スカーフの下 #4
「イヴァン、テメェ、俺を騙しやがったなぁ!」
「す、すみません! デルク様!」
「デルク! 事情は私から聞いておくから、お前は早く麓に帰ってくれ!」
デルクは、スカーフを取り除いた事で明らかになったアンナの美貌に驚き、真相を告げずにいたイヴァンに毒づいたが、すぐにキースが仲裁した。
主君であるキースに命じられては、デルクもなすすべがない。
後ろ髪を引かれている様子で何度もチラチラとアンナの方を振り返りながらも、今度こそ本当に木々の向こうに歩き去っていった。
「やれやれ、デルクにも困ったものだ。あれでも森林管理人としてはとても優秀なのだよ。裏表のない明るい性格で皆にも好かれている。……イヴァン、許してやってくれ。」
「も、もちろんです、ご領主様。今回の事は、私に非があります。デルク様が怒るのも無理はありません。」
「うむ。しかし、ずっとアンナに顔を隠させていたのには、何か事情があるのだろう? 話してくれないか?」
「はい。……ですが、まずは、家の中に入られて下さい。そろそろ風が寒くなってまいりました。どうぞ、粗末な所ではありますが。」
イヴァンは、キースを丸太小屋の中に招きつつ、アンナを振り返って言った。
「アンナ、お湯を沸かしてくれないか。ご領主様に疲れを癒してもらいたいんだ。」
「分かりました、お兄さん。」
アンナはさっそく、小走りに家の裏手へと向かっていった。
□
イヴァンとアンナが住む丸太小屋の中は、大きく分けて二つの部屋で出来ていた。
一つは、扉を入ってすぐの部屋で、その半分は土間になっており勝手口に繋がっている。
土間にはかまどがあって、そこで煮炊きをしているようだった。
板の間には、窓際にテーブルと椅子が置かれ、食事をとったり、家の中で細々とした仕事をする際に使っているらしかった。
奥の部屋にはベッドが二つ置かれていた。
突当りの壁には、冬は寒さの厳しいこの地方では必須の暖炉がしつらえられており、その両側の壁際にベッドがそれぞれ置かれている。
寝室としてのみ使われているらしく、他には、服などを入れる棚や枕元に小さな丸テーブルと椅子があるばかりだった。
キースは、まず、入ってすぐの部屋の、テーブルのそばの椅子を勧められた。
キースの剣と弓矢はイヴァンが丁重に預かって、剣は壁掛けに水平に安置し、弓矢は部屋の隅の弓矢立てに収めた。
兄が帰ってくるのを待って既に作ってあったのか、すぐにアンナが木の器にお茶を入れて持ってくる。
お茶とはいっても、貴族が飲むような南方から遠路はるばる運ばれてきた乾燥した高級な茶葉で入れるものではなく、この地方で良く採れる香りのある野草を生で煮出したもので、村人達に親しまれている飲み物だった。
アンナは、キースと、その向かいの席に座ったイヴァンの前に茶を出すと、新しく湯を沸かしに土間の方に去った。
美しい彼女の姿が視界の端にチラつくのを内心気にかけながら、キースはイヴァンの話に耳を傾ける事になった。
□
「デルク様や、里の方達を騙していて、本当に申し訳ありませんでした。」
「もう、デルク様からお聞き及びでしょうが、私と妹は、ここハンズリーク王国の人間ではありません。山脈を超えたフメル平原で戦に巻き込まれ、命からがら逃げ延びてきた者です。」
「ここ、ご領主様の治めるシュメルダ地方は、いえ、ガーライル領は、本当に平和で豊かで、素晴らしい所ですね。長く戦火に追われて逃げ惑っていた私と妹には、夢のような場所です。このような良い土地に住まわせていただけて、ご領主様には、いくら感謝しても足りません。」
イヴァンは、木の器に注がれた野草茶を一口飲むと、声の調子を少し落として、神妙な表情で話を続けた。
「……元居たフメル平原を逃げる時から、妹にはずっと顔を隠させていました。」
「今、戦火の続く平原の治安は良くありません。ブルーハ帝国の兵士達だけでなく、戦争の混乱に乗じて、ならず者達があちこちで略奪や暴行を働いています。武器も持たない多くの人々が、フメル平原中で悲惨な目に遭っています。特に、若い娘はそうした輩に狙われる事が多く、私も妹を守るため、必死にアンナの姿を人に見られぬようにここまでやって来ました。」
「この地に住むようになって、今は、戦争に巻き込まれた日々が遠い事のように思われる程平和に暮らしておりますが、用心深く過ごす事が身についてしまっていて、アンナの事は、今日までひた隠しにしておりました。」
キースはイヴァンの話を、聡明さと優しさを兼ね備えた整った面を苦渋にしかめて聞いていた。
「……確かに、フメル平原では、長い戦乱により酷い状態が続いていると私も聞き及んでいた。そんな中、アンナを守ってここまで逃げて来たのは、相当な苦労もあった事だろう。」
かの平原では、戦火に巻き込まれた一般市民達は、ブルーハ帝国の獰猛な兵士達に非道に蹂躙されているとキースも聞いていた。
敗戦国の人間は、もはや同じ人間として扱われる事はなく、蓄えた金や食料は問答無用で持ち去られ、年寄りは打ち捨てられ、若い男は労働力として連れていかれるか、反抗的な者はその場で斬り殺される。
特に、女子供の扱いは悲惨なもので、片端から捕まえられて奴隷として売られるが、それはまだ良い方で、少し見目の良い若い娘は、その場で兵士達に欲望のままに犯され、嬲り殺される事もままあるという。
遠い異国の地の話として聞く分にも胸の潰れる思いがしたが、こうして、実際に命からがら逃げのびてきた難民を前にすると、キースの中で一層現実の重みが増していた。
□
「そういう事情ならば、アンナの素顔を隠していた事で、君を咎める理由はない。彼女の身を守るために仕方なくした事だ。むしろ、君は賢明で正しい判断をしたのだと、私は思っているよ、イヴァン。」
「デルクのように、アンナの事で何か言ってくる者が居るかもしれないが、それに関しては、私の方から注意しておこう。」
「ありがとうございます、ご領主様。心から感謝いたします。」
イヴァンは、ホッと胸を撫で下ろし、キースに深々と頭を下げていた。
(……実際、アンナの美しさは、戦時中でなくとも、多くの男の目を引きつけ、彼女に望まぬ災いをもたらしかねない。兄のイヴァンが慎重になるのも、無理からぬ事だ。……)
これ程までに美しい娘ならば、飢えた獣のごときブルーハ帝国の兵士達だけでなく、好色な権力者や金満家などに目をつけられる可能性も充分にあった。
アンナを見初めた男が善良な人間であり、彼女の意思を尊重してくれればいいが、世の中そう甘くはない。
権力や暴力にものを言わせて彼女を自分のものにしようと強引な手段に出る者も、きっと少なくないだろう。
実際、女好きのデルクに、自分より先にアンナの素顔を見られていたらと思うと、キースは落ち着かない心地になっていた。
おそらく、兄のイヴァンが、フメル平原を抜けてこの地に住みだした後もアンナに顔を隠させて生活していたのは、そういった懸念があったからだろうとキースは推察していた。
そんなイヴァンの、徹底してアンナを守り通してきた対応に、内心密かに感謝するキースだった。
イヴァンが、キースの前では、アンナに顔を隠していた布を取るように言ったのは、自分の事を、領主として、人として、信頼を置いてくれたのだろうと考え、イヴァンに対する評価も、キースの中で高まっていた。
(……こうして、イヴァンとアンナの二人に無事出会う事が出来て、本当に良かった。……)
(……これも、運命の導きなのかもしれないな。……)