山小屋の一夜 #6
「……もう少し後に迎えにあがった方が、良かったですかね?」
森の奥の山小屋から、里へと降りる道筋で、デルクが気まずそうにポツリと言った。
キースとデルクの主従は、一旦沢に降りて、清水の流れる中に飛び石のごとく並んだ岩の上を慎重に渡っていた。
今日も良い天気で、芽吹いたばかりの木々が、露を抱いて朝日を浴び、清涼な空気の中で煌めいている。
水晶のごとき川面を、ピシッと尾で叩いて魚が身を翻しては、またすぐに水底に隠れていった。
キースは元々あまり口数の多い方ではなかったが、山小屋からの帰路、ほとんど口をきかないので、デルクは彼の機嫌をうかがうように、岩を飛び渡る際、彼の手を持ち支えながら、そっと顔を覗き込んできた。
キースは、それでもまだしばらく口を一文字に結んだままだったが、川を渡り終えて対岸に着くと、ようやく口を開いた。
「確かに早くはあったが、昨日の別れ際にお前はそう言っていたからな。ある程度予想はしていたよ。」
デルクが、早朝にイヴァンとアンナの住む山小屋にキースを迎えにやってきた理由の一つは、間違いなくキースの事を心配していたからだろう。
その点に関しては、キースも、彼の忠誠心と友情に感謝する所だ。
しかし、明らかに、もう一つの理由は、美しいアンナの事を早くじっくりと見たかったからだろう。
「まったく。家で朝食を食べてきたと言っていなかったか? それなのに、イヴァンの家でまた食べていくとは。おかげで、イヴァンもアンナも、テーブルに着く事が出来ずにいたじゃないか。用意していた料理も、ほとんどお前が食べてしまったから、あの二人の分がなくなっていたぞ。」
「いやぁ、でも、勧められたものを断るのも悪いでしょう?……へへ、それに、思ったよりずっと美味くって、思わず夢中で食べちまいましたよ。あんな質素な料理なのに、驚く程美味かったですね。」
「アンナの料理の腕が良いのは私も同意だが、慎ましやかなあの二人の生活にあまり迷惑をかけるものじゃない。後で、何か差し入れを持っていってやるんだぞ。」
キースにたしなめられ、デルクは、反省しているのかいないのか、へへへと笑いながら、髪を短く切った頭を掻いていた。
ちょうど朝食の用意が出来るという頃合いにデルクがやって来た事によって、イヴァン達の山小屋のテーブルは、キースとデルクの二人で占領する形になってしまったのだった。
キースは、その事だけでも、イヴァンとアンナの二人に申し訳ない気持ちになったが……
デルクは、やって来てから帰る時まで、彼らが出した朝食用の料理を食べる途中さえも、ジロジロと不躾な程アンナの姿を見つめていて、それがキースには不快でたまらなかったのだった。
確かに、輝くような美貌を持つアンナについつい見惚れてしまうの気持ちは、分からないではなかったが。
「いやぁ、しかし、イヴァンの妹の、アンナ、でしたっけ? あんなに凄い美人だとは思わなかったですよ。今まで見た中で、飛び抜けて一番の美人だ!……ったく、あんな美人の妹を隠しているなんて、イヴァンの野郎。……」
「その話も、もうしただろう? 戦地から逃げ延びてくる際に、野蛮な帝国兵からアンナを守るために仕方なく顔を隠していたのだ。」
「それは俺も分かりますが、でも、俺には何も言わずに黙ったままだったのを、キース様が来た途端、なんで打ち明けてきたんでしょうね。それが、俺は気に食わないんですよ。」
デルクは、チッと舌打ちし、道に張り出していた小枝を掴んでぺキッとへし折っていた。
まあ、デルクの不満も分からないではなかったが、女好きの彼に、自分より先にアンナの素顔を見られなくて良かったと内心ホッとするキースだった。
「イヴァン、あの野郎。大人しそうなヤツだと思ってたのに、とんだ食わせ者だぜ。」
「キース様も気をつけて下さいよ。アイツは、きっと、あの美人の妹をキース様に売り込んで、自分もそのおこぼれにあずかろうって魂胆ですぜ。美人局ってヤツですよ。」
「良く知らない人間の事を勝手な想像で悪く言うものじゃない、デルク。イヴァンとは昨日話したが、妹思いの真面目な良い青年だったぞ。」
デルクはしばらく不満そうに黙り込んだままキースの先を歩いていたが、やがて、気を取り直したのか、振り返って興味津々に尋ねてきた。
「それで、どうだったんです、キース様?」
「どう、とは?」
「とぼけないで下さいよ! アンナの事ですよ!……昨日の夜はあの小屋に泊まったんでしょう? 当然、そういう事になるじゃないですか。あっちの方の具合は、どうでしかね?」
「……」
キースは、デルクの言葉に呆れるあまり、しばらく呆然と口を開いたまま言葉を失っていた。
「わ、私が、アンナと何かある筈ないだろう!」
「ええ!? 若い女と狭い小屋で一緒に夜を過ごして、何もないなんて! しかも、あんなとびきりの美人と!」
「た、確かに、ベッドが足りなかったから、私がイヴァンのベッドを借りて、アンナと二人寝室で眠ったが、だからと言って彼女に手を出したりするものか! 隣の部屋には、兄のイヴァンも居たのだぞ? お前と一緒にするな、デルク!」
「え? キース様、アンナと二人きり同じ部屋で寝たんですか?」
「ただ同じ部屋で眠ったと言うだけだ! 私は断ったが、イヴァンが、領主である私を床の上で寝かせる訳にはいかないと言ってだな!」
「そりゃあ、ますます、上げ膳据え膳じゃないですか。兄貴も公認って事でしょう? 妹を一緒の部屋で寝かせるので、どうぞご自由にって事でしょうが。古い付き合いですが、キース様の朴念仁ぶりには、呆れますぜ!」
「イヴァンが、大切にしている妹に対して、そんな女衒のような真似をするものか!」
「それはどうでしょうね。たまたまキース様が矢傷を負って自分の小屋に泊まる事になったのをいい事に、美人の妹と関係を持たせようと思ったんじゃないですかね? そして、それを理由に、この先甘い汁を吸うつもりだったんだと、俺は思いますね。」
「……」
キースはデルクの考えの不快さに、しばらく口を一文字に引き結んで黙り込んでいた。
(……いや、しかし……)と、ややあってから、思い直す。
キースは、自分が生真面目で潔癖な所がある事は自覚していた。
そんな自分の極端な尺度で他の人間を測ってはいけないと、自戒の念を常々持ってもいた。
(……デルクの発想が、庶民の間では一般的なのかもしれないな。……)
デルクの言葉を特に強く注意しないまま流そうとしていたキースに、彼の内心を理解していないらしいデルクは、更にこんな事を言ってきた。
「いやぁ、しかし、本当にいい女だったなぁ。あれに手を出さないなんて、キース様ももったいない事をなさる。……俺は、あれぐらいの、いい感じにこなれた女が一番好きなんですがねぇ。」
「世の中には、歳の若い、とにかく生娘がいいなんて男も多いですがね、俺に言わせれば、まったく分かっちゃいませんぜ。男を知らない十六、七の小娘なんて、ビクビク怯えるばっかりで、あっちの方はぎこちないし、まだ体も子供っぽくて、抱き心地がイマイチだと思うんですよ。俺には、生娘をありがたがる気持ちが皆目分かりませんね。」
「……デルク、お前、まさか……アンナが、今までいろいろな男と付き合ってきたと思っているのか?」
キースは、頭から冷や水を浴びせられたような気持ちになり、朝の陽光が木漏れ日となって降り注ぐ山中の小道で、思わず立ち止まっていた。