上げていた。
「素敵なご縁ですね」
私は確信した。今の中に生きていない。遠くの此処で生きている。祖母は、幸せな時に身を置いているに違いない。
「ユキジは筆や紙を与えてくれた。描き方はちっとも教えてくれないけど」
祖母は唇を不満そうに突き出していたが、やはり笑う。
「けど?」
私は聞き返す。
「このアトリエをくれた」
長谷海子夫人は目を細めた。
それから何枚かの絵を眺めた。
「ユキジがいないとあんまりお客さんは来ないものだから、久しぶりに長話したよ。ごめんなさいね」
「色々なお話しが聞けて良かったですよ、またお伺いします」
窓に夕焼けが差し込んでいて眩しい。
「後、もし坂を降りた所の公園近くに行くなら」
「何ですか?」
「希美香、あぁ、うちの子供で六歳ぐらいなんだけどね、そろそろ家に帰りなって言ってくれないかい」
祖母の顔は、変に母に似ていた。いや、顔立ちではなくて、もっと奥底にある所。そうだ、母が私に向けていた表情。そう納得すると、何処かの家から漂うカレーの匂いが鼻を掠めた。
私が知っている祖母の背はいなかった。だが、至るまでの若い姿がふと現れていた。
祖母は、記憶の海の中を航海している。