白い小石 #4
アンナは花のような美しい顔に穏やかな笑みを浮かべて、クルルの話に耳を傾けていた。
クルルは世の女性の多くがそうであるように、お喋りがとても好きだった。
特に気心の知れた友人が相手なら、他愛ない会話で何時間でも楽しく過ごせるような人間だった。
彼女の夫は、実直で誠実で愛情深く彼女の事をとても大切にしてくれていたが、寡黙な性格でいつも聞き役に徹しているばかりだった。
また、男性であり、毎日自分の任されている土地の政で多忙な日々を送っている事もあり、妻であるクルルの細かな好みや興味の移り変わりなどを把握する余裕や器用さはなかった。
そのため、クルルは、優しい夫に感謝しつつも、話し相手としては少々退屈だったのだった。
クルルには親しくしている貴婦人が何人か居るたが、クルルのエキセントリックな性格もあって、なかなか気の合う人間が居なかった。
「私ね、嘘やおべっかが大嫌いなの。夫に言うと、社交界ではそういうものもある程度必要だって言われたわ。確かにそうね。ああいう場所は、嘘や虚像を使ってでも自分を塗り固めて、いかに他人より自分が優れているかを見せようとする所ですものね。……お金、権力、美的センス、自分の容姿や頭の良さ、なんでもいいの、とにかく人より上に居るって思わせないと駄目なの。そして、『凄いわ』『素敵ね』『さすがですわ』って、なるべくたくさんの人から賞賛を浴びた人間が勝者なのよ。そう、貴族達は、みんな、そうやって煌びやかで上品な戦いをしているの。綺麗な笑顔を取り繕いながら、心の中では絶対に負けるもんかって、毎日必死に頑張っているのよ。……フフ、馬鹿みたい。」
「私はこれでも、『お転婆姫』なんてあだ名をつけられていた子供の頃に比べたら、ずっと貴婦人らしくなったのよ。……ホント、小さな頃は、使用人の子供達に混じって、毎日泥だらけになって遊んでいたのよ、フフ。木登りだって、川遊びだって、大好きだったわ! ある時なんて、庭から捕まえてきたミミズを百匹以上瓶の中に溜め込んで、ベッドの下に隠していた、なんて事もあったわ。そんな幼い私のお宝に気づいたお兄様は、真っ青になっていたわね。ウフフ、あの時のお兄様の顔ったら!……でも、そんな私も、今ではこうして一応パーティーを主催出来るようになったのよ。貴族の妻として、屋敷の中の事を取り計らったり、社交のための夜会や茶会の準備、自分も他のお屋敷で開かれる催しに出向いたり、なんていうのは必須技能ですもの。そのための、礼儀作法やダンスの技術、基本的な教養にはじまって、お料理や飾りつけ、調度品などの知識、時流を捉えた巧みな話術、いろいろ厳しく叩き込まれたわ。子供の頃は、お勉強の時間が嫌で嫌で、いつも逃げ出したくてたまらなかったの。実際、何度も家庭教師の隙をついて窓から逃げ出したんだけれどもね、ウフフ。でも、今となっては、そうやってしっかりと教育を施してくれてた事を感謝しているわ。今こうして曲がりなりにも貴族の妻としてやれていけるのは、じゃじゃ馬だった私を根気良く勉強させてくれた、亡きお父様とお兄様のおかげね。ああ、それから、口うるさくって大っ嫌いだった家庭教師のオールドミスにも感謝しなくっちゃね。」
「でも、正直、今でも社交界は好きじゃないわ。……私ね、子供の頃から勘がいいの。勘の良さに関してだけは、あの完全無比なお兄様より優れているって自負しているわ。お兄様もそう認めてくれているのよ。……そう、だからね、嘘をついたりおべっかを使うような人が、殊更鼻につくのよ。顔は笑って耳障りのいい言葉を吐いているけれど、お腹の中は真っ黒で何を考えているのか分からない、みたいなね。社交界はそういう人がとても多いから、寄ってくる人間を一々まともに相手していたら、疲れてヘトヘトになるのよ。なんて言うのかしら、そういう人と付き合うと、汚泥を浴びせられているようなとても不快な気持ちになるのよね。……だから、まあ、貴族社会のお付き合いは最低限必要な時だけにして、後は好きにさせてもらっているの。お兄様も夫も、それでいいと言ってくれているわ。お兄様も、裏表のある人間関係や、形骸化して中身のない、貴族の権威を保つためだけにあるような社交界はお嫌いだから、私の気持ちを良く分かってくれているわ。」
「ねえ! そんな事より、アンはさんは今、お兄さんと二人で森の奥の小さな小屋で暮らしているのですってね! 私はお兄様からお話を聞いただけだけれど、とても素敵ね! 木で出来たお家には、小さなキッチンと暖炉があって、家のそばには野菜を育てる畑があって。お水は家のそばの小さな泉から汲んでくるんでしょう? 森で取れる木の実や香草をお料理に使うのよね! 朝は小鳥の囀りで目覚めて、夜はフクロウの声が森に響き渡るのを聞きながら眠るの。……子供の頃に読んだ物語に、そんな森の中の小さな家が出てきたのよ。私、それがとっても好きで、何度も同じお話を読んでって乳母にお願いしたぐらいよ。お兄様にもね、森に行く時は私も連れて行ってっていつも頼んでいたわ。でも、お兄様ったら、私は女の子で貴族の令嬢なんだからって、一度も許してくれなかったのよ。……ああ、私も今度、アンナさんの住んでいる家に行ってみたいわ!」
「お恐れながら、クルル様。」
それまで、柔らかな笑顔を浮かべてクルルの話に耳を傾けていたアンナは、薄く紅を引いた唇をゆっくりと開いた。
「私は、今確かに、森の奥の小さな小屋で兄と二人きりで暮らしておりますわ。ですが、それは、クルル様が思っていらっしゃるような物語の中の素敵な生活ではないかもしれませんわ。」
「森の奥の家にゆくには、長く険しい山道を歩いていかねばなりません。今日も私はこのお屋敷に来るために、朝、日の昇る前に起き出してずっと山道を歩いてきました。普段から森で狩をして働いている兄が付き添ってくれなければ、とても一人では里まで降りてこれなかった事でしょう。そこからは、ご領主様が馬車をご用意して下さったので、快適にここまでやって来る事が出来ました。」
「森の中の生活では、贅沢な食べ物を口にする機会はまずありません。保存のきく固いパンを、時々兄が狩った獲物と里で交換しきてくれるので、それを少しずつ大事に食べて、同じように交換して持ってきてくれた玉ねぎやジャガイモをスープにして。確かに新鮮な木苺が取れる事もありますし、湧き水の泉は清らかですわ。でも、このお屋敷や里には大きな井戸が作られていて、いつでも美味しい水を汲む事が出来ますわ。それに、こちらのお屋敷には、大きな果樹園から様々な果物が運ばれてきているのだと思います。果樹園で人の手を掛けて大切に育てられた果物は、森の中に生えている野生の木の実とは比べ物にならないぐらい立派で美味しいものですわ。」
「それに、森の夜はとても危険なものです。木で出来た小さな小屋とはいえ、あの家が眠っている私を守ってくれていなかったら、きっと私は何日も生きてはいられない事でしょう。狩人の兄も、家の周りを定期的に見回って、山犬や狼が近づかないよう気を配ってくれていますわ。兄は、森の中を歩いている時に何度か大きな熊やその足跡を見たとも言っておりました。だから、私は、日中も小屋から離れず、何かあったらすぐに小屋の中に入って鍵を掛けるようにと兄に言われております。……ご領主様がクルル様を心配なさって、決して森に連れて行こうとなさらなかったのも、良く分かりますわ。」
「私はこのシュメルダ地方に来てまだ日が浅いのですが、こちらの夏は、大変美しいですわね。草木は一斉に生い茂り、色とりどりの花が咲き、平地に比べるとカラリとして湿度の少ない冷涼な気候で、とても過ごしやすいと感じました。……ですが、それも夏という一つの季節のみの話でございましょう。季節は、他にも、春、秋、そして冬とございます。シュメルダの冬は、長く厳しいものだと聞き及んでおります。夏が涼しく過ごしやすい分、冬が長く辛いのは世の道理ですわ。冬ともなれば、草は枯れ、木々は葉を落とし、木の実や農作物などの食べ物もなくなる事でしょう。人々は、その長い冬を、大事に蓄えていた食物を少しずつ食べて乗り越える他ありません。……また、今は快適な森の小屋も、寒さに襲われ、藁の上にシーツを掛けただけの粗末なベッドで眠る冬は、いくら暖炉の火を焚いたところで、とても心地良いとは言い難いものにものになるに違いありません。」
「私には、立派なお屋敷に住まわれて、毎日美味しいお料理を召し上がり、柔らかなベッドでお休みになられえているクルル様は、とても素晴らしい暮らしをなさっているように思われますわ。立派なご領主様や、お優しい旦那様、それに、とてもお可愛らしいお子様に囲まれて、この世の誰もが羨む程の幸せの中にいらっしゃるように見えますわ。」
「……まあ、まあ! アンナさん!」
穏やかな口調で、しかし明確に詳細に語られるアンナの話にジッと耳を傾けていたクルルは、申し訳なさげに顔を歪め、思わずアンナの手を取った。
「ご、ごめんなさいね、私ったら! 森の奥で暮らすアンナさんの実際の生活の大変さを知らずに、ずいぶん子供っぽくて夢見がちな事を言ってしまったわね! 許してちょうだいね!」