夏の市 #9
「この市は、月に一度、皆が楽しみにしているものだ。そこに刃物を持って現れ、人々に恐怖と混乱を与えるような事はするべきではない。常識的に、また、道義的に考えれば分かる事だ。」
「更に、テレザに執着してつけ回しているようだが、それも彼女を怯えさせている。嫌がる女性にしつこく迫り、思い通りにならなければ罵詈雑言を浴びせるなどという下卑た行為は、決してしてはならない。」
キースは、震えるテレザを背中にかばいながら、真っ直ぐに男を見据え、堂々とした態度で説いた。
しかし、こんな状況下でも、キースの中には、テレザだけでなく自分の領民である男をも思いやる気持ちがあるらしい事が、その言葉の端々に感じられた。
「今すぐに、その手にした物をしまって、この場から立ち去ってほしい。これ以上この場に居る人々を困らせないと言うのなら、僕も今回の事は不問に処すつもりだ。」
「しかし、もし、忠告に反して、人々やテレザに危害を加える態度を見せるなら、僕はあなたを放っておく訳にはいかない。あなたを捕らえて、この町の警備兵に引き渡す事になるだろう。」
「だが、そういう結末を、僕は望んでいない。どうか、僕の言葉を聞き入れて、大人しくどこかへ去ってほしい。そして、もう二度と、テレザに不用意に近づいて彼女を怖がらせるような事はしないでくれ。」
テレザや周りの観衆が息を飲んで見守る中、キースは、警戒態勢を取りながらも、終始落ち着いた態度で男に語りかけていた。
しかし、男の方は、対照的に、興奮した様子が全く収まっていなかった。
宿屋の食堂で明るく対応してくれたテレザに一方的に思いを募らせたという状況から察するに、元々は自分から女性に話し掛ける事もためらうような小心な性格なのだろう。
また、所々生地が擦り切れ破れている薄汚れたその服装から見て、不自由な貧しい生活を送っており、キースのような裕福な人間に八つ当たりに似た不満を抱いている様子でもあった。
そんな、普段は多くの人間に注目される事もないような人間が、安酒の酔いに任せて、いくら鞘をつけたままとはいえボロボロのナイフを手に飛び出してきたしまった事も、男を精神的に追い詰めていたようだ。
男は、落ち着きなくブンブンと手にした鞘のついたナイフを振り回し、ハアハアと息を荒げ、目をギラつかせていた。
「う、ううう、うるさいっ! ションベン臭い小僧に、俺の何が分かる! 綺麗事ばっかりぬかしやがって!……俺を捕まえて警備兵に突き出すだぁ? お前が、この俺をか?……ハハッ! ハハハハッ! やれるもんなら、やってみろっ!」
「俺はなぁ! お前みたいな、なんの苦労もなく生きてきた金持ちが、世の中で一番嫌いなんだよ! 貧しい境遇に生まれた人間の辛さも惨めさも何も知らねぇくせに、偉そうに説教するんじゃねぇよ、ガキが!」
「女の前だからって、いきがってんじゃねぇぞ! そのお綺麗な顔がみっともなくグチャグチャになるまで泣きべそかかせてやるぜ!」
唾を飛ばしながら真っ赤な顔でそう吠えて、ついに男がナイフを抜き、鞘を投げ捨てたの見て……
キースは、酷く悲しげな残念そうな表情を浮かべ、深いため息をついていた。
□
男の手にしたナイフは、刃渡り15cm程のものだった。
木で出来た鞘からしてボロボロであったが、手入れの行き届いていない刃がくすみ、一部欠けているのが見て取れる。
一般的に、庶民が家で野菜を切ったり、小枝を払ったりするのに使う類の、武器というより生活用具としての刃物だった。
もちろん、誰でも金物屋や鍛冶屋に行けば簡単に手に入れる事が出来る代物である。
しかし、そんな見慣れた切れ味の悪そうな刃物であろうとも、血走った目をギラつかせた男がむやみやたらと振り回しているのを見て、恐怖を感じない者は居ない。
途端に、その場は混乱した老若男女の悲鳴で溢れかえった。
ほんのついさっきまで、吟遊詩人の美声にうっとりと耳を傾けていたのが嘘のような、騒然とした修羅場と化していた。
遠巻きに取り巻いて様子をうかがっていた人々は、声を上げながら我先にと逃げ出し、つまずき転んだ者を助ける精神的余裕もなかった。
「みなさん、落ち着いて! 周りの人を押してはダメだ! 子供や老人を優先して、安全な所までさがって下さい!」
混乱の騒音の中に、キースの威風堂々たる声が響き渡り、そのせいで、やや冷静さを取り戻した者も見かけられた。
「テレザ、君も、僕のそばに居ては危ない! そこのテーブルの陰に隠れていてくれ!」
「キ、キース様! で、でも!」
「大丈夫、僕の事は心配要らないよ。頭を低くして、ジッとしているんだ。」
「は、はい!」
キースは、観衆に避難の指示を出すと共に、自分の背中に庇っていたテレザも、後方のテーブルの向こうへと逃した。
もう、この時のテレザは、今まで体験した事のなかった恐怖で動揺し、まともに頭が働いていない状態であったが……
キースの言葉には反射的に従って、言われた通り走ってテーブルの向こうに行くと、うずくまった。
「……抜いてしまったか。抜かなければ、見逃すつもりでいたが、刃を構えたとなれば放ってはおけない。」
テレザをはじめ、周りの者達が安全な距離に離れるまで、声を出して誘導しながらも、ジッと男を見据えたまま一瞬たりとも目を離す事のなかったキースだったが……
避難が完了したのを見て取ると、腰に履いていた剣の柄に手を掛けた。
「人に刃を向けた者が、人から刃を向けられるのは、自明の理。」
「その覚悟もなくナイフを抜いたのだとしても、事実は変わらない。お前を人民を害する脅威と見なし、即刻取り押さえる!」
そう言い放つと、キースは、スラリと剣を鞘から抜き払った。
そして、そのまま男に向かって真っ直ぐに構えた。
□
(……え? ええ?……キ、キース様、戦うおつもりなの?……)
屋外の木陰に置かれたテーブルの陰にうずくまりながらも、心配でそっと様子をうかがっていたテレザは、刃物を振り回す男に対してキースが交戦の態度を示した事に驚いていた。
確かに、キースはいつも腰に一振りの剣を身につけていた。
一般市民を装った質素な服に見合うよう町の警備兵などが持っているごくありふれた形状のものだったが。
しかし、今までキースがその剣を抜き払っている所を、テレザは一度も見た事がなかった。
食堂に来る客の中でも、たまに、新品の得物を仲間達に自慢している者を見かけた。
仲間達も代わる代わる覗き込んで、あれこれ賛美や批評をして盛り上がっているのを見るに、男性というものは、出来のいいナイフや剣といった武器を手にすると、血が騒いで興奮する所があるようだとテレザは推察していた。
良い武器を持っていると、自身が強くなったような気分になるのかもしれない。
故に、周りに自慢して回りたくなるのだろうと。
テレザは初めてキースに会った時、彼が腰に一振りの剣を提げている事に気づき……
おそらく、そういった、武器を身につけて自分を強く見せたい、あるいは、自分は強いと感じたい、という動機からだろうと勝手に思っていた。
しかし、キースは、一度も自分が剣を身につけている事について、デルクやテレザに語る事はなかった。
剣を腰から外したり鞘から抜いたりして人に見せ自慢するような行動も、全く取らなかった。
そんなキースと接する内に、テレザはいつしか、キースが剣を身につけているのをごく普通に感じるようになってしまった。
ただの服装の一部であり、キースはそういうスタイルを好んでいるのだとばかり思っていた。
それが、敵対した者を攻撃する、または、自分の身を守るための「武器」であるという認識が完全に抜け落ちていた。
そんなキースが、ナイフを手にした男を鋭い眼差しで睨みつけながら、腰から抜き払った剣を構える姿を目の当たりにして……
テレザは、不安と恐怖で、胸の中を真っ黒に塗りぶされたような心持ちになっていた。
このガーライル領を治める貴族の家柄という高貴な身分であり、輝くような美少年でもあるキースが……
むさくるしい町の警備兵が担っている荒事の真似事をしようとした所で、上手くいく筈がない、とテレザは思った。
(……キ、キース様!……)
テレザは、震える指を組み合わせ、必死に彼の無事を祈らずにはいられなかった。




