山小屋の一夜 #3
食事を終えると、もう外は完全に闇に包まれていた。
辺りに人家はなく、月と星のほのかな明かりがあるとは言っても、高い木々の合間からでは、小さな小屋までほとんど届く事はない。
「まだ夜は冷えます。寝室の暖炉に火を入れておきましょう。……アンナ、毛布の方は干してくれたね?」
「ええ、お兄さん。今日は天気が良かったので、お日様にいっぱい当てておいたわ。」
「じゃあ、お前は枕元の水差しに水を汲んできてくれ。」
イヴァンは立ち上がって奥の寝室にゆき、アンナも素焼きの水差しを手に、勝手口の外にある近くの泉の水を汲み置いてある桶へと向かった。
キースは一人、テーブルで茶を飲みながら待っていたが、程なく、準備が済んだようで、「どうぞこちらへ」とイヴァンに寝室に招かれた。
寝室の突当りの壁に埋め込まれた暖炉には、気候に合わせて小さな火が焚かれており、狭い室内に暖かさと揺らめく炎の明るさを広げていた。
暖炉の両脇の壁際に置かれた二つのベッドには、アンナが干したと言っていた毛布が綺麗に整えられている。
シーツの下に敷かれているのは藁であったが、貧しい庶民ではこれが一般的であり、国境近くの騎士団の兵舎で寝泊りする事もあるキースは特に抵抗を感じなかった。
「粗末な所で申し訳ありませんが、今晩はこちらでお休み下さい。」
「ああ、ありがとう、イヴァン。」
キースは、イヴァンに示されたベッドに腰を下ろした。
枕元近くの小さな丸テーブルには、蝋燭に火の灯った燭台の他に、アンナが用意してくれた泉の水の入った水差しと、木の器が置かれていた。
野宿をする事に比べれば、狼に襲われる心配もない屋根のある暖かな場所でこうしてゆっくりと体を横たえられるのだから、ありがたい事だと思っていた。
しかし、一方で、少し気になる事があった。
この寝室には、と言うか、この家には、ベッドは二つしかない。
イヴァンとアンナの兄妹が二人で住んでいるのだから、当たり前ではあったが。
来客用のベッドなどというものがある筈がないのは、この山小屋の狭さからしてはじめから見当がついていた。
こうして、突然一泊する事になったキースにベッドを貸してくれたのはいいが、兄弟はどうするだろうかと内心思っていた。
すると、ベッドに腰を下ろしたキースに、イヴァンが申し訳なさそうに言ってきた。
「実は、お願いがあるのですが、ご領主様。」
「うむ。なんだろうか?」
「こちらの、もう一つのベッドでアンナを休ませても構いませんか? なにぶん狭い家でございまして、他にベッドがないのです。」
「え?……ア、アンナを?」
キースは、向かいのベッドを見て、少なからず動揺した。
それぞれ壁際に置かれているとは言え、狭い寝室に二つ並んだベッドのもう片方でアンナが眠るという事は……
同じ部屋の中で一夜を過ごす事になってしまう。
若い娘が夫や婚約者でもない男と二人きり一つ部屋の中で眠るというのは、礼儀作法に厳しい貴族の中ではあり得ない状況だったが、庶民としても、常識的に忌避される事だろう。
とは言え、今夜は緊急避難としてキースが急遽泊まる事になったので、仕方のない事態ではあった。
キースが、まさかあの美しいアンナと同室で眠る事になるとは思わず、困惑した表情を浮かべていると、イヴァンが頭を下げて頼み込んできた。
「申し訳ありません、ご領主様。ご領主様のような高貴な方と妹を同じ部屋で眠らせるのが失礼な事だとは重々承知しております。しかし、妹はか弱い女の身。出来れば、ベッドで休ませてやりたいのです。」
「た、確かに、若い女性を床の上で眠らせる訳にはいかないな。……しかし、イヴァン、君はどうするつもりなのだ?」
「私の事なら大丈夫です。冬用の毛布が余っているので、それを敷いて隣の部屋で休みます。」
「いやいや、それは悪い。私が君のベッドを取ってしまったのだな。私が床で眠ろう。」
「それはいけません。私がベッドで眠って、ご領主様を床で眠らせるなど、そんな失礼な事は出来ません。どうか、私の事はお気になさらず、ゆっくりベッドで休んで下さいませ。……ただ、妹だけは、ベッドで眠らせてやりたいのです。どうか、それだけはお許し下さい。」
キースは申し訳ない気持ちで何度も訴えたが、イヴァンは頑として自分が床で眠る事を譲らなかった。
確かに、一領民であり、ガーライル家の森林を管理する仕事の一端を任されている使用人という立場のイヴァンにとっては、自分の主君を床で眠らせる訳にはいかないのも道理だと、キースは理解した。
あまりイヴァンを困らせてはいけないと思い、最終的には、彼の提案を飲んでキースが折れる形になった。
「では、今夜一晩だけ、君の好意に甘えさせてもらうとしよう。」
「それでは、ゆっくりお休み下さい。私は、隣の部屋におりますので、何かあったお声掛け下さい。」
キースの了承を得られて、イヴァンはホッとした様子で、部屋を後にしようとした。
そんな彼の質素な衣服の袖を、アンナが慌てて掴んだ。
「お、お兄さん!」
「ああ、アンナ。くれぐれもご領主様に失礼のないようにするのだよ。」
「わ、私も、お兄さんと一緒に、向こうの部屋で休みます。」
「お前はベッドで眠っていいんだよ、アンナ。ご領主様もそうおしゃってくれた。ご領主様に感謝しなさい。」
どうやらアンナの方も、この地方の領主とは言え、今日会ったばかりの人物と同じ部屋で眠る事になって動揺しているようだった。
しかし、イヴァンは、そんなアンナの繊細な乙女心に全く気づいていないのか、珍しくニッコリと笑顔を浮かべ、自分にすがっていたアンナの白い手をそっと外した。
「お兄さん……」
そして、寂しそうな目でジッと見つめてくるアンナをその場に残し、寝室を出てドアを閉じた。