思いがけない招待 #7
「アンナ!」
イヴァンは反射的に崩れ落ちかけたアンナの体を抱きとめていた。
「大丈夫か?」
「……へ、平気よ。ごめんなさい、ちょっとつまづいたみたいで。」
アンナは、イヴァンに縋りつく格好でなんとか態勢を保ち、イヴァンは彼女が体を立て直すまでしっかりと支えていた。
最初は慌てていたアンナも、一呼吸二呼吸する内に少しずつ落ち着きを取り戻し、未だイヴァンの腕と胸に手を添えながらも、ゆっくりと顔を上げる。
間近に、正面に、自分を心配そうに見つめているイヴァンの顔があった。
簡単な手入れで済むようにと無造作に短く切った灰色の髪。
わざと伸ばした左前髪の奥で刀傷が斜めに皮膚を横断している。
そして、その中央に、静謐な雰囲気をたたえる黒曜石のごとき形の良い目が収まっていた。
鼻筋が通って彫りの深い面立ちは、良く見れば繊細で端正な造作だった。
暗灰色の眉が、いつもどこか困ったような表情で僅かにひそめられている。
眉間にシワを寄せている事も多いものの、特に機嫌が悪いという訳ではなく、それが彼の癖なのだとアンナは良く知っていた。
すぐそばに居ながら、どこか遠い場所を、まるで彼岸でも見つめているかのような厭世的な眼差しも……
彼の姿を取り巻く、薄幸でもの侘しい気配も……
昔から何一つ変わっていなかった。
「……お兄、さん!……」
アンナの、光の祝福と生命の息吹を感じさせる春先の芽吹きの色をした大きな瞳が、グラリと揺れ動いた。
込み上げてくる感情をこらえる事が出来ずに、アンナは、ボロボロと大粒の涙を落としていた。
波立ち揺れ動くアンナの瞳に、困惑した表情のイヴァンの姿が映し出されていた。
「……お兄さん! お兄さん!……」
アンナは思わず目の前のイヴァンの体に抱きついて、頼りない小さな子供のように泣きじゃくっていた。
腕の中に夢中で掻き抱いたアンナよりもひと回り以上背の高いイヴァンの体は、やせ細って骨がゴツゴツと浮き出て感じられる。
アンナは、イヴァンの胸に顔を埋め、ひたすら涙を零した。
アンナの華奢な手が、細い指が、自分の背を必死に掴もうとしているのをイヴァンは感じていた。
日頃は、どんなに辛い時も、彼の前では笑顔を絶やすまいと気丈に振る舞っているアンナが、堰を切ったように泣いていた。
不安と悲しみで押し潰されそうな悲壮な表情で嗚咽を繰り返す返すアンナを前に……
イヴァンは、つい、彼女の震える背を抱き返そうとしたが……
「……イヴァン!……」
アンナが切なげに自分の名前を呼ぶのを聞いて、ピクリと、イヴァンの骨の目立つ痩せた指は宙で止まった。
□
イヴァンの手がゆっくりとアンナの細い両肩を掴んだ。
アンナは、ハッとなって涙に濡れた顔を上げるが……
そこにあったのは、氷のように冷ややかな表情を浮かべたイヴァンの姿だった。
イヴァンは、両手に捉えたアンナの肩を、まるで拒絶するようにグッと自分から遠ざけ、体を離す。
「もう、ダンスの練習は充分だろう。俺はそろそろ見回りに行ってくる。」
「……イ、イヴァン……」
「俺の事は、名前では呼ぶなと言った筈だ。」
「……ご、ごめんなさい!……」
「もう二度と呼ぶな。」
「……はい、お兄さん。……」
アンナは悲しげな顔でうつむいて、イヴァンに伸ばしていた自分の手を慌てて胸に引き寄せ、ギュッと握りしめていた。
そんなアンナに構わず、イヴァンはさっさと彼女のそばを離れ、壁際に置いていた弓矢をはじめとする狩の道具を手に取り手際良く身につけていく。
イヴァンは、部屋の中央でこうべを垂れたままポツンと立ち尽くしているアンナの脇を通り抜けて小屋のドアに向かったが……
そこで一旦立ち止まり、振り返っては、彼女を見つめた。
イヴァンは、不機嫌そうに眉をしかめ、眉間にシワを寄せて問うた。
「そう言えば、アンナ。ご領主様にパーティーに誘われた時、どうして、俺が行かなければ自分も行かないなどと言ったんだ?」
「……そ、それは!……お兄さんと、一緒に行きたかった、から。……そ、それに、一人では心細くて。……」
「……」
イヴァンとしても、パーティーそのものに興味はなかったが、多くの人間が集まる会場でアンナを一人きりにするのは不安があった。
招待したキースが、アンナの事を責任を持って見ていてくれるだろうとは思っていたが、彼はこの地の領主だ。
キースの元には挨拶や会話に来る客も多く、アンナから注意が外れる事もあるに違いない。
もし、妙な男に声を掛けられたらと内心心配してはいた。
そこに、キースから、「君も是非参加してほしい」と声を掛けられたのは、イヴァンにとっても願ったり叶ったりの状況だったのだが……
アンナの前では、イヴァンは決して厳しい態度を崩さなかった。
「あまり勝手な事を言うな。ご領主様に我儘な女だと思われたらどうする。」
「……ご、ごめんなさい、お兄さん。もう、あんな事は言わないわ。……」
「ご領主様の機嫌を損ねぬよう、くれぐれも気をつけろ。」
「……はい。……」
アンナが、まだ涙が残っている目元を荒れた指先で盛んにぬぐいながらもコクリと頷いたのを確認すると、イヴァンはクルリと踵を返したが、その瞬間……
「……ゴホッ!……」
突然、胸の奥から突き上げるように込み上げてきた咳をこらえきれず、痩せた体を揺らして息を吐いていた。
ひとたび、喉を震わせて咳を吐き出すと、その刺激が呼び水となって、次から次へと咳の衝動が湧いてくる。
イヴァンは、骨の目立つ枯れ木のような体を、小屋の入り口の板戸についた腕で必死に支えながら、しばらくゲホゴホと激しく咳き込んでいた。
「お、お兄さん! お兄さん、大丈夫!?」
「……あ、あっちに行っていろ!」
アンナが、そんな彼の様子を心配して慌てて駆けつけてきたが、、イヴァンは腕を振り回して彼女を自分から遠ざけた。
そして、なんとか一旦咳が収まると、ふらつきつつも慌ただしくドアを開けて小屋の外に踏み出した。
「……出掛けてくる。」
「か、体の具合が悪いなら、休んでいた方が……」
「平気だ。少しむせただけだ。」
「で、でも!」
「お前は、ちゃんとスカーフで顔を隠しておけよ、アンナ。」
イヴァンは短く言い置くと、不安げにジッとこちらを見つめるアンナの視線を振り切るように、足早に小屋を後にした。
振り向く事なく真っ直ぐに小道を進み、やがて木々と山の斜面に背後の小屋が隠れて見えなくなるまで足を止めなかった。
充分に遠ざかってから、道を外れて森の茂みの中に入り、姿を隠した状態で、そっと小屋の方向へと戻った。
アンナは、しばらく戸口に立ってイヴァンの歩き去った道の方を見つめていたが、やがてドアを閉めて中に入ると、次に出てきた時には、彼に言われた通り、スカーフをしっかりと顔に巻きつけた姿に変わっていた。
イヴァンは、アンナが洗い物に次いで洗濯を始めたのを確認すると、森の木々や茂みに隠れつつ、足音を立てずにその場を去った。
□
「……ハ、ハア、ハア……ゲホッ! ゲホゲホッ!……」
イヴァンは、人気のない森の奥の小さな沢のほとりでしゃがみこんでいた。
アンナの前ではなんとかこらえたものの、一人になってしばらくすると、また咳がぶり返してきていた。
咳のし過ぎで、喉はとうにヤスリを掛けたように荒れていたが……
それよりももっと深刻な刺すような痛みが、自分の胸の奥底に、もうずいぶん前から居座っているのを、イヴァンは良く知っていた。
決して取れる事もなくなる事もない黒い災いの塊のようなそれは、日増しに大きくなり、それと共に、イヴァンを時折襲う発作のような激しい咳と、肺に感じる痛みも酷くなっていっていた。
(……時間が、ない。……早く、計画を進めなければ。……)
ようやく収まってきた咳と胸の痛みに、未だゼイゼイと息を切らしながらも、イヴァンは顔を上げた。
それまで口元を押さえていた自分の手の平に視線を動かし、思わず目をしかめる。
(……アンナをご領主様に託したら、俺はこの地を離れる。……)
(……そして、フメル平原に戻って……)
(……あの男を、殺す。……)
イヴァンは、手の平の真ん中にこびりつている、自分が先程咳と共に吐き出した鮮血を、目の前の清流に浸して丹念に洗い落とした。
(……あの男だけは、絶対に、殺しておかなければならない。……)
(……私の、この命が尽きる、その前に。……)
激しく咳き込んだ直後で血の気が失せ、死人のように蒼白な顔をしているイヴァンとは対照的に、シュメルダの夏の森は、どこまでもまばゆく、濃い緑色に活き活きと輝いていた。




