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緋と金と灰  作者: 綾里悠
<緋の章>
109/167

白い小石 #5


「……本当は私も分かっているのよ、自分がとても恵まれた環境に居る人間なのだって。」


 クルルは、日々の水仕事であかぎれの目立つアンナの手を両手で包み込むようにして握りしめ、肩を落として、珍しく力ない声で語った。


「私が社交界で勝手をしていられるのは、全てガーライル家の後ろ盾あっての事だわ。……もし私が、弱小貴族の家に生まれていたら、必死に貴族達の機嫌をとって、自分のいい噂を広めて、少しでも条件のいい殿方を射止めようと苦心していた事でしょうね。でも、幸い、私の生まれたガーライル家は、王家の方々も一目置くような、広大な領土と他の追随を許さない程の富を持つ家だったわ。今は辺境伯に格上げされたけれど、かつては、地方豪族が男爵という形ばかりの爵位を賜った家だった事もあって、お祖父様の頃から続く貴族らしからぬ家風も、じゃじゃ馬の私にとっては合っていたのよね。歳の離れたお兄様は私には甘くて、『クルルが嫌ならば、社交界には出なくてもいい』なんて言って下さった事もあったわ。ガーライル家当主のお兄様もだけれど、自分から積極的に社交界で貴族の間にコネを作らなくてもやっていけるだけの巨大な資産がガーライル家にはあるの。こうして貴族社会とは距離を置いて自由にしていられるのも、全てはこの領地が豊かなおかげなのよね。……そして、私自身、いつもお兄様や夫に守られているからこそ、安穏と生活出来ているのだわ。二人にもっと感謝すべきだわね。」


「ガーライル家の富や、お兄様や夫のおかげで、私はこうして、毎日美味しいお料理を食べて、良い服を着て、綺麗にお化粧をして、何不自由ない贅沢で平和な生活をしていけるのだわ。……いいえいいえ、貴族の家に生まれただけでも、充分に私は幸福な立場にあったのよね。世の中には貧しい暮らしに苦しみ、日々の食べ物にさえ窮している人々が多く居る事も、私は知っていた筈なのに。……それなののに、社交界が嫌だとか、アンナさんのような森の奥での生活に憧れるだとか、本当に身勝手で世間知らずな発言だったわ。とても恥ずかしいわ。……私に悪意があった訳ではないのよ、アンナさん。ただ、ちょっと、あなたに会って浮かれてしまっていただけなの、どうか許してちょうだい。」

「許すだなんて、クルル様。」


 アンナはクルルの手を自分からそっと握り返して、包み込むような優しい笑みを浮かべた。


「ご領主様やクルル様には、富貴故のお悩みがおありなのでしょう。」


「でも、それは私も同じですわ。貧しい者には貧しい者の喜びと苦しみが、富める者には富める者の喜びと苦しみが、この世にはあるのだと私は思っておりますわ。」


「確かに、あまりに貧しく、今日の食べ物にさえ困り、それが原因で命を落とすような場合は別だとは思いますが……貧富の差や境遇の差はあれど、食べ物があり、寝る所があり、着る物がある、そんな生活の中で、誰も皆自分の人生を生きておりますわ。そして、環境が変われば、尺度もまた変わるものです。同じパン一つとってみても、落胆する者もあれば、涙を流して喜ぶ者も居る事でしょう。たとえ貧しい者であっても、自分の生活の中に喜びを見出す事は可能だと、私は思っておりますわ。逆に、どんなに裕福な方でも、その立場故に苦しみ悩む事もあるのでしょう。……ここ最近、ご領主様にお話を聞かせていただいて、ご領主様はとても苦難の多い人生を歩まれているのだと常々思っておりました。責任のあるお立場のために、ご自分の思うようには生きられない事も多いのでしょう。いつも政に忙殺されていらして、お気の休まる時も少ないのでしょう。どんなにお嫌でも、望まぬ人付き合いにお心を疲弊させる事もおありでしょう。……それに引き比べて、私の今の境遇は、なんと気楽な事でしょうか。滅多に人の立ち入らない森の奥での暮らしは、他人に煩わされる事はありません。多くの人々の平安など考えず、ただ自分と家族が健やかに過ごす事だけを思って生きてゆけますわ。確かに、質素な物を食べ、粗末な服を着て、藁のベッドで眠る、そんな日々ではありますが、そういった貧しい森の中の生活でしか得られないものも、またあるのでございます。」


「自分の生活を他人の生活と比べる事から、羨む気持ちが生まれるのかもしれません。自分より裕福な人と貧しい自分とを見比べて、なんと自分は不幸なのだと嘆いている方が世の中には多いように思います。けれど、実際その裕福な人の立場になったのなら、貧しい時は知らなかった苦労や辛さを知る事になるのではないでしょうか。皆それぞれ、人の数だけ違いがあるのですから、他人と自分を比べる事こそが、既に間違いなのではないかと私は思っております。」


「大切なのは、自分の置かれた境遇の中で、いかに喜びを見つけるかという事ですわ。貧しい生活の中であっても、心を明るく保っていれば、それが松明となって、人生をという道を照らし、その道の上にある喜びという宝物を見つけさせてくれるのだと、私は思っておりますわ。」


 アンナは、花のかんばせに深い悟りを感じさせる静かな笑みを浮かべながら、淡々と語ったが……

 最後に、こうつけ加えた。


「実際、私は、今の暮らしにとても満足しております。……先程、自分の境遇を嘆いているように聞こえてしまったのなら、申し訳ありませんでした。……確かに、不便な事も多く決して豊かとは言えない森の中の生活ではありますが、お兄さんと……兄と二人で、今のように、静かに穏やかに暮らしていける事が、私には何よりも嬉しいのです。以前の私の生活に比べたら、まるで夢のように思える程ですわ。……とても、とても幸せです。……ずっとこうしてお兄さんと二人で平和に暮らしていけたら、それで、私は他に望む事はありませんわ。こんな日がいつまでも続けばいいと、朝目が覚めるたびに心の底からつくづくと思うのです。」


 アンナは、少し寂しげに美しい金の眉をひそめ目線を落として、「もっとも、お兄さんは、兄は、そうは思っていないようですけれども。」と、呟くように言ったのち……

 また、柔らかに笑ってクルルを見つめた。


「本当に、ご領主様やデルク様には感謝しおりますわ。兄に森林管理人という仕事を与えて下さった事、なんとお礼を言っていいのか分かりません。おかげで、私はこうして、兄と二人で日々平和に暮らしていく事が出来ているのですわ。兄と私の今の生活があるのは、全てご領主様のおかげです。……シュメルダは、とても良い所でございますね。名君の誉れ高いご領主様が治めていらっしゃるからこそ、このように安心して暮らしてゆけるのだと、兄共々、大変ありがたく思っております。」


「……」

 クルルは、しばらく言葉を失っていたが、ハッと我に返ると、コクコクと頷いた。


「……そ、そうね、確かに、アンナさんの言う通りだわ! 誰も皆、それぞれ異なった境遇で自分の人生を生きているのよね。その中で、心を明るく保って、幸せに生きいこうとする事こそが大事なのだわ。それは貴族も平民も、誰でも変わらない事よね。他人と比べて自分は不幸だと嘆くのは、不毛で滑稽だわね。私は私の生活で、アンナさんはアンナさんの生活で、良い事も悪い事もある、本当にその通りだわ! だって、生まれや境遇は、どうにもならないものですものね。私も、アンナさんのように、明るい心を忘れずに生きていきたいものだわ。」

「……自分の立場もわきまえず、クルル様に対して恐れ多い事を申し上げてしまいました。心からお詫びいたしますわ。」

「い、いいえいいえ! 私に対して、アンナさんのように本心で語ってくれる人はとても少ないのよ! 私の周りには、私の後ろにあるお兄様やガーライル家の権力と富にあやかろうと、不自然に迎合したり、心にもなく私を褒めちぎったりする人ばかりなの。アンナさんのような事を話してくれる人は、凄く貴重よ! 私に対しては、いつもそういう風に接して欲しいわ。領主の妹だからと言って、変に身構えたり萎縮したりしないでほしいわ。」


 アンナと言葉を交わす内、彼女の内面を少しずつ知って、クルルは内心驚いていた。


(……最初はただ綺麗で大人しい人かと思っていたけれど……こんな女性には会った事がないわ!……)


(……まず、恐ろしい程肝が座っているわ!……普段森の中で人知れず暮らしていて、いきなりこんな華やかな貴族のパーティーに招かれたというのに、緊張している素ぶりがまるでないわ! お兄様や私だけじゃなく、デルクやテレザ、幼いマーカスに対してさえ、きちんと礼節を持って接してはいるけれど、全く肩に力が入っていないわ。普通、初めてこんな所に来たら、右も左も分からずにうろたえてしまうものなのに。それなのにアンナさんは、自然体で、それでいて穏やかで、優しい微笑みを絶やす事がない。お兄様や私と会話していても、一貫して同じ態度だわ。……)


(……ここまでいくと、少し異常だと感じてしまうぐらいね。……)


 クルルは、膝の上に置いていた鳥の羽をあしらった扇子を手に取り、少し開いては閉じるという動きを無意識に繰り返しながら、自分の頭の中を整理していた。


(……そ、それに、なんてしっかりした考えを持っているのかしら! これで私より年下だなんて、とても思えないわ! お兄様のような、学問に精通していてたくさんの本を読んできている、というのとはまた違った頭の良さを感じるわ。……)


(……誰かの意見に流されるでもない、世間で言われている事をそのまま信じて自分の考えのように語るでもない。……この人は、「自分」というものをしっかりと持っているわ。……)


(……かと言って、他人の生き方や考え方を決して否定する事はしない。その根底には、他者への公平さと個性の尊重という姿勢が感じられるわ。どんな人間であろうとも、決して見下したり馬鹿にしたりせず、自分と対等の者として敬意と親愛の情を持って接する。言い換えれば、博愛ね。そんな博愛の心が、息をするように当たり前に、この人の中には根づいているのだわ。……)


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