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緋と金と灰  作者: 綾里悠
<緋の章>
83/175

虹の下で #4


「あなた、そういう事なら、どうしてもっと早く私に話してくれないのよ?」

「いくらお前でも、言える訳がないだろう。キース様は俺の主君だぞ。妻であっても、仕える主人の秘密を話す訳にはいかない。」

「……フン。……」


 テレザはパシッとテーブルの天板を手で叩いて、そっぽを向いてみせたが……

 内心はそこまでデルクを怒っていなかった。

 むしろ、デルクの立場からすればもっともな返答であり、彼のキースへの忠誠心に感心していた。

 普段は女好きで軽薄な所も感じられるデルクだが、仕事に関しては非常に真剣に取り組んでおり、今回の口の固さもそれ故だった。

 デルクのこういう所を、テレザは好ましくも頼もしくも思っていた。



 これまでデルクからは、キースはイヴァンの事を気に掛けていると聞かされていただけだった。


 きっかけは、イヴァンが誤ってキースを矢で射ってしまった事だった。

 射ると言っても脛を軽くかすった程度で大事はなかったが、念のためにその日は山を降りるのを断念し、イヴァンの小屋に一泊する事となり、デルクだけ里に降りてきて、事情をキースの屋敷の者に伝えた。

 翌日の早朝、デルクがイヴァンの小屋にキースを迎えに行くと、キースは元気な様子で山を降りてきて屋敷に帰っていった。

 が、更にその翌日の午後に、キースは、今度は手土産のカゴを提げてやって来た。

「昨晩はすっかり世話になってしまったからな。礼をしたいんだ。」

 そんなキースの言葉をテレザをはじめ誰も疑わなかったし、キースも本当にそのつもりだったのだろう。


 ところが、その次の日も、そのまた次の日も、キースは午後になると手土産を持ってやって来て、デルクと共に森に入っていき、二、三時間程で戻ってきては別荘に帰っていった。

 さすがに、テレザが気になってデルクに尋ねると……

「キース様はイヴァンと気が合うらしい。」

 と、そっけなく返された。

 それを聞いてテレザは、イヴァンの小屋に一泊した折に話をして意気投合したのだろうかと考えていた。

 また、イヴァンは戦乱の続くフメル平原からの難民であるので、ガーライル領主として近隣諸国の動向を気にしているキースはフメル平原での話を聞いたり、また、命からがら戦災から逃れてきた彼を案じているのかと想像していた。


(……でも、本当は、イヴァンではなくて、妹のアンナがお目当てだったなんて……なんだか、ショックだわ。……)


 テレザは、下衆の勘ぐりだとは思いながらも、キースとアンナの仲に想いを馳せずにはいられなかった。


(……一体いつ、キース様はアンナの事を気に入られたのかしら? キース様とアンナは、今どういった関係なの? まあ、二人ともいい大人なのだし、キース様がアンナを側室にとお考えだという話なのだから、つまり、そいういう事よね。……)


 テレザは、キースが怪我を負ってイヴァンの小屋に泊まった夜に、おそらくアンナと何かあったのだろうと考えた。

 それから毎日アンナに会いに行き、デルクとイヴァンが気を使って小屋から離れている間に、二人きりで甘い時間を過ごしていたのだろうと想像した。

 テレザの考えは、至極まっとうな予想ではあった。


(……何よ、若くて美人だからって、キース様を色仕掛けで落としたって事? キース様もキース様だわ。あんな小娘の誘惑にまんまと引っかかるてしまわれるだなんて。……)


 テレザはカリッと日々の里の仕事や家事で痛みがちな親指の爪を噛んだ。

 歳をとったとは言え、テレザにとって、今もキースは初恋の人であり、雲の上の憧れの人物だった。

 そんなテレザの中の高潔で美しいキースの偶像が汚されたようで内心不快だったが、ただの使用人の妻でしかないテレザには、キースに不満を訴える権利はない。

 まして、キースは政略結婚した妻を精一杯大事にしてきたものの、結局子宝には恵まれず、夫婦仲も冷めきっている様子だった。

 この状況で、他の女に惹かれたとしても、誰も彼を非難する者は居ない事だろう。

 むしろ、キースの立場なら、今までもその気になればいくらでもいい女を見繕えた筈なのに、全く女遊びの噂を聞かなかったのが不思議なくらいだった。


「ま、まあ、突然の事で、俺も最初は驚いたさ。でも、良く考えてみれば、あのキース様に娶りたいと思えるような女が見つかったってのは、いい話だろう? このまま一生、あのきつい性格の奥方と添い遂げるのかと、不安に思っていたからなぁ。キース様には、今までの分も幸せになってほしいものだよ。」

「それはそうだけれど……それにしたって、キース様ならもっといいお相手が居たんじゃないのかしら? 何も、素性も知れない難民の娘だなんて。」

「確かにアンナは身分の低い貧しい身の上だが、大事なのはキース様のお気持ちだろう? キース様が気に入られたのなら、それが一番だ。それに、キース様は人を見る目がおありだからな。うんうん。アンナは、とてもいい娘だと俺も思うぜ。美人なだけじゃなく、気立てがいい。良く気がきくし、いつもニコニコ笑顔でいるのもいいな。女は愛嬌って言うものな。キース様のお仕事は、いろいろ神経を擦り減らすような場面も多い事だろう。そんな時に、アンナのような美人で優しくて朗らかな娘がそばに居れば、だいぶお心が安らぐんじゃないか? そういうのは、きっと、キース様にとっては大切な事なんだろうぜ。」

「ふうん、そう。」


 テレザはデルクの「アンナは美人なだけではなく気立ても良い」と言う言葉を、軽く聞き流した。

 いくら正妻と長く不仲が続いているとは言え、あのキースがよろめいたのだから、アンナが相当な美人であるのは間違いないのだろう。

 しかし、女好きのデルクがアンナを擁護するような事を言った所で、まるで信頼出来なかった。


(……フン! 若くて綺麗な子が相手だと、すぐこれね。こういうバカな所は昔からちっとも変わってないんだから。……)


 お約束のように若い女に鼻の下を伸ばす夫の前で、苦虫を噛み潰すような表情を隠しもせず、テレザはやや冷めだしたお茶を啜った。

 元から塩を入れた茶ではあったが、いつもより塩味がきつく感じられた。



 が、ふと、テレザはある事を思い出して、少し顔を明るくした。


「そうだわ、今回クルル様が慌てて宴を開く事をお決めになったのは、キース様とアンナの事をお知りになったからなのよね?」

「ああ、キース様の話では、どうもそういう事らしいな。相変わらずの地獄耳だよなぁ。昔から、クルル様は、どういう訳か、いろんな噂話にお詳しいんだよなぁ。それにしても、昨日こっちに来られたばかりで、明日にはもうパーティーを開こうだなんて、行動力が凄いと言うか、やっぱり『お転婆姫』のあだ名はだてじゃないな。お子様も生まれてすっかり貴族の御婦人らしくなられたと思っていたが、根っこの所は何も変わらないらしい。三つ子の魂百までもってヤツだなぁ。」

「じゃあ、じゃあ、クルル様は、ご自分のお誕生日パーティーにかこつけてアンナを呼び出されて、キース様から遠ざけようというお考えなのね? そうよね? きっとそうだわ! だって、クルル様は、昔からお兄様のキース様の事が大好きでいらっしゃったもの! そんな大事なお兄様に、変な虫がついたら大変だわ。すぐに追い払おうとなさる筈よ。」

「変な虫って……テレザ、お前、あまりアンナの事を悪く言うなよ。あの娘はキース様が気に入っておられる娘だぞ。今はまだ、俺達の部下の妹に過ぎないが、いざキース様がアンナを側室として迎えるという事になったら、身分はアンナの方がずっと上になるんだからな。……えーと、確か、平民が貴族に嫁ぐ時には、形だけどこかの貴族の養子になるって話だったかな?」

「側室だなんて、まだ決まった話じゃないでしょう? クルル様が大反対なさったら、きっとキース様も目を覚まされるわよ! キース様は、歳の離れた妹君のクルル様の事を、昔からとても可愛がっていらっしゃったんですもの!」

「……」


 デルクは何か言いかけたが、珍しく渋い顔で口をつぐむと、代わりにマグカップを手に取ってお茶を喉に流し込んでいた。


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