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王子のお城

 それからも日は流れました。魔王のお城から山を幾つも離れた場所に、商業を中心とした町を支配に置く王族がおりました。その中で第一子として大切に育てられた王子がいました。とても大切に育てられ、なに不自由なく生きてきた王子は我侭な性格をしていました。欲しいと思ったものはなんでも手に入れ、親族の持つ財宝も、友人の恋人すらもその手中に収めたがります。しかし、一度たりと手に入れるとすぐに飽きて捨ててしまいました。

 王は王子の性格を正そうと剣の稽古をつけましたが、王子は嫌がってお城を飛び出してしまいました。王子は視察と称して城下街を練り歩きました。お城と密接な関わりを持つ町でしたから、王子の顔を知らない者などはおりません。みなが恭しく王子を扱い、衣食住も無料で手渡しました。王子は彼らの対応に満足しながらさらに進むと、傍目にも物騒な雰囲気に変わりました。

 円陣を組むような人だかりと口汚く罵る声が聞こえます。王子は好奇心の赴くままに彼らの間に割って入りました。人々は王子の姿を認めて驚きましたが、すぐに話を聞いてくれと王子に縋りつきます。面倒ごとかと王子は顔をしかめましたが、すぐに彼らの中心にある棒を見上げて呆けたように口を開きました。

 そこには人が吊るされていたのです。顔面中が痣だらけで、おそらくは他の部分も同じでしょう、歪になった体を縄で締め上げられています。ぐったりとして動かず、時折に震えるそれを見上げて、王子は一体なにがあったのかと改めて説明を求めました。

 町人の一人が口々に言葉を投げる人々を押し留め、したり顔で王子に説明を始めました。まず最初にこの者は魔王の家来であり、今までさんざん悪事を働いた悪党であり、このような扱いを受けることも至極当然だと前置きをして。

 その町人によれば行き倒れとなった魔王の家来をただの人として、手厚く看護したそうです。しかし自らが魔王の家来だと漏らしたので、町人たちは他人を苦しめる悪党をやっつけたのでした。

 しかし、ここからが問題です。魔王の下から逃げたのですから、魔王がこちらにやって来るかもしれません。そうすればこの町はどうなるかわかりません。さらに魔王は他の村から赤髪の小さな女の子を捕らえていると言うのです。

 町人は言いました。自分たちの町を守るためにも、そして捕らえられた女の子を助けるためにも、魔王を倒して欲しいと言うのです。

 王子は驚きましたが、人々に囲まれ好き勝手していた手前、素直に首を横に振れません。剣の稽古すらまともにしたことがないのですから、魔王に勝てるはずがありません。王子はこの場を取り繕うために首を縦に振り、逃げ出そうとしました。

 しかしなおも人々は王子の袖をつかみすがりつきます。人々は言いました、いくら一国を継ぐ王子と言えど魔王とまともに相対するのは危険だと。そこで町人の一人が町の外を指差しました。

 この町の外れにあるボロ屋に、随分と前から魔法使いが住んでいると言うのです。その魔法使いはもの知りで、なんでも願いを聞いてくれる、悩みを解決してくれたりするのだと。しかしそれには代償を渡さなければなりません。

 王子は考えました。その魔法使いとやらが本物ならば、その者を使って魔王を倒し、本物の英雄となって国王や自分の臣下の鼻を明かしてやろうと。

 王子は町人の場所に乗り込み、魔法使いの住むというボロ屋に進みました。雑踏を抜けた町の外れには、まるで人が住んでいるとも思えない小屋が乱立していました。しかし、そこからは確かに人が住んでおり、入り口から首を覗かせています。不快になった王子は町人に急ぐように命じました。

 しかし道がしっかりと造られていないので、馬車の速度は上がりません。苛立ちを隠せない王子でしたが、町人の一言で安堵の息を漏らしました。ようやく魔法使いの下にたどり着いたのです。

 馬車から降りた王子は驚きました。ボロ屋だとは聞いていましたが、まるで家屋とも呼べないものがそこにあったのです。屋根もなければ扉もなく、ただ空いた空間を斜めになった壁で囲っているだけ、それが魔法使いのボロ屋でした。

 気後れしながらも進んだ王子に、中から声がかかります。王子よ、あなたの心は黒く淀んでいる、帰りなさいと。

 王子はその言葉に怒りましたが、無理に押し入ろうにも足が動きません。まるで地面に貼りついたようでびくともしないのです。そこで王子は言葉を返しました。私は町人の言葉を受けてここにいる、私は町の人々の総意で動いており、私の心の中身など関係ないことだ、と。

 押し黙った魔法使いに王子はさらに言葉を重ねました。私が行かねば魔王に捕らえられている女の子は助からない、そして魔王の悪さも止まらずに泣く人が増えるだけであろうと。

 言い切るとしばし、間を置いて王子の足が動くようになりました。勝ち誇った笑みを浮かべて中に入ると、軋んだ音をたてて揺れる椅子に座る魔法使いがおりました。黒い上着に身を包み、体には白い石が巻きついています。

 王子は言いました。魔王を倒す方法を私に授けるようにと言いました。しかし魔法使いは言います、それには代償が必要だと。

 王子は肩を怒らせて自分を指しました。今から私は魔王を倒すというのに、そんな英雄から代償と、持てるものを奪うと言うのかと。魔王を倒せなくなればなんとする。

 魔法使いは困りました。そのようなことを言われたのは初めてだったのです。ならばと魔法使いは言います。女の子から代償を取ろうと考えたのです。王子は少しばかり考えましたが、自分でなければ大丈夫だと頷きました。

 魔法使いは安堵して、女の子の足を貰うと言いました。しかし王子はそれを突っぱねました。まだ外を駆けることが好きな子供の時分から足を奪ってなんとする。

 魔法使いは眉を潜め、女の子の腕を貰うと言いました。しかし王子はそれも突っぱねました。まだ子供の時分から愛する人を抱けない体にしてなんとするのだと。

 魔法使いは困惑して、女の子の目を貰うと言いました。しかし王子はそれでも突っぱねます。無垢な子供からその光を奪い取り闇に落とすことがお前の所業かと。

 魔法使いは悩みました。悩んだ挙句に女の子の髪を一房だけ貰うと言いました。王子は思案しましたが、女の子の髪は赤色だと聞いています。王子やその周りの王族は美しく高貴な金色で、町人たちはみな黒色です。そのような異端な、醜い髪の一房ならば問題ないだろうと王子はようやく了承しました。

 魔法使いは頷いた王子に小さな白い皮袋を渡しました。手に乗せて顔を近づける王子に、魔法使いは魔王を倒すためにすべきことを伝えました。

 まずは魔王の住まうお城が見えたら、その袋の中に入っている小瓶で全身を濡らすこと。陽が天高く昇るのを待ってからお城に忍び込むこと。門には二人の男が見張りをしているので目の利かない左の男の側から門を進んでいくこと。お城の中に入ったら皮袋の中にある粒をみっつ、魔王に囚われた女の子に飲ませること。

 魔法使いの言葉に、王子はこれらの薬にどんな効き目があるのか問いました。魔法使いは答えます、小瓶は体の臭いを消し、目の代わりに鼻の利く門番をごまかすため、そして薬の粒は、女の子を眠らせる薬だと。

 薬を飲んで女の子が眠ると、七日七晩の間は目を開かず、八日目の陽の光りを受けて目を覚まします。魔法使いは言いました、そこで死んだと勘違いした魔王は、捕らえた女の子が死んだと勘違いして、自分の玩具がなくなった悔しさと怒りに吠え猛り、声をあげ続けるはず。声も途絶えたところに魔王の心臓を、腰に差した剣で貫くのだと。

 王子は驚きました。今までまともに剣も振るったことのない王子です、そんなことできるはずがないとうろたえます。しかし魔法使いは落ち着けばできると言いました、自分に自信を持つように。いくら魔王と言えど、声がなくなるほどに叫べば疲れてしまうのだから。

 今、お城にいるのは魔王と女の子だけです。門番にさえ見つからなければ魔王に近づくのも女の子に近づくのも容易いはず、魔法使いの言葉に王子も嫌々ながら頷きました。もっと楽な方法を、もっと安全な魔法による保護を期待していたのですが、ボロ屋に住んでいるような魔法使いがそこまでできると、王子にはとても思えなかったのです。

 しかし他の魔法使いの下へ行こうにも、場所がわかりません。うかうかしていると女の子が死んでしまうかも知れません。王子は礼も言わずに魔法使いのボロ屋から馬車へと引き返します。

 魔法使いはそれを見送って思うのです。確かに、魔王は悪い存在です。悪党です。捉えた人間には恐怖を与え、恐怖を受けた人間を痛めつけてさらに恐怖を与え、与え、与え続けて恐怖を受けられなくなった者から殺していきます。血も涙もない、それが魔王です。

 だからこそ魔王は勇気ある者には決して勝てません。魔法使いは考えます。本当に勇気を持っているのは王子なのか、と。



 馬車は走り出しました。町を抜け、山をひとつ越えふたつ越え、一晩二晩の時間を馬車で過ごした王子。未だに道の途中だというのに、王子はそれに飽きて引き返そうと御者に言いました。御者は王子が魔王を倒すことに恐れを抱いたのでは、と心配しました。この山を抜ければすぐに魔王のお城です、それまで辛抱をと、王子に言います。

 王子はそれに頷きましたが、馬車は上りを終えても、下り入っても、再び上りを始めても止まる気配を見せません。言った言葉は嘘だったのかと王子が御者を問い詰めると、御者はそれは勘違いで、この山ひとつが竜のごとく身をくねらせているのだと言いました。

 王子はなるほどと納得し、兎にも角にも早く魔王のお城につくように言いました。御者は安堵の息をつきました。

 それから丸一日をかけて王子と御者は魔王のお城を頂に構える山に辿り着きました。ようやく着いた目的の場所に王子は遠くからお城を見上げます。

 その立派なことと言ったら。王子の飛び出した王宮とまでは言いませんが、お城としてよその国に見せても恥ずかしくありません。王子は魔王を退治した暁には、このお城を丸ごと自分のものにしてしまおうと考えました。自分が王となったとき、このお城を使おうと考えたのです。

 陽も沈み始めて赤い光りが照らす頃、御者を残して意気揚々とお城に向かった王子でしたが、正門に人間が二人ほどぶら下がっているのに気づいて足を止めました。しかしそれは、どう見ても死体です。赤い光りを受けて顔を俯けるそれを、王子はできるだけ見ないようにして正門へ向かいました。

 ところが、王子が近づくと同時にそれらが顔を上げたのです。大きな声で喚き、朽ちかけの死体などは自分の頬の肉が落ちても構わずに声をあげます。

 腰を抜かして座り込んだ王子を、御者は道の脇にある草むらへ引きずり込みました。吠え続ける門番に続いて、大地を揺るがす足音が響きます。                                                                                            

 そこに誰かいるのかと、地響きよりも低い声が轟きました。その声と同時に門番は鳴くのを止めましたが、御者と王子は生きた心地もありません。

 喉を鳴らして正門を見ていると、軋みながら正門が僅かに開きました。鋭く大きな目だけが見え、ぎょろぎょろと辺りを見回します。そうして誰もいないことを確認すると、目はお城の奥に消えて門は固く閉ざされました。

 遠ざかる足音にようやく安堵の息を漏らして、王子と御者は顔を見合わせました。今からでも、やはり止めにしようかと迷いだした王子の心を見透かしたように、御者は魔法使いから授けていただいた知恵を使うべきだと進言しました。

 王子はそれに慌てて頷き、紐を通して首に下げていた皮袋を取り出しました。中に入っている小瓶を手に乗せて御者に目を向けました。

 この小瓶の力が本当かどうかわかったものではない。悪いがお前も一緒に塗ってくれと。

 御者は驚きましたが、町のみなが信じる魔法使いです。王子の言葉に従って半分を自分に塗りこみ、半分を王子に塗りこみました。しかし器の小さな小瓶ですから、全身にくまなく塗ることはできません。不安がる御者を引き連れて、今度は強気で王子が歩き出します。

 そして、思い出したかのように正門の左に立ちました。王子が前へ進むのと同時に、再び門番たちが喚き始めます。驚いて硬直した御者を放って、王子は門からお城の中に入り込みました。それを阻むように左側に吊るされていた門番は足を振りますが、足は千切れて地に落ちてしまいました。

 御者もそれにならって中へ入ろうとするのですが、こちらはまだ新しい死体でしたから、足が千切れることはありません。大きく振った足が御者の首に、肩に絡み付いて動きを止めてしまいました。

 御者は王子に救いを求めましたが、王子は町人から御者を助けるように頼まれた覚えはありません。御者の言葉を無視して大きな庭の広間の茂みに隠れてしまいました。

 すぐに地響きをたてて、怒りに満ちた声が空気を揺らします。さきほどから騒いでいたのはお前だったのかと、お城から出てきた魔王は御者を指差しました。恐怖に打ち震えて、御者は王子に目を向けますが、王子は知らん顔をしています。

 魔王は御者が口も利けずに震えているのを見て、喋らないのならば、と御者を捕らえている門番ごと頭をかち割りました。王子はそれを見て体も心も震え上がりました。熟れた果実のように頭の潰れた御者と、叩き潰した門番をそのままに悠々と立ち去る魔王を見つめます。

 怖い、怖い。王子の頭の中にはその言葉だけでした。しかし、帰るには門を潜らなければいけません。正門には門番がいますし、塀を登ろうにも高すぎて手が届きません。

 王子はそこで、魔法使いの言葉を思い出しました。陽が天高く昇るのを待ち、それから行動を起こそうと考えました。英気を養うため、冬の寒さを凌ぐために家畜小屋に入ります。家畜たちはひどい汚臭を放っていましたが、背に腹は変えられません。死んでしまっては軽口すらも叩けないのです。

 家畜の餌として積み上げられた藁の中に身を投じて寒さを堪えます。しかし、ちくちくとした痛みは肌に痒みも与え、なかなか寝付けません。それどころか目を閉じる度に、最期にこちらを見た御者の目が浮かび上がるのです。

 王子は一睡することもなく、一晩を過ごしました。



 翌日、陽も天高く昇る頃、王子は藁の中から抜け出ました。真っ赤に腫らした目で辺りを怯えたように見回します。外に魔王がいないことを確認してから、王子は家畜小屋からお城の扉に手をかけました。

 あまりの大きさに開かないのでは、と心配しましたがよく滑る蝋でも塗られているかのように扉は少しの力で簡単に開きました。息を殺して王子は中へと進みます。

 お城の中に入った王子は、思わず息を呑みました。

 天高く伸びた陽から下ろされる光は、天井に設置されたガラスを通って光り輝く画を床に映し出しています。床も自分の顔が見えるほどに滑らかで傷ひとつなく、綺麗に磨かれ壁にも無数の画が、しかし特徴を惹き立てるかのように無造作な配置ではなくどれもが際立って見えます。

 これが本当に、みなに恐れられる魔王のお城なのでしょうか。王子が呆気にとられていると、お城の奥から僅かながらも見事な歌声が聞こえ始めました。低く囁くようなその声は万物の父を思わせるかのように雄大で、とても幻想的な歌声でした。

 その声に惹かれるように、おぼつかない足取りで声の主を目指します。王子は広間を抜けてまっすぐにある階段を上り、備え付けられた大きな扉の前に立ちました。今すぐにでも飛び込みたい気持ちがありましたが、臆病な王子はそれを躊躇いました。魔王のお城であることを改めて思い出し、僅かに扉を開きます。

 そこは食卓のようでした。丸く大きなテーブルの上には豪勢な食材が並んでいます。それらの半分ほどがなくなり、テーブルの奥には他とはまるで違う、立派な椅子に座る魔王がいました。その胸に蹲る赤い髪を撫でながら、魔王が歌っているのです。

 王子は雷に打たれたように硬直しました。さきほどまであんなにも幻想的だった歌声は、今や地から這い出る者共の声に聞こえ、低く激しい声が城壁を揺らします。王子が恐れ戦いていると魔王は女の子を抱いたまま立ち上がり、扉を目指しました。慌てて階段の下に身を伏せると、魔王はそれに気づくこともなく階段を横切り、奥の通路へと入っていきました。

 王子は魔王が出てくるのを待ちました。女の子と一緒ではなく一人で出てきた魔王が別の部屋に行くのを注意深く見守りながら、さきほど、女の子を連れて行った通路へ踏み込みます。

 蝋燭の火だけの灯りで、とても満足のいくような明るさではありませんでしたが、王子は構わず通路を進みました。目的の部屋はすぐに見つかりました。ひとつだけ、閂で鍵のかけられた部屋があったのです。

 元々はちゃんとした鍵がついていたようですが、壊れてしまったのか燭台にかけられていました。王子は閂を抜き、静かに扉を開きました。

 中には女の子が眠っていました。藁を被った女の子はまるで陽の光りすらも取り込んでしまうような、燃え盛る赤い髪を持ち、可愛らしくも気品を感じさせるような顔立ちをしていました。王子は女の子を一目で気に入りました。

 魔王を倒した暁にはお城だけではなく、この女の子も姫として迎え入れてやろうと考えたのです。

 早速、王子は女の子を揺すり起こしました。女の子は小さな欠伸を噛み殺して王子を見上げます。泥だらけで異臭のする王子でしたが、女の子は驚くことなく、ただ訝しげに首を傾げました。

 王子は聞かれてもいないのに自らの出生を語り、魔王を伐し女の子を救うためにここまでやってきたのだと語ります。女の子は困惑したように瞬きして、王子の申し出を断りました。別に困っていることもありませんし、魔王との暮らしは以前とは比べ物にならないほど裕福だったからです。

 今でも食事は朝昼の二回に増えただけですが、魔王との交流は女の子にとって満ち足りたものでした。しかし王子はそれを認めません。嫌がる女の子の口を無理に押し開けて、皮袋に入っていた小粒の全てを押し込みました。途端に女の子は目を回して崩れ落ちてしまいました。

 王子はそれを心配したのも束の間、遠くから響く足音に驚いて藁の中に飛び込みました。魔王が物音に気づいてやってきたのです。魔王は閂が外されていることに気づき、女の子の部屋に押し入りました。

 魔王は藁の上に横たわる女の子を見て眉を潜めました。顔の前に手を翳しても、胸に手を当てても生きる力を感じません。魔王は女の子の小さな体を慈しむように優しく、両手で持ち上げました。力なく下がる四肢に指を添えて、自らの手から零れ落ちないようにしました。

 魔王は広間に向かい、腰を下ろしました。空から輝く光りが魔王と女の子を染め上げて、光りの画の一部になったようでした。魔王は暖かな光りを受けながら、女の子の笑う顔をよく見ようと目を近づけます。女の子の笑い声をよく聞こうと耳を近づけます。しかし女の子は笑顔を浮かべてはくれません、声も出してはくれません。

 魔王は女の子を抱き締めて、起きるように囁きました。笑うように囁きました。どれだけ語りかけても、どれだけ揺すっても起きない女の子を魔王は抱き締めました。その力で潰れてしまわないように弱く弱く抱き締めます。

 魔王の食いしばった歯から、恐ろしい唸り声が漏れました。魔王は自分の気持ちが理解できずにいました、なぜ犬のように唸るのか、なぜ犬のように吠えるのか、わかりませんでした。

 まるで家来たちを八つ裂きにしたときのように、声をあげることが抑えられません。しかしこれは怒りとはまるで違った初めての感情で、魔王は困惑し動けずにいました。

 ただ小さい女の子を抱いて声を搾り出すだけです。陽が傾いても、沈んでも、再び昇っても。魔王は動くことなくひたすら唸り続けました。歯が剥き出しの形相、それはもう恐ろしく、お城は常に震えていました。

 王子は魔法使いの言ったとおりの展開に喜びましたが、昼夜を問わずに響き渡る、地獄の釜を開いたような悍ましい声と振動に、怖気てしまい女の子の部屋から出ることもできずにいました。月が昇っても、陽が昇っても、魔王の声は止まる気配を知りません。それどころか段々と大きくなっているような気さえします。

 藁の中で塞ぎこむ王子は、眠ることも休むことも、物を食べることもできずに衰弱していきました。天井から滴る水滴で渇きをしのぎ、その日を怯えながら過ごします。なぜこんなことになったのかと、落ち窪んだ瞳で暗い部屋を見回しました。答えてくれそうな者はいませんでした。

 王子のように、魔王も考えていました。なぜこんなことになったのか、なぜこんなことをしているのか。女の子をお城に入れたあの日から、ずっと、ずっとです。しかしその心の問いに答える者もいなければ表に出すこともありません。

 女の子の笑顔と、潰れた兎の姿ばかりが浮かび上がり、魔王は困惑しました。いくら顔を拭っても、頭を振ってもそればかりがちらつくのです。

 低い唸り声は益々、大きく強くなっていきその双眸の捉えるもの全てを壊してしまおうと考えました。いえ、考えているのではありません、体がそれを求めているのです。

 しかし魔王はそれを拒みました。そんなことをすれば自分の両手に乗せたこの女の子はどうなるのでしょう。それこそ頭から離れぬ兎のように潰れてしまうでしょう。

 魔王は魔王です。自らの存在を恐怖という形で他に示さなければなりません。示さなければいけないのです。けれど、その示す相手もなければ必要もないというのに、一体なにをしろと言うのでしょうか。

 魔王の体は震えました。激しく熱い衝動が体を突き上げるのに、それを吐き出すこともできずに苦しみ喘ぎます。その揺らぐ体は床を揺らし城を揺らし、大地を揺らしました。

 それはそれは、まるで揺り篭のように優しく揺れ続けました。山をも震え近隣の村々も震え、そこに住まう人々は神の怒りか魔王の雄叫びかと戦々恐々とした面持ちで夜を明かしました。

 それは七日目の陽の光りでした。

 静まり返ったお城の廊下を歩く音がします。乾いた靴の底から落ちる土くれを蹴り飛ばしながら、王子は剣を抜きました。

 すでに声は聞こえません。魔王の声はなく、目だけを異様に大きく開き光らせた王子の歩く音が鳴るだけです。

 王子は気配を隠すこともなく、魔王の背後に立ちました。もはや震えることも唸ることもなく、大きな背中を小さく丸めて座り込むその無防備な後姿に、王子は刃を振りかざしました。勢いよく振り上げてその背に突き刺そうとしたのです。

 呻き続けて力尽きた魔王、八日目の朝日だけが王子に味方していました。王子の瞳に迷いはありません、王子はこれほどの苦難に立ち会ったこともなければここまで追い詰められることもありませんでした。魔王が力尽きるのが先か、それとも自分が力尽きるのが先か。

 しかし、天は王子に味方してくれた、少なくとも王子はそう思いました。ガラス細工の天井から漏れる朝日に色染められた魔王へ、王子は憎しみの目で剣を構え、けれどそこで王子は手を止めました。

 そうです、魔王は女の子を抱いているのです。このまま剣を突き出せば女の子も傷ついてしまうでしょう。悩みました。王子はやはり自分が助かることを第一とすべく剣を突き出そうとしましたが、鮮やかな光りの色の中、眠りにつく女の子の顔はあまりにも神々しく王子はその手を止めてしまうのです。

 思わず王子が呻くと、それをきっかけに女の子が動きました。顔をしかめて、眠たげに大きな欠伸をして体を起こします。女の子は瞼をこすりながら、魔王の後ろで剣を構える王子に気づきました。王子はすぐさま、女の子にそこから退くように身振り手振りで命令しました。

 けれども女の子は退きません。そうすれば王子がなにをするか悟ったのでしょう、寄り添うように魔王に抱きつきます。王子は苛立ちと焦りから、魔王の背中を切りつけました。衣服が破け、大きな背中に受けた太刀傷からは一滴も血が流れません。

 驚く王子を尻目に、魔王が顔を上げました。その先で目を開いた女の子が笑っています。

 魔王は優しく、その大きな手で女の子の顔を撫でました。鋭く伸びた爪で傷つけないように、指の腹で優しく優しく撫でました。女の子は驚いたように目を閉じて、すぐに開きます。

 王子は魔王の背中から血が流れているのに気づきました。少しずつ、少しずつ、それは量を増やしていき、白い石畳に広がっていきます。

 女の子が見つめる中、魔王は泣きました。生まれて初めて、泣きました。この世に魔王として生まれ落ちて、魔王として生きてきて、本当に初めて泣きました。魔王は自分が泣いていることに気づきもせず、女の子に感謝の言葉を述べました。

 魔王は血を流しません、涙もです。けれどもこの魔王は、魔王だった者は血を、涙を当たり前のように流しています。もはや魔王ではなく、ただの人間でした。人間は涙も流せば血も流し、そして血を失えば死んでしまうのです。

 王子と女の子に挟まれて、しかし魔王だった者はなにも見ることもなく瞼を閉じました。女の子がもう、決して眠ることのないように願いを込めて、魔王だった者は女の子の代わりに眠りについたのでした。



 それから女の子を取り巻く世界は全て変わりました。まず女の子がさせられたことは、王子に連れられたお城の中で魔王だった者の話を、老若男女問わずみなに話すことでした。見たこともないような豪華なドレスに奇抜な髪型の貴族たちは、女の子の話す言葉のひとつひとつに驚き、関心し、また女の子がお城で交わした会話から、その知恵を活かして生き残ることができたのだと、強かな子供だと褒め称えたのです。

 お城の外でも女の子とそれを救った王子の話で持ちきりでした。王子は町人に慕われ、またお城に住まう貴族たちからも認められている今を逃すまいと考えました。そうそう断ることができないようにと、町人や王族貴族を呼んだ王子の祝勝会としての催しで女の子との婚姻を認めてくれるよう王様に頼みました。

 王様は王子の言葉に顔を赤く、続いて青白く変えましたが、動揺する王族貴族の間を縫って祝福の言葉をあげる町人たちに押されるようにその言葉を認めました。

 王子は町人と王族貴族とで別れたその場から女の子を引き抜き、お祝いと称して女の子を持ち上げるように頼み込んだ町人たちに金貨を与えました。

 女の子は状況がわかりませんでしたが、嬉しそうな王子の顔を見てこちらも楽しそうに笑いました。

 婚姻祝いです。女の子は王子に連れられて壇上に上がりました。多くの者から賛辞を受けて、上機嫌な王子の前に、傅く者が一人おりました。あの魔法使いでした。しかし王子は魔法使いを快く思っていません、それでもやはり自分の前に傅いた者を、他人の目も気にして無下に扱うことはできません。

 王子は言いました。女の子を救う知恵を授けてくれたこと、それを賞して王様に仕える賢者とならないかと言いました。

 魔法使いはその言葉に首を縦に振ることはなく、代わりに代償として、女の子の髪、その一房を頂きたいと王子に言いました。みなの視線が集まる中で、王子は怒りに体を震わせました。

 王妃となるべき者の髪を頂戴するとはなにごとだ。すでに王子の終世伴侶となった女の子、その女の子の髪を奪うということは、王子から奪うも同然だと、王子は怒り狂って魔法使いを追い返してしまいました。

 なにもここまで、戸惑う他の者を尻目に、魔法使いを追いやったことに密かな満足感を得た王子は女の子をつれてお城へ戻りました。他の者には催しを最後まで存分に楽しむように言いました。

 女の子は王子に、髪の一房ぐらいならいくらでも分けられるのにと、そう言いました。髪なんてものはすぐに生えるのですから、気にすることなどないと考えたのです。

 しかし王子は言います、王家の人間たる者がみだりにものを与えることはないと、庶民などとは地位が違うのだから、それをわからせてやらねばならないのだと。

 女の子は首を傾げました。不思議です。魔王だった者はそんなことを考えず、余った食べ物はその家来たちに分けていたのですから。

 また女の子が口を開こうとすると、王子はその肩に手を置いて顔を近づけました。女の子はすでに王子と終世の伴侶となることを誓い合った身です。だから王子は言いました、あなたは私のものだから、素直に頷いてさえすればいいのだと。

 女の子は素直に頷きました。余計なことは喋らず、余計なことはせず、ただ居てくれさえすればいいと王子は言います。重ねて言います。王子は女の子の口から、自分の無様な姿を語られるのではないかと恐れたのです。女の子はそれにも素直に頷きました。

 王子も満足そうに頷いて、女の子は王女になりました。



 王女はお城の中でも一際に高い塔に繋がれました。まだ小さな王女は役立たずだと王子に言われたのです。小さな王女は王子に言われた通り、なにも喋らずなにもせず、ただ窓の外を朝早くに昇る陽を見上げて、食事をして、それから陽が沈むのを見ていました。

 小さな王女の身の回りを世話していた侍女は、なんとも不憫に思えていつも小さな王女に御伽噺を聞かせていました。そのときだけは、小さな王女は窓の外を見ず、嬉しそうに侍女の顔を見つめていました。

 当たり前の子供です。侍女は小さな王女が喋れることは知っていましたから、喋らなくなったのはきっと性悪な王子がなにかをしたのだと考えていました。

 そんな生活が長く続いた頃、小さな王女は思いました。いつもいつも、当たり前のように御伽噺を聞かせてくれる侍女に、なにか感謝の印を与えようと考えたのです。

 小さな王女は朝早くにご飯を運んできた侍女に早速、身振り手振りでなにか欲しいものはないかと尋ねました。しかしその意図が伝わらず、侍女は目を丸めているだけでした。もしや、なにかの病ではと思い、必要なときは喋ってくれても構わないのだとそう言いました。

 そこで小さな王女はようやく言葉を漏らしました。そよ風のように柔らかで、鈴の音を転がすように心地よい声でした。その声音にうっとりと聞き入っていた侍女は小さな王女にもう一度、なにか欲しいものはないのかと尋ねられて驚き慄きました。たかが世話係の仕事、それしかできない自分に施しなどと。

 心優しい小さな王女に侍女は思わず涙を流しました。侍女は言います、あなたのしたいことをしてくれれば、それが私にとって一番に喜ばしいことなのです。

 侍女の言葉に小さな王女は首を傾げました。自分のすることが侍女のためになるなどとは考えてもみなかったからです。そこで小さな王女は言いました、侍女がしてくれたように、色んな人たちにお話をしてあげたいと。

 それがあまりにも嬉しそうな顔をしていたので、侍女は力強く頷きました。

 侍女は小さな王女に大きなローブを被せて頭まですっぽりと覆いました。侍女は思います、今からしようとしていることがお城の者にばれてしまえば自分の命を失うかもしれない、けれどもこの小さな王女の願うことをしてあげようと、自分の命などこの小さな王女のためならば投げ捨てても構わないと思えたのです。

 侍女は途中、すれ違う者たちをごまかしながら苦心して、小さな王女をお城の外へ連れ出すことができました。侍女はお店の準備をしている知り合いたちに声をかけ、また他の知り合いも集めてくれるように頼みました。

 侍女は小さな王女を町外れのボロ屋が並ぶ場所へと連れて行きました。ここならば王族貴族がくることもないだろうと侍女は考えたのです。

 早速、なにがあるのかと集まった町人やボロ屋に住まう人々の前で小さな王女の被っていたローブを脱がせました。現れた顔に驚き、集まった者は口をただ大きく開けていました。

 侍女は、この小さな王女が王女となった日、その催しに出られなかった者もいるだろうとして、小さな王女に王族貴族が飽きるほど聞いていた、捕まっていたころのお話を彼らに聞かせてやるように言いました。

 段々とざわつき始めた町人たちでしたが、小さな王女が口を開くとすぐにみなが黙り込み、その心地よい声に耳を傾け、体を預けました。

 首を、体を大勢の人々が右へ左へと揺らす様はとても不思議な光景でした。侍女はそれに賛辞の言葉を、祈りを神へ捧げる姿と重ねて見ていました。それほどに神々しくも感じられたのです。

 侍女と小さな王女は毎朝早く、この場所に訪れると約束しました。その言葉に喜びの声をあげる町人たちに、小さな王女も嬉しそうに笑いました。侍女はこの小さな王女が誇らしくて、まるで我が子を見る母親のような気持ちになりました。

 小さな王女と侍女の話はすぐに町中に知れ渡り、毎朝多くの町人たちが小さな王女のお話を聞きにやってきました。それだけ騒がれるのですから、お城で働く者に知れないはずがありません。話を聞いた王子は小さな王女をかどわかし民衆の前に引きずり出したとして侍女を捕らえました。

 王子の家来に捕まった侍女は公衆の死刑場へと連れて行かれました。鎖に繋がれて木枠に首をはめた侍女を、町人は罵倒しました。小さな王女を無理に外へ連れ出した性悪女として石まで投げつけられます。

 けれどそれをするのは王子の息がかかった僅か数名の町人だけで、他の者は以前の催しと違い誰一人としてなにも言わず、ただ黙ってその光景を見守りました。

 いよいよ刃が打ち下ろされるとき、王子は小さな王女を連れて死刑場にやってきました。約束を破ればみなこうなるのだと小さな王女に囁きます。小さな王女は侍女を見つめ、王子を見上げました。

 もし、小さな王女が王子に言われた通り、余計なことをしなければこうはならなかったでしょう。

 もし、小さな王女の感謝を受けなければ、侍女はこんな不憫な目にあうこともなかったでしょう。

 小さな王女は侍女に謝りました。自分が浅はかだったためにこんな目にあわせてしまったのだと涙をこぼしながら訴えました。こうなるくらいなら、なにも喋らなかったのに、と。

 それに対して侍女は笑いました。侍女が言ったように自分のしたいことをしてくれて本当に嬉しかったと笑みを浮かべました。こうなるくらいなら、もう少し早くに始めれば、と。

 涙を流し感謝の意を表した侍女の上に刃が落ちて、侍女はそれきり喋らなくなりました。小さな王女は泣きました、大声で泣きました。傍らにいた王子は驚いて、子供らしく泣き叫ぶ小さな王女をお城に引きずり戻しました。

 小さな王女は再び一番高い塔へと繋がれました。それでも、悲しみに泣き崩れる小さな王女の大きな声はお城を全て飲み込むように響いていました。寝ても醒めても食事のときも、常に泣き声の聞こえる小さな王女に困り果てた王は、王子の言葉もよそに新しい侍女を小さな王女へつけました。するとどうでしょう、小さな王女はぴたりと泣き止みました。

 王はこれ幸いと喜びながら、あくる朝に新しい侍女へ小さな王女の様子を聞きました。しかし新しい侍女は愛想笑いを浮かべるだけで曖昧な返事をするだけでした。それもそのはず、新しい侍女は一度しか小さな王女を見ていないのです。

 鍵を開けて中に入ると、小さな王女は怖いものを見たように飛び跳ねて寝床に隠れてしまいます。なにを語りかけてもシーツを震わせるばかりで言葉を返してくれないのです。

 お陰で食事もろくに取らず、もしこのままなにかあれば、自分もまたあの侍女のような目にあうのではと新しい侍女は恐れました。そこで新しい侍女は魔法使いの下へ向かいました。知恵を授かろうと思ったのです。

 魔法使いは新しい侍女の言葉を受けて、まず代償として今日一日、お城の中で一番高い塔の一番高い場所にある窓を開け放つように言いました。それぐらいなら容易いと新しい侍女は頷きました。

 魔法使いは言います、私は決してあなたの言葉を聞こうとはしません、だからお姿を見せてくださいと。そう、小さな王女に伝えれば良いのだと笑いました。新しい侍女は喜び、すぐさまお城へと駆け戻りました。

 閉ざされた戸を掌で叩き、なるたけ優しい声で呼びかけて鍵を開けます。中には新しい侍女がやってきたことでシーツへ潜り込んだ小さな王女の姿があるだけです。新しい侍女は、本当にこれだけの言葉でどうにかなるのだろうかと喜び勇んだ自分を少し、諌めました。それから、魔法使いに言われたように小さな王女に伝えます。

 するとどうでしょう、頑なに新しい侍女との関わりを持たないようにしていた小さな王女がゆっくりとシーツの下から出てきました。その目は暗く落ち窪み、頬もこけて火のように燃え盛る髪の毛も艶を失っていました。新しい侍女はその姿に心臓を跳ね上がらせました。

 お食事をどうぞ、そう言って差し出した皿を受け取り、小さな王女は湯気の立つそれに息を注いで冷まそうとします。慌てたように新しい侍女はそれを代わり、さじにすくって小さな王女に差し出しました。無言のまま、小さな王女はそれを受け入れます。

 新しい侍女は歓喜しました。これで心配することはなくなったと、そうして逆にもう少しでも魔法使いの場所に行くのが遅れていたら、とうすら寒くなりました。

 小さな王女がスープを飲んでいる間に、新しい侍女はそよ風を運ぶ大きな窓を見据え、天井を見上げました。陽の光りを注ぐ天窓に足場をかけて開きます。それを興味あるように見ていた小さな王女に、新しい侍女はすぐに足場を取り下げて部屋から出て行きました。

 その晩のこと、なぜか不安に苛まれた新しい侍女は落ち着きもなく、また眠ることもできませんでした。彼女たちの眠る小間使いの部屋から寝巻きのまま外に出て、薄ら寒いことに気づきます。天窓を開け放した状態で、もし小さな王女が風邪でも引けば大変です。ただでさえ体が弱っているのですから一大事です。

 新しい侍女は上に布を羽織ってランプを持ち、静まり返るお城を歩きました。寝ずの番をしている兵士に訝しげな目を向けられながらも、それらしい動きをすれば止めればいいだろうと告げて急ぎ、小さな王女の下へ向かいます。

 もう寝てる頃合だろうと起こさないように静かに鍵を開き、中へと入った新しい侍女の目に映ったのは、ぐっすりと眠る小さな王女の枕元で大きな翼を広げた黒いカラスでした。その姿は犬猫よりも大きく、鋭い嘴を小さな王女へ向けています。

 思わず新しい侍女が悲鳴をあげるとカラスも驚いたようにこちらに目を向けて、一声鳴きました。騒ぎに気づいた兵士が重い鎧を鳴らして塔を駆け上がる間に、大きなカラスは天窓から外へと逃げ出しました。舞い落ちる黒い羽根を見ながら腰を抜かしたようにへたり込む新しい侍女を助け起こし、兵士は小さな王女に目を向けました。

 あれだけ騒がしかったというのに、小さな王女はぐっすりと寝込んだままです。兵士は安心して、きっと今までの疲れがでているのだろうと溜息をつきました。震える新しい侍女になにが起きたかは知らないがと、兵士は前置きして部屋に飛び散る汚れた羽根を片付けるように命令しました。

 兵士は新しい侍女と同じく、なにかあれば自分も罰を受けるのではないかと恐れたのです。新しい侍女は兵士の言葉に頷きました。帰る鎧姿の背を見送り、大きな羽根を片付けて、天窓を見上げ、小さな王女を見下ろします。

 魔法使いとの約束がある以上、天窓を閉ざすわけにはゆきません。新しい侍女は小さな王女のシーツをかけ直し、寝ずの番で天窓を睨み続けました。時折過ぎ行く黒い羽と、憎らしげに顔を覗かせる大きなカラスの瞳は、新しい侍女を恐れさせました。

 今ここに自分しかいなければ確実に大声を上げて人を呼んだでしょうに。

 新しい侍女は小さな王女を恨みがましく、いえ、慈しむように目を向けました。自分の保身ばかりを考えていた新しい侍女は、これが魔法使いの言う代償なのだろうかと怖気づく心に喝を入れて、天窓を睨みつけます。

 再び陽の光りが天窓から新しい侍女の顔を差す頃には、カラスは消えてなくなりました。新しい侍女はようやく安堵して、天窓を閉ざしました。



 それから幾日も日が過ぎました。陽と月は飽きもせずに駆け回り、小さな王女はそれらを見上げるだけでなにひとつ、喋ろうとはしませんでした。新しい侍女はそんな小さな王女を悲しそうに見つめていましたが、心優しき人のこと、きっと喋れば自分が処刑されるとでも考えたのだろうと、新しい侍女からすべきことはなにも見当たりませんでした。

 そんなある日、にわかにお城が騒がしくなりました。新しい侍女は小さな王女の部屋から下げた皿を持ち、窓のひとつからお城の外に目をやりました。そこには城門を前に声をあげる町人たちの姿がありました。彼らは口々に小さな王女に自由を与えてやるべきだと訴えています。新しい侍女は度肝を抜いて、それらに対応する兵士の間を抜けて小さな王女の下へと急ぎました。

 小さな王女もこの騒ぎに気づいていたようで、窓から彼らの姿を見下ろしていました。駆け寄る新しい侍女に心配そうな瞳を向けます。新しい侍女は安心するように言いましたが、自分自身、不安に押し潰されそうでした。その予感を的中させるように、今度は悲鳴があがったのです。

 見れば門の外、槍に突かれて赤を散らす町人の姿がありました。これだけ離れていてもその色は鮮やかで見落としたりしません。新しい侍女は悲鳴をあげて、小さな王女は固まってしまいました。お城の外では罵詈雑言の嵐で、今にも城門が押し破られそうです。対応できなくなった兵士を尻目に、ことの重大さに頭を痛めた王は王子を使い、小さな王女に彼らを説得するように言いました。

 王子は小さな王女が自分の言葉にもはや背くことはないだろうと、そしてなにより王が自分に頼み込んできたことに気分をよくして、塔を上り、小さな王女を連れ出しました。新しい侍女は王子が部屋に押し入った際に口論になり、王子に突き飛ばされてしまいました。

 王子は兵士をどかして小さな王女を彼らの前に立たせます。小さな王女の名前しか呼ばない町人たちに、王子は不快そうな顔をして、彼らを追い払うように命令しました。

 小さな王女は涙をこぼして町人たちに帰ってくれるように頼みました。これ以上なにかして、またあの侍女のように命が失われるのは嫌だったのです。

 小さな王女はあの侍女の上に刃が落ちたとき、踏み潰された兎を思い出しました。瞼を閉じた魔王だった者を思い出しました。小さな王女は悲しさで胸が張り裂けそうだったのです。兎が死んだとき、もはや泣くこともないだろうと思えても、侍女が目の前で黙りこくると魔王だった者を思い出してしまい、涙がこぼれたのです、今も。

 悲しさに溢れ、言葉も喉につかえて出てこずに、小さな王女は終いにはただただ涙を流すだけで押し黙りました。そんな小さな王女に町人たちは、王子ですらなにも言えずにそれぞれの持ち場へと帰りました。

 小さな王女だけは、高い塔の中、新しい侍女の胸の中で泣いていました。

 その日の夜、騒がしい音に小さな王女は目を覚ましました。新しい侍女が慌てた様子で部屋に飛び込んで、すぐに外に出られるよう支度してくださいと願うのです。言われるままに重い瞼をすりあげて小さな王女は寝巻きから派手なドレスへと着替えます。

 するとドアの外が騒がしくなり、戸を叩く者が現れました。王子の声です。新しい侍女は体を震わせて、小さな王女に支度をすませるようにだけをお願いして外に出ました。ドアの外はなおも騒がしかったのですが、それもすぐに治まりました。

 支度を終えて新しい侍女を待つ小さな王女は、窓を叩く音に気がつきました。そこには、大きく鋭い嘴で窓を突くカラスの姿がありました。その犬猫すらも食べてしまいそうな大きな姿に小さな王女は驚きましたが、逆にわざわざ窓を叩く姿が滑稽で、小さな王女は窓を開きました。

 大きなカラスは燃えるような瞳を小さな王女に向けて、羽根を器用にたたみお辞儀して見せました。驚く小さな王女に、大きなカラスは語りかけます、先日は失礼しましたと。

 それがなにかもわからない小さな王女は首を傾げますが、それに構うでもなくこの人語を喋る人間臭い大きなカラスは話を続けました。

 以前、王子から受けた代償をあなたから直接受け取りに赴きましたが、どうやらそれは筋違いのようでした、代わりに王子からは直接、代償を受け取りましたと、そう言うのです。そこで初めて、小さな王女はこの大きなカラスが魔法使いだと気づきました。大きなカラスの姿をした魔法使いは、失礼をしたお詫びをしたいと言うのです。

 あなたが私に髪を一房渡せば、なんでも願いを叶えてごらんにいただけますと。小さな王女は躊躇いまます。魔法使いはその心を見透かしたように、王子はもう、あなたの邪魔をすることはありませんと言いました。あなたはすでに自由なのですと頭を垂れます。

 それでもこの小さな王女は胸の奥に疼く悲しみが、首を縦に降らせてくれませんでした。魔法使いは溜息をついて、あなたはもはや自由なのですから、そのような顔をする必要はないのですと優しく語ります。それでも、それでもと顔を伏せる小さな王女に、魔法使いも諦めたように外へ飛び立とうと大きな翼を開きました。

 その姿を見たとき、小さな王女は思わず制止の言葉を投げました。振り向いた魔法使いに躊躇いながらも、自分の願いを口にします。

 もし、もしもできうることならば、消えた人に会うことはできるのだろうかと。

 魔法使いは、即座に首を横に振りました。落胆する小さな王女に、ただと一言付け加えます。今生の出会いはなくとも来世、また来世、そのまた来世、出会えるかもしれないと。

 それは気の遠くなるようなお話で、あなたは何度も命を失い、何度も命を得た先にある。あるいはすぐ明日かもしれない。そんな言葉を小さな王女に向けました。小さな王女はそれでも構わないと笑みを浮かべ、魔法使いはそれに応えて小さな王女の肩に乗りました。

 意外にも重い体、足先の鋭い爪がドレスにかかり、魔法使いは鬱陶しそうにそれを払います。そしてその鋭い嘴を小さな王女に向けました。その嘴から漂う臭いは、小さな王女が魔王だった者のお城で嗅いだことのある臭いでした。

 鋭い痛みが小さな王女を襲いました。あまりの痛さに涙を浮かべると、赤い髪の毛を嘴に挟んだ魔法使いが窓辺に立っていました。魔法使いは一声、カァと鳴いて飛んでいきました。赤い髪の毛を落とさないようにとしっかりくわえて。

 こめかみから頬へ滴るものをすくうと、小さな王女の小さな指先は赤くなりました。何度も何度も拭いましたが、ドレスは汚れても滴るものは拭い切れません。小さな王女は諦めてそのままに、窓辺に立ちました。

 窓辺から見上げる空は真っ黒で、月が青く輝いています。しかし見下ろしたお城は赤に染まり、あらゆるところで火が噴き出ていました。どうしたことかと身を乗り出した小さな王女に声がかかります。お城に集まった町人たちでした。

 彼らは口々に叫んでいますが、距離と炎の燃え盛る音で聞き取れません。そのうちに小さな王女が身を乗り出した窓辺まで熱気が包み始めて、中へと戻りました。

 小さな王女は閉まったきりの扉に振り向いて、新しい侍女が来るまで待つことにしました。もう支度はできていますから、あとは新しい侍女を待つだけです。そうすれば、彼女がきっとどこかへ連れて行くのだろうと小さな王女は考えたのです。

 いつもと違って騒々しい雰囲気のお城の中で、小さな王女は待ちました。ぱちぱちと燃える木、その爆ぜる音や風の音、重なり合う人々の声を聞きながら瞼を閉じて、新しい侍女を待ちました。



 闇を裂き空を抜き風を切り、大きく真っ黒な翼を羽ばたいて魔法使いは飛びました。駆ければ馬よりも速く、飛び立てば鷹すらも追い越して。

 山を越えて谷を越えて、たどり着いた場所はお城でした。門の上に乗れば、体も朽ちた者が叫びます。それがあまりにもうるさいものだから、魔法使いは嘴でその者を突いて黙らせました。

 上がった息を正して、魔法使いはお城の敷地へ入ります。あたりを漂う異臭は耐え難く、家畜小屋からは悲鳴のような遠吠えが常に聞こえました。

 扉を前にしたとき、魔法使いはカラスの姿をしていますから開けられないと嘆息して窓ガラスを破り、中へと入りました。そこには青い月光に照らされて光り輝く死体がありました。天井に彩られた光りを受けて、その人は輝きます。

 魔法使いは嘴に挟んでいた赤い髪の毛を死体の上に添えました。

 あなたにはもう、強靭な体もなく冷たく固い心もなく、ましてや命もなく、受け取るべき代償など見当たらないけれど、それでもあなたが望むなら願いを叶えましょうと、そう言うのです。

 死体はただ黙って横たわるだけでした。けれど魔法使いはその身に嘴を衝き立てて、穴を開けてしまいました。中から肉の塊を抉り出して、カァと一声、鳴きました。



 お話はこれで終わります。

 小さな王女は再び、死した者と会うことはできたのでしょうか。けれどもそれは、誰も興味のないお話になるでしょう。

 ただ一人の人間が誰かと出会うなどということは、当たり前のありふれた、そう、よくあるお話ですからね。

書き方ばらけすぎて笑った。

オチがしょうもなくて哂う。

そもそも下らなくて泣ける。

けれどもこういうお話が好きです。もう少し、うまく書けるようにがんばります。




 ごほん。

 あー、あー、あー。

 あーアーア~あーあ~。

 コホンコホン。


 ……せーのっ。


 小指ーを つなぐーぅ 赤いー糸ぅ

 みんなーで つむぐーぅ 赤い~糸ぅ

 真っ赤ぁに 燃ーえーるー 空のぉ 下でー

 たーんと燃え盛る 薪のぅ 上で~

 くべてしまえ あぁかぁいー糸ぅ

 火ぃにーも 勝るーか 赤いー糸ぅ

 炎の中で 舞いおーどりぃ 

 激ぇしく うーたぁう 人ぉーの中で~

 黒く染まるの 赤いー糸ぅ

 風に溶けるの 赤い~糸ぅ

 そうして消えるの 赤いー糸ぅ


 ご読了、ありがとうございました。

 気をつけ、礼。




※誤字修正いたしました。まだまだありましょうが見つけ次第に直します。

 なにも考えずにジャンルを童話としましたが、これって実は文学になるのかと悩んだり。

 うーん……ま、いっか。

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