手紙と虫 #6
その日はとても良く晴れていた。
シュメルダ地方は、四方を万年雪を戴く山々に囲まれた高地にある平原であり、王都に比べると真夏でも驚く程涼しかったが、さすがに日差しは強かった。
カルラが砂利の敷かれた庭の小道を慣れない足取りで歩いているのを見て、キースが手を差し伸べてきた。
「カルラさん、どうぞ、僕の手につかまって下さい。」
しかしカルラは、差し出されたキースの手を前にして、固まってしまった。
まるで彼の手を取りたくないと言わんばかりに、自分の手を胸の前でギュッと握りしめ顔をしかめているカルラを見て、キースは当惑した様子だった。
カルラは、彼に自分の思う所を伝えようと、恐る恐る言葉を発した。
「……あ、あなたの手は、汚れているわ。」
「僕の手が? 良く洗ったつもりだったんですけれど。」
キースは、ジッと自分の両手を見つめてみたり、裏返してみたりして確認していたが、やはり汚れは見つからなかった。
「……だ、だって、あなたの手は白くないもの。……顔も、汚れているわ。もっとちゃんと洗った方がいいわ。」
「白く?……ああ、この肌の色の事ですか。これは、日に焼けたんですよ。」
「日に焼ける?」
「はい。ここの所、毎日のように父に山や川に連れていってもらっていましたから。」
キースの話によると、ガーライル家は毎年この別荘で夏の季節を過ごす習慣があり、今は亡くなってしまったが、キースの祖父が生きていた時には、祖父も良く彼を遊びに連れていってくれたそうだ。
シュメルダ地方にある別荘だからこそ、こうして豊かな自然に触れる貴重な体験が出来るのだと祖父や父はキースに語り、キースもその通りだと思っていると言った。
「それに、僕はここ最近、剣の訓練を始めたんです。屋敷の警備をしている兵士の長に、毎日稽古をつけてもらっています。」
「ええ? 貴族の人間が、自分で剣を持つの? そ、そんな……そういう野蛮な事は、貴族の人間はしてはいけないとお母様から聞いたわ。危険な事は、庶民に任せておけば良いって。」
キースは、そんなカルラの言葉を聞いて、しばらく真剣な顔つきで考え込んでいた。
しかし、やがて、真っ直ぐに顔を上げ、曇りのない純粋な瞳でハキハキと答えた。
「確かに、そう考える人は多いでしょう。自ら剣を持って戦う事は、貴族の役割ではないと言う人も居ます。」
「でも、僕は、将来父の後を継いでこのガーライル領の領主となる人間として、人々に守られているだけではいけないと思っているんです。僕自身も強くなって、人々を守れるようになりたいんです。」
カルラは、キースの主張する考えが全く理解出来ず、呆然と彼を見つめていた。
実際、カルラのような思考がハンズリーク王国の貴族達の間では主流であった。
家督を継げず、かつ生家の財力だけでは裕福な生活が営みめない貴族の次男以下は、王国騎士団に入るなどして身を立てる事もあったが、そういった武芸に関わる者は社交界では下に見られている現状だった。
そのため、貴族の令嬢達は、家督を継ぐ長男に嫁ぎたがり、騎士の次男の正妻になるよりも長男の側室になる方がいいとさえ言われていた。
もっとも、騎士団に入ると入っても、将来的に隊長職などに就く事が多く、ほとんど本人の武術の腕は要求されなかったが。
実質、どの軍隊においても鍛錬を重ねた経験豊富な庶出の補佐官や兵士が軍事力の要となっていた。
キースは、王国一の財力を有するガーライル家の嫡男であり、一人息子でもあった事から、全くもって武芸に傾倒する必要のない人間だった。
しかし、キースの「剣を習い、強くなりたい」という言葉からは、彼の本心からの真っ直ぐな意欲が感じられた。
まだ幼く、型にはまった貴族的な思考しか知らなかったカルラが混乱するのも無理からぬ事だった。
キースは、ハッと思い出した様子で、カルラを庭の一角にある白亜の大理石で出来た東屋に招き、ポケットからハンカチーフを出して椅子の上に敷くと、そこにカルラを座らせた。
「僕の考えが至らずすみません。確かに、貴族の令嬢に日焼けはいけませんね。少しここで待っていて下さい。日傘を持ってきます。」
そうして、走って建物の中へと消えていった。
□
キースはすぐに日傘を手にして戻ってきた。
彼の話によると、病気で伏せっている母親から借りてきたらしい。
丁寧に開いて、カルラの上に差し掛ける。
大人用の日傘であるため、カルラにはかなり大きく感じられた。
キースも同じ影にすっぽりと入れる程で、雨傘よろしく二人肩を並べて一つの日傘に入っている様を遠目に見かけた屋敷の侍女達が、微笑ましげに囁き合っていた。
カルラは、再びキースに案内されて庭を歩き出した。
紫色のドレスの裾を踏みつけないように両手の指で摘み上げて気をつけながら歩み、キースは彼女に歩調を合わせてゆっくりと進んだ。
それまでは、建物の前面にある庭を見て回っていたが、キースが奥の庭へと案内してくれると言う。
前庭は、訪れた客人をもてなすための空間で、誰もが見る事が出来る庭であったが……
対照的に、奥の庭は、ガーライル家の人間が自分達の好みに合わせて作らせた、彼らだけが鑑賞するためのものであり、この庭に招かれるのは、ごく身近な人間のみだった。
「私は一度王城に行った事があるのよ。そこで立派なお庭を見たわ。」
「それは素晴らしいですね。」
カルラは得意げにキースに語った。
カルラは、その年の春、毎年恒例であるハンズリーク王国の建国を祝う祭典に参加するため、父と母と共に、初めて王城に赴いたのだった。
門を入ってすぐの所に馬車を止め、そこから広々とした前庭を歩いて大広間に入り、玉座に座った王に祝いの言葉を述べるのが慣例だ。
祭典は三日間に渡って行われるが、初日には国を代表する大貴族が、二日目にはその他の貴族が謁見する運びになっており、カルラが赴いた二日目には、前庭から広間までズラリと貴族達の列が出来ていた。
それを長い時間待って、ようやく国王陛下に謁見が叶い、用意してきた祝辞と贈り物と引き換えに、一言二言形式的に国王から言葉を掛けてもらえるのだった。
カルラは、子供ながらに長い待ち時間をひたすら耐えて、ようやく国王陛下を間近に見る事が出来、とても誇らしく感じていた。
その折、順番を待っていた時に見た王城の前庭の有様が、カルラには「これこそが最も尊い身分の方のお庭」として脳裏に刻み込まれていた。
左右対称にデザインされた広大な庭には、中央に大きな噴水が鎮座し、あちこちに彫像が配置され、常緑樹の茂みが真っ直ぐに刈り込まれて、白い玉砂利の敷かれた歩道と共に庭全体に幾何学的な文様を描き出していた。
カルラは、そこに、無駄のない数列のような美しさと高貴さをしみじみと感じたのだった。
(……国王陛下のお庭程ではないけれど、このお屋敷のお庭もなかなかね。……)
ガーライル邸の前庭は、王城の前庭と同じく、その頃王都の貴族の間で主流であった幾何学的な造形の庭園だった。
中央にしつらえられた噴水の周囲には広々とした円形の石畳が広がり、テーブルや椅子を並べれば百人近い客が入るパーティーを催す事も可能だった。
実際、時折、この地の賓客を招いて、料理を振る舞うと共に、楽団の演奏を聴いたり曲に合わせて踊ったりという夜会を開くのだと、昨晩ガーライル卿が夕食の席で語っていた。
そんな、隅々まで手入れの行き届いた規律正しい趣の庭を見て満足していたカルラだったが……
「これが、祖母が大事にしていた庭なんです。」
そう言ってキースがカルラを招いた奥の庭は、そんな幾何学的な前庭とは全く雰囲気の異なるものだった。




