スカーフの下 #3
「ご領主様、これは私の妹のアンナです。デルク様は、既に何回か会った事があると思います。」
「アンナ、この方が、このシュメルダの……いや、ガーライル領のご領主様、ガーライル辺境伯様だよ。失礼のないようにご挨拶しなさい。」
イヴァンは妹の横に立ち、まず彼女をキースに紹介すると、次に、妹のアンナにキースを紹介した。
イヴァンは、粗末な身なりの一領民であり、まだ歳も若かったが、こういった場面できちんと目上の人間への紹介を先にするなど、礼儀をわきまえている所があった。
「は、初めまして、ガーライル辺境伯様。」
アンナは、質素なワンピースの裾を両手の指先で摘んで、深々と頭を下げた。
普通の村娘はなかなかここまで丁寧なお辞儀をしないため、彼女の貧しい衣服との対比で、キースは少なからず違和感を覚えた。
「……お、お兄さん。どうして、ご領主様がこのような場所に?」
「アンナ、もっと礼儀正しくしなくては駄目だろう。ご領主様に失礼だぞ。」
十分丁寧な態度を取っていると思えたが、何やらイヴァンに叱られているアンナに、キースは半ば助け舟は出す形で話しかけていた。
「実は、少し怪我をしてしまってね。今から山を下りるのは危険なので、今夜はこの家に一泊させてもらう事になったのだよ。……アンナと言ったね。よろしく頼む。」
「そうなんだ、アンナ。私が、ご領主様に間違って矢を当ててしまったんだ。」
「お、お兄さんが、ご領主様に矢を? お兄さんの弓の腕で、そんな間違いがあるなんて!……ああ、本当に、申し訳ございませんでした、ご領主様! なんとお詫びを申しげていいか!」
兄弟揃って何度も頭を下げて謝罪され、キースはまた、苦笑しながら「単なる事故で、傷も軽いので、気にしなくていい」と口にした。
「デルク、ここまでの案内、ご苦労だった。お前はもう里に戻ってくれ。」
「キース様の事が心配なので、俺も今夜はこの家に泊まります。」
「そんな何人も押しかけては、イヴァンも困るだろう。それに、デルク、お前には、屋敷の者達に、私が今夜はここに泊まると伝えて欲しいのだ。私が突然居なくなっては、騒ぎになりかねない。お前一人なら、今からでも暗くなるまでに山を下りられるだろう。頼んだぞ。」
「……わ、分かりました、キース様。……明日は、日が昇ったら、すぐに迎えに参ります。」
キースの言い分はもっともであったので、不承不承ながらもデルクはうなずいた。
預かっていた弓矢をキースに手渡し、歩き出したデルクに、イヴァンとアンナの兄弟が頭を下げていた。
□
「さあ、アンナ、もっとちゃんとご領主様にご挨拶なさい。」
「お兄さん?」
デルクが家の前から立ち去った所で、改めてイヴァンが妹を促した。
キースも困惑していたが、当のアンナも、なぜ兄に注意を受けているのか分かっていない様子だった。
「その顔に巻いているスカーフを取りなさい。ご領主様の前で顔を隠しているのは失礼だろう。」
「えっ!?」
アンナは、兄の指摘に酷く驚いたらしい反応を見せた。
それはキースも同じで、デルクから前もって彼女の顔には酷い火傷の跡があると聞いていたため、慌てて制止した。
「い、いや、そのままで大丈夫だ。これ以上私に気を使わなくていい。」
「アンナ、早くしなさい。」
「……は、はい。お兄さん。……」
アンナは、イヴァンに厳しい口調で指示されると……
肩をすくめて落ち込んでいる様子ではあったが、大人しく聞き入れ、顔どころか頭全体を覆うように巻いていたスカーフを解き始めた。
キースは手を伸ばして止めようとするも……
途中で、ハラリと、緩んだスカーフの間から黄金色の髪が薄茜色に染まった陽に照らされながら零れ落ちたのを見た瞬間に、心臓を矢で射られたように停止してしまっていた。
三つ編みに結われた長い黄金色の髪に続いて、スカーフの下から、雪のような白い肌が現れる。
その時、初めて、キースは、服の袖からのぞいていたアンナの手が、白く華奢だった事に気づいた。
スカーフを取り除いたアンナは……
とても美しい女性だった。
王都で多くの貴族の子女を見てきた経験のあるキースも、これ程美しい娘を見た事がなかった。
光の河を思わせる黄金色の長い髪に、きめの細かい白い肌。
目鼻立ちは一分の隙もない程に端正に整いながらも、同時に、愛くるしい可愛らしさも持ち合わせている。
特に、金の長いまつ毛に縁取られたつぶらな瞳は、潤んだように揺らめいて、見る者の心を引きつけた。
春先に萌え出ずる新芽のごとき瑞々しい黄緑色が、光の加減によって、まるで虹が架かったように縁の色が変化し、その万華鏡を思わせる千変万化の不思議をずっと見つめていたくなる。
アンナは、貧しい生活の中で全く化粧を施していなかったが……
紅一つ引かない、煌びやかなドレスも何もないままで、まばゆい程の自身の美貌により、燦然と輝いていた。
キースは息を飲んで、アンナの美しさに見惚れた。
今までも女性を美しいと思う事はあったが、我を忘れる程見とれた経験はなかった。
それ程までに、彼女は美しかった。
いや……
初めてアンナの素顔を見た、その瞬間に、キースは心は、完全に彼女に奪われていた。
それまで、キースは、女性をその外見だけで判断し、好いたの惚れたのと言うのは愚かな事だとずっと思っていた。
しかし、本当に美しく、そして、愛おしい存在を目の当たりにすると、人は一瞬の内に心の奥底まで惹かれてしまうのだと、キースは初めて知った。
「……ア、アンナ……」
控えめに、しかし、真っ直ぐに、自分の目の前でジッとこちらを見つめている、この世のものとは思えない程に美しい女性に、キースは声を震わせながらも話しかけようとした。
光り輝く奇跡に手を伸ばし、触れて、これが現実だと確信したかった。
□
と、その時、思いがけない声が後ろから聞こえてきた。
「こ、こりゃあどういう事だ!? 火傷なんて、どこにもないじゃないか!」
「……デルク……お前、まだ帰っていなかったのか。」
キースは、夢から引き戻されたかのように、ため息をついて振り返った。
そこには、アンナの素顔を見て飛び戻ってきたらしいデルクが、目を見開いて立ち尽くしていた。