山小屋の一夜 #1
「お湯をお持ちしました。」
ちょうどキースとイヴァンの話が終わる頃合いに、アンナが湯の入った桶を持って窓際のテーブルの所にやって来た。
「それでは、ご領主様、沐浴は無理ですが、せめて足を湯につけて疲れを癒して下さい。山歩きでお疲れの事でしょう。怪我の方も、もう一度良く洗って薬を塗っておいた方が良いでしょう。」
「ああ、これはありがたいな。恩に着る。」
キースはイヴァンの心遣いを喜んだが、当のイヴァンは、スックと椅子から立ち上がると、アンナに言った。
「アンナ、後は頼む。私は、今日狩った獲物の処理をしてくる。」
「え? お、お兄さん?」
「お前がご領主様の足を洗って差し上げるんだ、アンナ。くれぐれも失礼のないようにな。傷の手当の仕方も、分かっているね。」
「は、はい。」
アンナは明らかに戸惑っている様子だったが、イヴァンは有無を言わせぬように短く言い置くと、さっさと土間の勝手口を抜けて外へと出ていってしまった。
イヴァンは妹のアンナの事をとても案じている様子を見せる一面、彼女をどこか突き放したような態度をとる事もあり、キースは少し心に引っかかるものを感じていた。
(……い、いや、今はそんな事を考えている場合ではないな。……)
テーブルのそばの椅子に腰掛けていたキースの足元に湯の入った桶を置いたアンナは、洗い立ての清潔な布や新しい包帯、傷薬などを、壁際に置かれたタンスの中から手際良く取り出し、「失礼いたします」とキースの前に跪いた。
「ご領主様、靴を脱がさせていただいてもよろしいですか?」
「あ! いや、そのぐらいの事は自分でやろう。足を洗うのも、君の手を借りる必要はない。本当に大した傷ではないんだ。」
キースは、美しいアンナに、その華奢な白い手で、自分のブーツを脱がせたり足を洗わせたりするのが心苦しく、また気恥ずかしく、なんとか断ろうとしたが……
アンナは、静かに首を振って、柔らかく微笑んだ。
「私が兄に叱られてしまいます。どうか、ご領主様はそのままくつろいでいて下さいませ。」
「……う、うむ。……」
気まずい気持ちで視線を宙にさまよわせるキースとは対照的に、アンナは恥ずかしがるふうもなく落ち着いた様子で、そっとキースの革のブーツに手を添えてゆっくりと脱がせていった。
□
「お湯加減はいかがですか?」
「うむ。丁度いい。」
アンナの白く繊細な指先が、湯の入った桶に両足を漬けたキースの膝から下の皮膚の上を滑り、丁寧に洗いあげていく。
少し熱めの湯を、時折手で掬って掛ける水音が、足元で聞こえていた。
キースは、その快感と羞恥心で崩れそうになる表情をなんとか保とうと、口元を覆うように拳を当て、密かに奥歯を噛み締めていた。
(……思えば、こんな風に他人に体に触れられるのは、ずいぶん久しぶりの事だな。……)
キースは、元々着替えも入浴も使用人に手伝わせていなかった。
貴族や富豪の家では、召使に身の回りの世話をさせて自分は何もしないのが上流階級の嗜みのような傾向があったが、キースは自分で出来る事は自分でする主義であった。
また、良く見知った使用人と言えど、他人に自分の体に触れられるのがあまり好きではなかった。
本来は触れ合いのあるべき妻のカルラとは、もう何年も手さえ握っていなかった。
アンナの指の感覚から気を逸らそうと、視覚に意識を集中させて、目の前に跪いて自分の足を熱心に洗ってくれている彼女の姿を見つめる。
(……はじめはあまり似ていない兄弟かと思ったが、良く良く見れば、似ている所もあるな。……)
鼻筋が通っている所、眉のなだらかな曲線、少し先端の尖った耳の形……
痩せこけているせいで分かりにくいが、イヴァンも、なるほどアンナの兄と言うだけあって、実は目鼻立ちは良く整っていた。
ただ、イヴァンは陰と険がある一方で、アンナはどこまでも明るくまろやかな印象だった。
光と影、昼と夜、太陽と月……そんな対照的な雰囲気を持つ兄妹だった。
窓から差し込むだいぶ西に傾いた薄茜色の陽光が、アンナの黄金色の三つ編みに当たりキラキラと輝く様を、キースはぼんやりと見つめていた。
簡素ではあるが、長い髪を綺麗にまとめている。
しかし、僅かに漏れた後れ毛が、なめらかな白い肌の上に零れる様も、また、興があった。
アンナは、戦火を逃れる過酷な長い旅のためか、少し痩せ気味であったが、華奢な骨格を包み込む肌には、女性らしい柔さが十分に感じられ……
肩や首回りのなだらかかつ繊細な陰影は、名工の手による彫像を連想させた。
先程頭に巻いていたスカーフを取り除いたため、生成りの質素なワンピースの首元があらわになり、かがんだ姿勢のせいもあって……
襟ぐりからのぞく白い胸元がつい目に飛び込んできてしまい、キースは慌てて視線を逸らしたが……
しばらく、脳裏からそのなめらかな柔肌の光景が消えずに、内心懊悩する事になった。
「……うっ!……」
「すみません、不快だったでしょうか?」
アンナが、片手でキースの足を支え、もう片手の指で、彼の足指の間を洗い始めたので、キースは思わず声が出てしまっていた。
その瞬間、キースの表情をうかがうようにパッと顔を上げたアンナと、パチリと目が合った。
アンナの、新芽が宿した雨粒を思わせる美しい黄緑色の大きな瞳が、キースの少し動揺した顔を写し込んでいる。
透き通るような白い肌の奥に薔薇色の血潮が浮かび上がる頰、控えめな艶を持つ形の良いやや小ぶりな薄紅色の唇。
(……ああ、なんと、美しく、愛らしいのだろう……私は、もう……)
キースは、自分が彼女に惹かれている事をはっきりと自覚した。
「ご領主様?」
「あ、いや、大丈夫だ。」
「では、このままお洗いしますね。」
キースは、年甲斐もなく高鳴る胸の鼓動を隠そうと必死で、つい、にこやかな笑みで返してしまっていた。
おかげで、「そんな事までしなくていい」と彼女を止める機会を失い、アンナが足を洗い終わるまで、小鳥に啄まれているようなこそばゆい快感をひたすらこらえる事になった。