魔王のお城
とある小さな女の子のお話です。
たぶん童話。恋愛では決してないのであしからず。
昔々、それは本当に昔の話。ある村に一人の女の子がおりました。小さな女の子は燃えるような赤い髪を持ち、その村の住民からは嫌われていました。その子と同じ色の髪を持つ者が一人もいなかったので、自分たちとは違う髪を理由に誰もが仲間外れにしていたのです。
両親もおらず、面倒を見てくれる者もなく、女の子は村の外で寝て起きてを繰り返し、毎朝早くから色んな家を回って食料をわけてもらっていました。村に住まう人々は女の子を嫌っていましたが、自分たちの村で死なれるのは後味が悪いものだと文句を垂れながらも食料をわけてあげていました。
女の子は彼らの慈悲を受けて、施しを受けて毎日を生きていました。女の子にとって村の人々は絶対で、酷いいじめを受けても泣くことなく、常に笑顔で過ごしました。彼らはそれを見てさらに馬鹿にしましたが、構われなくなるよりは良いと女の子は考えていました。自分がいじめを受けても、食料さえわけてもらえればそれでいいと思っていたのです。
しかし、そんな生活は突然に終わりを迎えました。
近くの山に城を持つ魔王、その家来たちが悪さをしに村にやってきたのです。魔王の家来たちはすぐに子供を捕まえて、自分たちを怖がった者から順に八つ裂きにしていきました。それを見て恐れをなした大人も同じように八つ裂きにしたり、吊るし上げて皆で嬲ったりと好き放題に暴れました。
村人は全て、彼らに殺されました。魔王の家来たちは村の人々を殺したことに満足し、ついでとばかりに家畜や彼らの財産を奪いました。そのとき、彼らのうちの一人が、小屋の中で牛の乳を一生懸命に搾る女の子を見つけました。すでに火は広がっているのに、女の子は逃げる素振りも見せません。
魔王の家来たちは女の子にも悪さをしようと近づいて、怖がらせるように八つ裂きにした子供たちの体を投げつけました。けれど女の子は怖がりませんでした。ただ笑って、牛の乳搾りを続けました。
魔王の家来たちは何度も女の子を怖がらせようとしましたが、女の子はそんな素振りも見せずに乳搾りを終えて小屋から出て行ってしまいました。このまま怖がらせることもできなくては、女の子に手を出すことはできません。彼らは怖がる人々しか襲えないのです。
魔王の家来は顔を見合わせて話し合いました。このままでは、魔王の家来としての名折れです。けれどどうしても女の子は怖がりません。そこで彼らは女の子を、彼らを治める魔王の下へ連れて行くことにしました。村の者は女の子以外に全て死んだのですから、連れ去るぐらい悪さにはならないだろうと彼らは考えたのです。
魔王の家来たちは女の子を担ぎ上げ、急ぎ元来た道を戻り始めました。牛や財金、食料に酒の詰まった樽を連れて歩く彼らにとって、女の子などまるで木の葉のように軽く感じました。
女の子は自分を担いで走る魔王の家来に、一体、どこへ行くのかと問いました。魔王の家来は自分たちを治める、それはそれは恐ろしい魔王様のところへ連れて行くのだと笑いました。女の子は家来が笑って教えてくれたので、笑ってありがとうと答えました。
とある山の頂に建つ立派なお城。白く美しい外壁には緑の赤色の蔦が巻きついて、正面の門を抜ければ噴水の音も涼やかな、静かな広間があります。そのさらにさらに奥には女の子が見たこともないような立派な扉がありました。首を巡らせて、それがようやく家屋だと気づきました。
女の子は思いました。今までで見た牛の入っている家畜小屋よりも、もっとずっと大きな家屋ですから、きっと怪獣のような巨大な生き物が首を繋がれているのだと。
しかし、女の子の予想は外れました。開いた扉の奥に怪獣はなく、人気もありません。頭上いっぱいに広がる大きなガラス細工の画から綺麗な光りが漏れています。綺麗に磨かれた床には魔王の家来たちの姿が映るほどで、牛などの家畜を入れておくような古い板でも土くれでもありませんでした。
魔王の家来たちは村から奪った物を広間へ運び、牛などの家畜は外に繋ぎました。家来の一人は言います。これからとても怖いお方がお前を食べてしまうんだよと。女の子は怪獣が出てくるのだろうと思いました。こんな大きな家屋に住むような大きな大きな怪獣が、そしてとても綺麗好きな怪獣が出てくるのだろうと思いました。
けれど、女の子の予想はまたしても外れました。部屋の奥の扉を開き、ゆっくりとした足取りで現れた魔王は女の子の想像していたよりもずっと小さかったのです。
魔王は女の子を見て眉を潜め、続いて自分の家来に目を向けました。これはなんだ、と女の子を指して言います。魔王の家来たちは畏まりながら、なにをしようとも恐れないので連れて参りましたと魔王に告げます。魔王は、だからと言って連れてくることがあるのかと深い溜息をつきました。
魔王は女の子の目の前に立ち、顔を寄せて聞きました。私を恐れはしないのかと。女の子は怖くないと正直に答えました。実のところ、もっとずっと大きな怪獣を思い描いていたのですから当然と言えば当然でしょうが、女の子の考えていることなどわかるわけもなく、魔王はひとつ頷きました。
魔王は家来たちに言いました。空いている部屋に女の子を閉じ込めるように言いました。魔王の家来たちはお城へ来たときと同じように女の子を担ぎ上げ、近づく冬のため、暖炉に使う薪を入れた物置を女の子の部屋として使うようにしました。
女の子は部屋に投げ込まれましたが、床には藁が大量に敷かれていたため怪我をすることはありませんでした。女の子はこれからどうするのか、閉じられた扉の先に呼びかけましたがそれには答えず、魔王の家来は、怖いのか、怖くなってきただろうと問いかけます。女の子は首を傾げながら、そんなことはないと答えると、魔王の家来はつまらなさそうに嘯いて、部屋から離れていきました。扉にはしっかりと鍵をかけて。
女の子は空いたお腹を撫でながら、藁の中に潜り込みました。村にいた頃から一日に一回しか食事はしていません。これぐらいのことなら慣れっこです。むしろ、ちくちくと肌に刺さるけれど藁でできたベッドのお陰で女の子にはとても居心地が良く感じられました。このように柔らかい物の中で寝た記憶など、女の子にはありませんでした。
今日はとても良い夢が見れるのだろうと、女の子は藁の中で目を閉じます。空いたお腹をどうすることもできないのならば、早く一日を終わらせるしかないと女の子は思ったのです。ひもじさにも慣れてきて、睡魔に誘われてまどろみの中に入ろうとしたとき、扉が大きな音をたてました。女の子が驚いて飛び起きると、魔王の家来が白い湯気の沢山出ているお皿を持って、立っていました。
魔王の家来は言います。恐れもしないのならば悪さをすることができない。悪さなどできないのだから、丁重にもてなすしかないのだと。
女の子はその言葉の意味を良く理解できませんでしたが、差し出された皿に満ちたスープに目を輝かせました。魔王の家来は、熱いから舌を火傷しないように、そしてちゃんと残さず食べるようにと注意しました。優しい呼びかけに女の子は首を傾げます。
その様子を見て、魔王の家来は笑いました。舌が火傷したら、満足に悲鳴も出せないだろう。飯も食べなけりゃ、満足に怖がることもできないだろうと。
女の子は笑い声を上げて出て行く魔王の家来を見つめました。乱暴に閉められた扉に足音が響き、音はどんどん小さくなっていきます。
女の子はスープの入った皿を見つめました。なみなみと注がれた白いスープは白い湯気を出し、木で出来た皿の中に収まっています。香りも良くて、女の子は唾液を啜りました。けれど、本当にこれを食べてしまってもいいのでしょうか。毎日一度の食事しか取らなかった女の子は、毎日村人にいじめられていた女の子は、なぜ魔王の家来がこうも優しいのか不思議でなりませんでした。
女の子は考えて、考えて、考えた挙句にスープの注がれた皿を見つめながら眠ってしまいました。
次の日、女の子は明け方早くに目を覚ましました。慌ただしくも幸せな日を終えて、女の子は空腹を満たすために皿に注がれたスープを飲みました。昨夜とは違って白い湯気も出ていませんでしたが、女の子が今まで食べた全ての料理の中でも一番に美味しく感じられました。
女の子は腹を満たした後、なにをしようかと考えました。昨日までの自分なら、食料を探しに歩かなければいけませんでした。村に住む人々の手伝いをしなければなりませんでした。けれども、女の子は部屋に閉じ込められているのでなにもできません。
そこで女の子は藁を編むことを考えました。なにに使うのかはわかりませんが、縄にすれば用途はあるでしょう。女の子は食料をわけてもらいました、ですから、このお城に住まう彼らの役に立とうと考えたのです。
女の子がせっせと縄を編んでいるとき、床に音を響かせて足音が近づいてきました。昨夜のように大きな音をたてて扉が開きます。扉を開いた魔王の家来は縄を編む女の子を見て、早速逃げたくなったのかと問いました。逃げるために縄を使うのだと考えたのでしょう、魔王の家来は答えも待たずに縄を部屋の隅に投げ捨てて、女の子を担ぎ上げました。
女の子が連れて行かれた部屋には、大きな円い机が置かれていました。広い部屋にそれだけ置かれて、朝の日差しに眩しく輝いています。机の上には所狭しと色々な料理が並び、女の子はその席のひとつに座らされました。正面には魔王が座り、食事をしていました。
豪華絢爛な料理を前に落ち着かない様子の女の子に、魔王は食事をするよう言いました。女の子は驚いて目を大きく開きましたが、今日はもうスープを飲んだので料理は食べられないのだと答えます。
魔王は女の子を連れて来た家来に目を向けました。家来は驚いて、おそらくは昨日の残りでしょう、と答えます。魔王は溜息をひとつついて女の子を見ました。魔王はこの恐れを知らない女の子を、ただ頭が悪いからではないかと考えました。
そこで魔王は意地の悪い問いかけをしました。料理を前に涎を啜る女の子、その目の前にあるふたつの皿を指して、片方に毒が入っているとすれば、それがどちらかわかるかと聞いたのです。
女の子は大して考えもせずに、自分が死ねばそこに毒があったのだろうと答えます。けれど、もしどちらも食べて良いのだとすれば、自分は腹を満たしたいために両方の料理を食べるでしょうと。
毒が入っているとわかっていてもか。魔王は女の子の答えに、今まで満足にご飯を食べたことがなかったのだろうと考えました。村にいながら腹を満たせないのならば、村人たちにいじめられていたのではないかと、それならば目の前で殺されても小気味良いだけで、怖がりもしないのだろうと頷きました。
魔王は毒など入ってはいないから、安心して食べるように言いました。迷う女の子に、勧められた食事もとれないのであればその首を切り落として広間に飾ってやろうと笑います。しかし女の子は笑いながらお礼をして、食事を始めました。
魔王は唸り、怖いものはなにもないのかと問いました。女の子は皿の上から顔を離さず、目だけを魔王に向けてきます。
女の子はどうして魔王がそんなことを聞くのか、わかりませんでした。けれど、魔王の家来はいつも自分を怖がらせようとしていることを思い出します。それならば怖いと言ったことをしてくれるのではないのか、そう考えたのです。
女の子は、生まれて初めて嘘をつきました。
魔王は驚きました。女の子は、兎が怖いと言ったのです。あんなに小さく、ただ跳ねるだけの兎をです。魔王は訝しみ、兎のどこが怖いのか聞きました。女の子はパンにかじりつきながら、あの大きな耳は自分の考えていることすら聞き取ってしまいそうで恐ろしい、自分の体を持ち上げる足の強靭さは、追いかけられたらきっと逃げられないでしょうと、そう答えたのです。
なるほど、それは確かに恐ろしく感じられます。魔王は家来に兎を捕まえてくるように言いました。家来は頷くと部屋から出て行きました。魔王は兎ならばこの山にいくらでもいるのだから、恐れ戦きながら待つように言いました。女の子はすでに死んでしまった村人がいじめていた兎を思い出しました。あんなに丸っこくて柔らかい生き物が傍にいれば、優しくするのが当然だろうにと。
魔王は食事を終えて立ち上がると、女の子は全て食べないのかと聞きました。昨日は小さく見えた魔王も、改めれば見上げるほどの大きさです。きっと沢山の料理を食べているのだろうと思ったのです。しかし魔王は、全て食べなくとも残りが家来の食事だとして、女の子へ無理に多く食べないように言いました。
女の子はなるほどそうかと頷いて、魔王に続きました。魔王はそれを煩わしそうに見下ろします。女の子は自分の部屋がどこにあるのかわからないのだと告げて、自分を連れて行ってくれるように魔王に頼みました。
魔王は唸りました。魔王は女の子が使っている部屋を知らなかったのです。声を張り上げて家来を呼びましたが、家来は全て兎狩りに出かけてしまい、答える者はおりません。魔王は仕方なく女の子から部屋の特徴を聞いて、道案内をすることにしました。
大きな魔王は大股でのしのしと歩きます。女の子はそれについて行くために小走りになりました。段々と息を荒げた女の子に、魔王は歩く速度を遅めました。しかしそれでも、女の子は早歩きで疲れが見えます。
魔王は家来がするように女の子を抱き上げました。女の子は魔王にお礼を言ってその大きな胸にしがみつきます。魔王はそんな女の子に首を傾げました。なぜお礼を言われるのだろうかと考えます。魔王は悪党でお礼を言われたことなどありません。しかしこの女の子は当たり前のようにお礼を言うのです。先程、料理を勧めたことも今こうして抱えているのも、怯えない女の子を相手に悪さをする意味がないからです。
そう、魔王は悪党です。悪者です。恐れ、怯える者を捕らえてさらに悪さを働き、人々が恐怖に呑み込まれて初めてその命を潰すのです。だからこそ、怖がらせようとしている相手にお礼を言われることが、魔王には理解できなかったのです。
考えても考えても答えが出ず、女の子を閉じ込めている部屋にたどり着きました。魔王はいつの間にか眠ってしまった女の子を部屋に閉じ込めます。起こさないように藁の上に優しく置き、驚いて起きたりしないように静かに扉を閉めて鍵をかけました。ゆっくりと静かな足取りでその部屋の前を過ぎると、魔王の家来たちが騒がしく戻ってきました。
兎片手に騒ぐ家来たちに魔王はなにか、歯痒い想いをしましたが、とくに言うこともありません。家来の一人に兎を女の子の部屋に入れるように言って、残りの兎は夕飯に使うよう言いつけます。家来の一人は騒々しく靴音を鳴らせて走ったため、魔王は静かにするように怒鳴りつけました。その声は地響きのような唸りを上げて、お城の壁という壁を揺らし、たてかけられた絵画も装飾品も地面に落ちて割れてしまいました。
魔王の家来は恐れ戦いて、しかし静かな足取りでそれぞれの持ち場に帰りました。魔王はなぜ自分は怒鳴りつけたのだろうかと首を捻ります。今までそんなことを気にしたことなどなかったからです。
それは恐らく、自分の前ではあまり喋りもしない家来たちが、たかが兎を捉えただけで騒がしく振舞ったからだろうと考えて、納得して頷きました。
陽が沈む頃、魔王は再び女の子の部屋の前にやってきました。さすがにもう目を覚ましている頃合いだと、部屋の中に居る兎に怯えて逃げ惑う女の子の姿を思い浮べて口元を歪めます。しかし部屋の前に立つと笑い声が聞こえてくるのです。女の子のとても楽しそうな笑い声が。
魔王はどうしたことかと、恐怖の余りに気が狂ったのかと思いました。鍵をとり扉を開くと、中には白と灰色の斑毛を持つ兎を愛撫する女の子の姿がありました。魔王は驚き、それこそ女の子の恐怖する存在ではなかったのかと聞きます。
女の子は怖いからこそ、それを悟られないように笑って接しているのだと答えました。心の声すら聞こえる耳を持っていようと、優しく接する者に敵意を持つことはないはずだと女の子は言うのです。
魔王はそれを聞いて頷きました。それは上辺を取り繕っているだけで、心情は平静でないと考えたのです。ですが、こうも笑う女の子は怯えているようになど見えません。これでは悪さなどできるはずもない、魔王は兎を取り上げて、夕飯に付け足そうと考えました。
しかし女の子は慌ててそれを返すように言います。まだ恐れるその兎、慣れるまでは一緒にいたいと言うのです。魔王はそれでも怖がっているのならばと、女の子の言葉に従い兎を離してやりました。兎は跳ねながら女の子の下へ向かいます。
魔王はそれを見届けて部屋を出ました。朝にいた部屋に戻り、夕飯が並ぶのを待ちます。そして兎に慣れようとしているのならば、残りを夕飯ではなくまとめて部屋に放るべきだったかと思案しました。ですがそれも、また明日にでも行えば良いことです。それまでに女の子が兎に慣れるかどうかが心配でした。
頬杖をついていると、魔王の大きな耳に悲鳴が聞こえました。小さな小さな悲鳴です、甲高い、女の子の悲鳴です。ついに恐怖に負けたのかと魔王は笑って立ち上がりました。並び始めた夕飯には目も暮れず、大きな足音に地響きを合わせて女の子の部屋に向かいます。
女の子は泣いていました。開け放たれた部屋の中で、魔王の家来が笑っています。その足元には潰れた兎の姿がありました。血が溢れてその毛色は真っ赤に染まっています。
魔王は家来になにがあったのかと聞くと、家来は間違えて兎を踏み潰してしまったのだと答えます。暗がりのために見えなかったのだと。そして泣いている女の子を見て笑っていたのだと。
魔王は女の子に聞きました。どうして泣く必要があるのか、恐怖がなくなって笑うべきではないのかと。
女の子は答えました。慣れる前に兎が死んでしまったので、それが悔しく悲しいのだと。
指差して笑う家来を引き連れて、魔王は部屋から出ます。他の家来に掃除をさせるように命じて、魔王は兎を踏み潰した家来に罰を与えました。首を縄で縛りつけ、お城の外へ引きずり出し、正門の上にくくりつけます。
魔王は言いました。少ない機会を潰して笑うとはなにごとだ、これでまたあの女の子に悪さができなくなってしまったではないか、そう怒鳴りつけたのです。魔王の激しい怒りにお城は揺れ、家来の体も揺れます。魔王はなおもしばらく家来に怒鳴りつけていましたが、なにも答えない家来に呆れて果てて、許しを請うまではそのままだとお城へ帰って行きました。
魔王は最後に、人が来れば報せるように家来に命じました。家来は体を外へと向けて、ただただ風に吹かれて揺れました。
女の子はそんなことも知らずに泣き続けました。陽が落ちて、月がお城の上で輝くまで泣き続けました。その声が耳の良い魔王には煩わしくて堪りません。魔王は女の子の部屋へ乱暴に押し入りました。
夕食として置いたスープにも手をつけず、ただ啜り泣く女の子に魔王は気勢を殺がれたように立ち止まり、眉間にしわを寄せました。なにをそれほど泣くことがあるのかと女の子に聞きます。
魔王を見上げて女の子は思いました。女の子は兎を守りたかったのです。初めて自分よりも弱いと思える存在に会いました、初めて自分よりも下だと思える存在に会いました、それが潰れた兎だったのです。
守りたいと思えたものは、すぐに女の子よりも大きく、強い存在に消されてしまったのです。守ろうとしたのに、結局なにもできなかった自分が悔しかったのです。
けれどそんなことは魔王に言えません。自分が嘘をついていたことが知れたら怒るだろうと思ったのです。
やはり女の子は嘘をつきました。潰れたままの兎のために、悔しさが薄れずに泣いているのだと。魔王は床にへばりついた兎を見下ろします。確かにこれがあっては忘れることもままならないでしょう、未だ片付けぬ家来に業を煮やし、自分で片付けてしまいました。
嘘は、女の子にとって身を守るための盾でした。それに気づかない魔王は女の子に、もう泣かないように優しく言い聞かせます。女の子は黙って頷きました。
魔王が部屋から出て行った後、女の子は藁の中に潜り込みました。今にも悔しさと悲しさが込み上げて泣き叫びそうになります。しかし、女の子は魔王に何度も嘘をつきました。魔王はその嘘を真だと信じて行動してくれました。
女の子はこれ以上、嘘をつくのは止めようと思いました。後から後から罪悪感が女の子の心を痛めるのです。お腹の奥から不快な気分にさせてくれます。だからこそ、女の子は魔王の言いつけを守ろうと思いました。今度は自分が魔王のためを想う番だと考えたのです。
両の目から涙を流しても、女の子は声ひとつ漏らすことなく静かに眠りにつきました。
それから月は巡ります。太陽も何度もお城の上で輝きました。女の子は嘘をつくことなく、また魔王も手を出すようなことはせず、ただ朝食、昼食のときにだけ顔を合わせる日々が続きました。魔王の家来たちは時折、山の麓の村や町へ赴いては悪さをしましたが、帰ってくるたびに、こちらを見下ろし朽ちた体を揺らして大声をあげる仲間に溜息をつきました。
そんなある日のこと、朝食の際に女の子は小さく震えていました。魔王はそれに目敏く気づき、なにがあったのかと言葉を投げます。女の子は小さく白い息を出しながら寒いのだと答えました。
その言葉に思わず笑いました。魔王は寒さも暑さも感じませんから、女の子が寒いと震える姿が愉快で堪らなかったのです。恐怖に怯える姿の代わりと眺めていると、女の子は魔王に近づいてその大きな膝の上に跨りました。そのまま厚い胸板に体を沈めます。
魔王が眉を潜めると、やはり暖かいと女の子は頬を擦り付けます。血も涙もない魔王は、冷たいと言われたことはあるけれど、自分が暖かいと言われたのは初めてでした。対処に困っている内に、魔王の家来が食卓の間に転がり込んできます。
家来は言いました、寒さに寝床から抜け出せず、暖炉を暖めるのを遅れてしまったと。魔王はこちらにうずくまる女の子を見下ろしました。か細く震える体を抱き上げて、女の子の部屋へ連れて行きます。黙って家来はそれに従いました。
魔王は女の子を部屋に閉じ込めた後、家来の首を掴んでお城の外に引きずり出しました。たかが一家来が、主を放って惰眠を貪るとはなにごとか。魔王は怒りに任せて家来を地面に叩きつけました。
白い石畳に赤を散らした家来に、以前に見た兎を重ねて魔王は首を振りました。僅かに震えるだけになった家来を引きずり、以前の家来と同様に首に縄を括りつけて正門に吊り上げました。
魔王は言います。その姿形から体臭から、同じ仲間に何度も声をあげるなと命じました。このお城に住まう者、それ以外の者に鳴くよう命じました。
その日は、家来たちが魔王に仕えることとなった、彼らにとって記念すべき日でした。祝福を嫌う魔王に秘密ながら、主を敬い、祝福する特別な日でした。朝早くから寝床を抜け出し、準備するように町から得た食材をお城に持って帰った家来たちは驚きました。夜が白むまで料理に勤しんでいた仲間が正門に吊るされていたのです。頭の中身を滴らせ、冷え切った土に赤黒い染みを広げます。
どうしてこんなことになるのかと、家来たちは考えました。ただ好きなように生きて、魔王に仕え、魔王のために、そして自分たちのために家来たちは動きました。魔王に恐怖で仕えていようと、それでも魔王こそが彼らの主だったのです。
食物庫に食材を押し込み、誰もいない広間に家来たちは集まりました。誰もなにも喋りません。しかしいつまでも沈黙が続くはずがなく、やがてぽつりと家来は言いました。女の子のせいだと。あの子供がこのお城に来てから、魔王はおかしくなってしまったのだと言いました。
それからは家来たちの女の子に対する扱いが粗雑なものに変わっていきました。それだけではありません、毎晩部屋に置くスープの注がれた皿には暖炉の灰や虫を入れたり、寝ている女の子の部屋の前でわざとらしく大きな音をたてたりしました。
しかし女の子は意に介しませんでした。陽が昇れば笑顔で挨拶をし、夕食の皿が届けば笑顔でお礼を言います。どれだけ粗雑に扱っても、どれだけ乱暴に扱っても。それはそのはずで、女の子は村にいたときからこのような意地悪には慣れていました。スープの上に浮いた虫はすくい上げて外に出し、灰が残っても気にせず飲み干します。部屋の外でどれだけ騒がしくされても、外で寝たときほどに騒がしくは感じられなかったのです。
家来たちは毎日、笑顔を浮かべる女の子に腹を立てました。その笑顔に自分たちが馬鹿にされていると思い始めたのです。
その鬱憤を晴らすように家来たちが村で悪さをしていると、その村の呪術師がこれをあげるから、村を助けるように祈り出ました。呪術師が差し出したのは小瓶で、中には白い液体が入っています。こんなものでと家来たちは笑いましたが、呪術師は言いました。それは強い毒で、おそらくは魔王すらも殺せるはずだと。
家来たちは顔を見合わせました。この年老いた呪術師は家来たちが魔王を慕っていないと勘違いしているようでした。家来たちは呪術師を取り押さえて無理に口を開かせ、そこに白い液体を垂らしました。たちまちに呪術師は震え、真っ黒な塊を吐き出して死んでしまいました。家来たちはこの毒の強さに驚き、そして喜びました。これを女の子に与えようと思いついたのです。
村から離れ、意気揚々とお城に引き返した家来たちは、正門に括られた仲間を見上げます。仇は討つとばかりに小瓶を掲げ、すぐに調理を始めました。魔王のための料理と、女の子への料理を分けてよそい、白い液体を垂らします。女の子の部屋に持って行こうと振り返った家来、その目の前に魔王が立っていました。
魔王は家来たちの変化に気づいていました。そして鼻の良い魔王は、その小瓶から漂う匂いに家来たちがなにをしようとしたのか気づいたのです。
驚いて腰を抜かした家来の首を掴んで、魔王はお城の外へ引きずり出しました。恐れさせることもできず、怯えさせることもできないままに殺そうとするとはなにごとだ、そう言って魔王は怒りました。怒り狂いました。泣いて命乞いをする家来を素手で真っ二つに引き裂いて、四肢をもぎ取りばらばらにして半分を家畜の餌に混ぜ、残りの半分をお城の外に撒きました。
それでも魔王の怒りは収まりません。お城の中を踏み荒らし、逃げ惑う家来たちを掴んでは引き裂いていきます。床と言わず壁と言わず窓と言わず、真っ白だったお城は真っ赤に染まりました。
いよいよ残り一人というところで、家来は女の子の部屋に逃げ込みました。恐怖に駆られ、怯え、震える家来に女の子は驚きました。家来は今までの非を詫びて、許しを請いました。女の子は今まで謝ったことはあっても謝られたことはありませんでした。訳がわからぬままに震える家来がかわいそうに思えて許しを与えます。
すると遠くから、魔王の歩く足音が聞こえました。お城を揺らし、怒りのままに声を上げています。悲鳴を漏らす家来に、女の子は縄を手渡しました。女の子が一生懸命に藁から編んだ縄です。逃げるのに役立つだろうと渡したそれを受け取って、家来は女の子に泣いてお礼を言いました。
それから家来は女の子の部屋から抜け出しました。扉を開けたまま抜け出しました。臭いを頼りに家来を追い、扉の開いた女の子の部屋を見つけました。魔王は部屋を覗いて女の子に問います。ここに家来が来ただろうと。
女の子は口を閉じます。迷いました、家来のためを想うなら、ここは嘘をつくべきでしょう。けれども女の子は魔王に、もう嘘はつかないと誓ったのです。心の中、自分一人だけの誓いでも、女の子はそれを破る気にはなれませんでした。
なぜ口を閉ざすのかと、黙り込んだ女の子に聞きました。女の子は迷った挙句、家来は確かにここに来たけれど、もうとっくに逃げ出したと伝えました。魔王は勢いよく扉を閉めてその後を追いましたが、すでに家来はお城の外へ抜け出していました。
魔王は思いました、それを追いかけている場合ではないと。逃げ出したと言ってもたかが一人です。そしてこのお城にいるのは、もう魔王と女の子しかいないのですから。魔王は家来の代わりも務めなければならなくなったのでした。