山小屋の一夜 #2
「ありがとう、アンナ。おかげでさっぱりした。とてもいい気分だ。」
「お怪我の方は、明日の朝、もう一度薬を塗り直して、包帯を変えますね。」
アンナはキースの足を洗った後、綺麗な水に濡らした布で優しく矢傷を拭き、軟膏を塗って包帯巻いた。
さすがに、ブーツを履き直すのはアンナの助けを断り、キースは自分で履いた。
自分の足をアンナに触れられている間は気恥ずかしさ故に早く終わって欲しいと思っていたキースだったが、アンナが手際良く傷の処置を終え、桶や取り除いた包帯を片づけ始めると、つい名残惜しい気持ちに駆られてしまっていた。
「アンナは、随分と傷の手当てに慣れているのだね。」
「兄が怪我をした事があって、その時に手伝っていたので、すっかり慣れてしまいましたわ。」
アンナは、軟膏の入った二枚貝を小さな木箱に収めながら、微笑んでそう言っていた。
キースは、それを聞いて、イヴァンには左目を横切るように傷跡があったのを思い出した。
ガーライル辺境伯であると共に国境騎士団の団長でもあるキースは、これまで様々な怪我を目にしてきた経験から、あの傷は、最近ではないものの、おそらく一年以内に出来たものだろうと推察した。
(……あれは、戦地から逃げてきた時に負った傷だろうか?……まあ、そうでなくとも、森で狩りをしていれば、怪我をする事も珍しくはないだろう。……)
一方、キースが膝下に負った傷は、矢が掠めただけだったため、もうすっかり血は止まっていた。
完治すれば傷跡さえも残らない程度のもので、明日の朝再び様子を見る必要もないとは思ったが、ここは黙って好意を受け取っておく事にした。
(……それにしても、あの時、なぜあんなに具合が悪くなったのだろうか?……)
改めて、極めて軽症である傷跡を確認したキースは、怪我を負った直後、急に気分が悪くなって倒れた事を不審に思った。
これが、大量の血を見るのに慣れていない人間ならば、驚きと恐怖で気が遠くなる事もあり得たが……
キースは軍人であり、また、あの時の出血は、精神的にも肉体的にも、貧血を起こす程の量ではなかった。
「そろそろ暗くなってまいりましたね。夕食にいたしましょう。……アンナ、準備を頼むよ。」
「はい、お兄さん。」
その時、イヴァンが、蝋燭に火を灯した燭台を持ってテーブルのそばにやって来たので、そこでキースの思索は一旦途切れてしまった。
イヴァンは、テーブルの中央に燭台を置くと、開いていた窓の木戸を、支えていた棒を取り外して閉め、アンナは土間のかまどへと向かっていった。
□
シュメルダの険しい山脈に囲まれた箱庭のような小さな平原に差していた陽が、西の山の端に太陽が吸い込まれるのと共に消えると、山の中の小屋も、みるみる夜の青い闇に包まれていった。
程なく、蝋燭が丸い輪を描いて照らしだすテーブルの上には、アンナが調理したという料理が並んだ。
山鳩の肉と山芋、山菜などが入ったスープに、塩を振って焼いた川魚がメインで、そこに保存の効く固いパンを食べやすいように薄く切ったものと、チーズ、酢漬けの野菜、お茶が添えられていた。
おそらく、毎晩こんな状態なのではなく、キースのために精一杯振舞ってくれたのだろう。
「粗末な食事でお恥ずかしい限りです。ご領主様のお口に合うと良いのですが。」
「いやいや、辺境騎士団の野戦訓練では、干し肉とパンと水だけという事もある。十分なご馳走だよ。ありがとう、イヴァン、そして、アンナ。」
キースは決してお世辞で言ったのではなく、野趣溢れる山小屋の料理を十分に堪能していた。
都会を避けて休暇に来ているとはいえ、別荘である屋敷では、使用人達が気を使ってなるべく上等な都会風の料理を出してくるので、こうした素朴な味に触れる機会は実は少なかった。
それに、新鮮な山の幸は滋養に満ちて、独特な味わいがあった。
(……いや、それだけではないな。山鳩の肉の臭みや固さも良く取れているし、何より、料理の味つけがいい。何種類もの山菜を合わせて、この絶妙なバランスを保てているのは、料理人の舌がいいのだろう。アンナには、料理の才能があるようだ。……)
調味料は塩と果実酒と酢ぐらいしかない山小屋で、素材の味を生かした見事なスープの味に、キースは内心驚いていた。
二人の話を聞くに、食材の下ごしらえはイヴァンが担当しているらしい。
狩りで獲った獣や野鳥は、皮を剥いだり羽を抜いたりといった、少々荒っぽい過程を全てイヴァンが片づけ、すぐに調理出来る肉の状態で渡してくれるのだと、アンナが言っていた。
その他、山菜や山芋などといった食材も適宜狩りの途中で見つけて採ってきてくれるとの事で、それらを使って料理をするのがアンナの役割のようだった。
塩やパンやチーズ、野菜の酢漬けなどの、山では手に入らない食材も、イヴァンが週に何度か、山の麓のデルクの屋敷のある里に赴いて、狩った獲物と交換で入手していた。
「こうして山小屋の生活を体験してみると、思いの外快適で楽しいものだ。特に、都会の喧騒から遠く離れた静寂が、何よりも心地良い。」
「ご領主様ともなれば、様々に気苦労の多い事でしょう。狭い家ではありますが、どうか、今夜はごゆるりとおくつろぎ下さい。」
「ありがとう、イヴァン。気遣い感謝する。……しかし、ずっとこんな山の中に居ては、さすがに何かと困る事もあるのではないかな? 必要なものなどあれば、融通したいのだが。」
キースは、アンナの手料理を残さず食べ終えて、お茶をいただきながら、チラとアンナの方に視線を送った。
どうやら森林管理人としての仕事がすっかり板についているらしいイヴァンはともかく、か弱いアンナにとって山小屋暮らしは、いろいろと大変な事もあるだろうと心配したのだった。
しかし、アンナは、キースの視線に気づくと、にっこりと花のように微笑んだ。
「ご心配下さってありがとうございます、ご領主様。……ですが、私は、今の暮らしにとても満足しております。」
「豊かとは言えないかもしれませんが、こうして兄と二人、静かに平和に暮らしていける今が、私にとっては何よりも嬉しいのです。」
キースは、そんな無欲で純粋なアンナの答えを聞き、思わず笑みが零れていた。
「二人は、とても仲の良い兄弟なのだな。」
「はい。兄は、私のたった一人の家族ですから。」
イヴァンは、嬉しそうに語るアンナとは対照的に、少しうつむいて、たまにお茶を啜りつつ、ずっと黙り込んでいた。