山小屋の一夜 #5
(……アンナ?……)
キースは少しためらったが、あまりにアンナが辛そうに悶えている様子に、居ても立ってもいられなくなり、寝ていたベッドから出て、そっとアンナの方に歩み寄っていった。
「……そ、そんな事、私には出来ません……許して下さい……い、嫌……」
艶やかな薄紅色の唇から漏れる言葉を聞き拾うに、アンナは夢の中で、自分より身分の高い何者かに、望まぬ事を強いられている様子だった。
ベッドの枕元の小テーブルに置かれた燭台の蝋燭の火は消したままだったが、キースの目はもうすっかり暗がりに慣れており、暖炉の中で炭となっている薪の赤い火照りだけで、辺りの様はほぼ見て取れた。
アンナが、柔らかな弧を描く金色の眉を苦悶に歪め、時折首を振ってうなされ続けている様子がはっきりと目に写り、キースは胸は痛めた。
(……激しい戦の続く中を必死で逃げてきた時の記憶だろうか?……)
(……こんな若い娘が、どれ程心に傷を負った事か。あまりに憐れだ。……)
悪夢にうなされるアンナを案じて、いっそ呼びかけて起こした方がいいだろうかとキースが思い悩んでいる内に……
しばらくすると、アンナは、ゆっくりと穏やかな寝顔に戻っていった。
どうやら眠る彼女の脳裏で、悪夢は終わったようだった。
キースはほっと胸を撫で下ろしたのちも、しばらくアンナのベッドのそばに立って、彼女の寝顔に見入っていた。
こうして、彼女の意識のない所で無防備な姿を間近で見るのは、後ろめたくもあったが、それでも、キースはアンナの美しい姿から目が離せなかった。
閉じ合わされた長い睫毛が、暖炉から差す仄かな赤い光を受けて、金色に煌めいている。
少し痩せてはいるものの、一点の歪みも曇りもない陶器のように滑らかな白い頬には薔薇色の血潮が映え、女性として完成された美しさの中にも、どこか無垢な少女の可憐さを感じさせていた。
「……行か、ないで……」
ふと、また、眠っているアンナの表情が曇った。
新たな夢を見始めたのだろうか。
先程は、嫌悪と絶望の感情を浮かべて苦しんでいたが……
今度は一転、ただひたすらに悲しげに、寂しげに、金の眉根を寄せていた。
「……私を、置いていかないで……一人に、しないで……もう、離れたくないの……」
「……イヴァン……」
アンナは、兄の名前を細くつぶやくと、閉ざした瞼を震わせ、透き通った熱い涙を溢れさせた。
一粒、二粒、涙はアンナの睫毛の間から零れ落ち、なだらかな白い頬に筋を残して落ちていった。
細い指が、夜の闇の中をもがくように、何かを掴もうとするように、動いていた。
(……「イヴァン」か。子供の頃は、歳の近い兄弟を名前で呼ぶのは良くある事だ。アンナは、イヴァンと一緒に遊んでいた頃の夢でも見ているのだろうか?……)
キースは、幼いアンナが兄のイヴァンと追いかけっこをして、取り残されている所を想像していた。
少しためらったが、そっと指を伸ばして、アンナの目尻に溜まっていた涙を優しくぬぐった。
そして、乱れていた毛布を掛け直す頃には、アンナは二度目の悪夢から解放されたのか、柔らかな表情に変わっていた。
キースは、しばらく眠っている彼女を観察し、どうやらもう、うなされる事はなさそうな様子に安堵した。
と、同時に……
夢が原因とは言え、アンナが苦しむ姿を思い出し、胸が苦しくなった。
(……この先、アンナに、こんな風に辛い事がないといいのだが。……)
キースは、アンナの幸せを願ってやまなかった。
彼女が苦しげに、あるいは悲しげに、ハラハラと涙を落とす姿を、もう二度と見たくないと思った。
(……アンナには、いつも幸福であってほしい。楽しげな笑顔を浮かべていてほしい。……)
しかし、山脈一つ越えた平原で戦乱の世の続く今の世界は、か弱い女性が一人で生きていくのには、あまりにも過酷な状況だった。
自分がアンナを守る事が出来たら良いのに、彼女を幸せにする事が出来らたら良いのにと、キースは自然と考えていた。
□
気がつくと、キースは一人、イヴァンから借りたベッドに横たわっていた。
閉ざされたままの木窓の隙間から、すっかり明るくなった陽の光が、小鳥の囀りと共に室内に漏れてきている。
アンナの姿は、既に向かいのベッドにはなく、シーツや毛布は綺麗に整えられ、着替えの服も籠から消えていた。
キースは、ベッドから上半身を起こし、まだぼんやりとした表情で、火の消えた暖炉に残った灰を見つめながら、昨日の夜の出来事を思い出していた。
アンナが穏やかに眠る姿を確認してから、自分のベッドに戻り横になったのだったが、いつの間にか熟睡していたらしい。
アンナのうなされている苦しげな表情と、零れて頬を濡らしていた涙が、キースの頭の中には、まだ夢の残滓のようにこびりついていた。
(……それにしても、すっかり寝坊してしまったな。……)
イヴァンとアンナの兄弟はもう起きだしているようで、ドアの向こうでは忙しく立ち働いている物音が聞こえている。
キースは少し気まずい気持になって、寝乱れていた髪を手で撫でつけて整えていると、コンコンとドアが叩かれ、アンナの明るく可愛らしい声が響いた。
「ご領主様、お目覚めになっておられますか?」
「ああ、アンナ。ちょうど目が覚めた所だ。」
キースがベッドから起き上がりながら答えると、キイッと古いちょうつがいが軋む音と共にドアが開き、三つ編みに結った長い金の髪を揺らしながらアンナがひょっこりと顔をのぞかせた。
花の咲いたような愛らしい笑顔をキースに向けてくる。
開いたドアの隙間からは、朝食として用意しているらしい料理の良い匂いがフワッと漏れてきていた。
「良くお休みになられましたか? 私はお邪魔にならなかったでしょうか?」
「邪魔になどなる筈がない。とても良く眠れたよ、アンナ。」
「それは安心いたしました。今、朝食を用意している所なのですが……」
キースが、脱いでいたベストやベルト、ブーツなどを身につけている一方で、アンナは、キビキビと窓の木戸を開けて棒で支え、続いてキースの使っていたベッドの毛布やシーツを整えながら言った。
「デルク様が、いらっしゃっています。」