白い小石 #3
「お兄様ったら、まったくしょうがないわね、こんな素敵な女性を放って難しいお仕事の話だなんて。せっかくの楽しいパーティーが台無しですわよね。」
キースが家令と共に立ち去るのを見送った後、クルルは腰に片手を当てて不満げにそう漏らしたが……
薄緑色のドレスのスカートの前に手を重ねて静かに立っていたアンナが、キースを擁護した。
「ご領主様は、重要な責務のあるお方ですわ。こんなふうに、いつもご自分の時間を犠牲にして領主としての役割を果たしておいでなのですね。とてもご立派ですわ。ご領主様が素晴らしいお方で、一領民としても大変ありがたく思っております。」
クルルは、アンナの平民とは思えないしっかりととした受け答えに少し驚いて目を見張ったが……
すぐに、じゃれるようにアンナの腕に自分の腕を絡ませて笑った。
「アンナさんは、物分かりの良い方なのね。」
「確かに、お兄様は、この地の領主として毎日忙しく立ち働いていらっしゃるわ。妹の私でさえ、ゆっくりお話しする機会がなかなか見つからない程なのよ。これでも、今は、このシュメルダに毎年恒例の避暑に来ていて、夏季休養中の身なのよ。領都に帰ったら、それこそ仕事の鬼だわ。」
「私の夫も、ガーライル領のある地域の政を任されているのだけれど、お兄様程ではないにしても、毎日仕事仕事で、私や息子のマーカスとは食事の時ぐらいしか話をする暇がないのよ。」
「真面目なお方なのですね。ご領主様やクルル様の旦那様のような上に立つ方が真摯に政を行なって下さっているおかげで、私のような多くの民の生活が守られているのですわね。とても大切なお仕事だと思いますわ。」
「ま、まあ、そうね。私も、お兄様や夫の立場上、多忙なのは仕方のない事だと思っているわ。……でも、妹や妻という家族としてはね、やはり寂しいと思ってしまう所もあるのよ。」
「……クルル様……」
「まあ、殿方には殿方の役目を頑張ってもらう他ないのよね。女の役目は、そんな殿方に余計な口出しせず、仕事の邪魔にならないように静かにしている事だわ。」
「あら、でも、静かにしていると言っても、部屋に引きこもってジッとしているという意味ではないのよ。女の私達は、私達なりに、殿方に頼らない楽しい事を見つけて、毎日活き活きと過ごすべきだと私は思っているの。そう、仕事仕事と忙しい殿方は放っておいて、私達だけで楽しむのよ。」
「私も、クルル様ご自身が毎日楽しく過ごされるのが何よりだと思いますわ。きっとそんなあなた様の笑顔こそが、政務でお疲れになったクルル様の旦那様のお心を癒す一番の薬なのでございましょう。」
「フフ、アンナさんは、本当に、殿方の仕事に理解のある方ね。」
「お兄様がね、あなたの事を、とても賢い方だとおっしゃっていたの。」
「でも、私、すぐには信じられなくて。ごめんなさいね。だって、貴族の令嬢のように子供の頃から何人もの家庭教師に囲まれて社交界に必要な礼儀作法や教養を叩き込まれたり、といった経験はないのでしょう?……でも、実際にアンナさんと話してみて、お兄様の言っていた事が良く分かったわ。」
「貴族社会の慣習に明るいとか歴史や文化の知識が豊富だとか、そういうものとは全く関係ないのだわ。……アンナさん、あなたはとても頭の良い人ね。そして、他人の立場を冷静に理解して思いやる事の出来る方ね。」
「フフ、ホッとしたわ。アンナさんなら、お兄様を安心して預けられそうですわね。いつもいろいろ文句ばかり言っているけれど、お兄様は私にとって大事な家族で、自慢の兄なのよ。特にほら、お兄様は……お顔が綺麗でしょう? 私、面食いなの、ウフフ。」
「まあ!……でも、確かに、ご領主様は大変お美しい方ですわね。」
「あらあら、アンナさんこそ、こんなに美しい女性は、私初めて見ましたわよ!」
「ええ、本当に、お兄様とアンナさんは、とてもお似合いよ! 二人とも見目麗しいだけではなくて、聡明で思慮深くて、きっとお互いを深く分かり合える良い関係になれると思うわ!……ああ、大丈夫よ、貴族のしきたりや礼儀作法なんて、アンナさんの頭の良さなら、あっという間に覚えられるわよ。」
「……ありがとうございます。」
もう、アンナがキースの側室になると決まったような口調で話すクルルを前に、アンナは少し困惑したように金色の眉尻を下げながらも、柔らかな笑顔で当たり障りのない受け答えをしていた。
□
「立ち話もなんですわ」と、クルルに促されて、アンナは庭の大樹の木陰へと移動した。
ガーライル家のシュメルダの別荘の前庭には、門を入って建物へ向かう方向に石畳の広い道が真っ直ぐに通じており、その両脇に年月を感じさせる大木が並木のように何本も立っている。
その内の一本の、傘のように開いて夏の日差しを遮る梢の下を借りて、クルルとアンナは椅子に腰掛けた。
椅子は、休憩用に置かれていたものを二つ、使用人に言ってクルルの希望する位置に動かしてもらったものだった。
辺りには、前庭の中央で行われているダンスに参加していない者達がポツポツと立っていたり芝に腰を下ろしていたりする姿が見える。
天幕の下で配られている料理を味わって一通り腹が膨れたので、飲み物を片手にゆっくり歓談しようという雰囲気だった。
彼らの中には、特に女性陣には、今は嫁いで家門こそ変わっているが、ガーライル辺境伯の妹であるクルルと親しくなりたくてチラチラとこちらを見ている者が何人か居た。
実際、クルルは嫁いだと言っても、嫁ぎ先の家門ごとガーライル辺境伯の傘下に入ってようなものであり、彼女の夫はキースの下で広大な辺境伯領の一地方の治世を任されている状態だった。
クルル本人と、と言うよりは、絶大な力と富を持つガーラル家を後ろ盾に持つ貴族の夫人に、憧れや損得勘定から近づきたがる者は多かった。
もっとも、クルルは、政治に関わりのない立場の女性であり、嫁いで他の家門に入っている状態なので、これで済んでいるとも言える。
これが、富と権力の持ち主本人であるガーライル辺境伯キースともなると、寄ってくる者は有象無象後を絶たず、キースの悩みの種の一つとなっていた。
クルルは、自分に向けられる憧れや下心のこもった眼差しを全く気にしていなかった。
ガーライル家に生まれ育ち、一応は社交界にも顔を出して、今は良き伴侶を得て夫人となっている身としては、もう出向いた先で無駄に人の注目を浴びるのには慣れっこといった所だった。
これでも、嫁ぐまでは、年の離れた兄のキースが過保護な程心配して彼女を世間の荒波から守っていてくれたものだ。
そして、結婚してからは、彼女の夫が、クルルの個性と共に彼女を宝のごとく大切にしてくれており、クルルは物質的にも精神的にも豊かな何不自由ない生活を送る事が出来ていた。
もっとも、クルル本人は、生来の気質に加え、自由な家風の貴族の令嬢として怖いもの知らずで育ってきた事で、自分の興味関心のない周囲の人間が自分をどう思っていようと、陰で何を噂していようと、どこ吹く風といった態度であったが。
クルルが静かな木陰に椅子を置いてアンナと二人きりで話をしようという様子を見せた事で、彼女に近づきたいと思っている者達も遠慮してなかなか寄ってはこれない様子だった。
ただ一人、例外として、クルルとアンナが椅子を置いて話をしているそばの芝生の上には、五歳になるクルルの息子のマーカスの姿があった。
幼い子供ではあるが、騒いだり走り回ったり頻繁に母親であるクルルに話し掛けてきたりという事は一切なかった。
ただ内気で人見知りをするらしく、見知らぬ人間が多く居るパーティー会場で、自分から誰かに近寄っていったりはせず、ずっと母親であるクルルの後ろを静かについて回っていた。
クルルと二人で話をする段になって、アンナは、腰を曲げて幼いマーカスに視線を合わせ、にっこりと微笑み、改めて挨拶をした。
「しばらくお母様とお話しさせていただきますね、クルル様のご子息様。」
「マーカスでいいわよ、アンナさん。」
「では、マーカス様とお呼びしてもよろしいでしょうか? どうか、私の事は『アンナ』と気軽にお呼び下さいませね、マーカス様。」
マーカスは、アンナを含む森林管理人の一行が到着した際にもクルルのそばに居たため、アンナと顔を合わせてはいたが……
やはり、まだ見慣れぬ人物である事と、アンナがこの世の人間ではないような美貌を持つ女性だった事から、酷く緊張しているらしく、赤い顔でうつむき、小さくコクリと頷くのみだった。
「この子ったら、初めて会った人にはいつもこんな感じなのよ。嫌がってる訳ではないの。気分を悪くしないでね、アンナさん。……まったく、誰に似たのかしら? 少なくとも私ではないわね。」
「気分を悪くするだなんて、そんな。……とてもお可愛らしくて、聡明そうなお子様でございますね。甥御様だけあってご領主様に良く似ていらっしゃいますわ。」
「ああ、そうね。マーカスは、お兄様に似て顔立ちが整っていて良かったわ! でも、性格は全然似ていないのよね。」
クルルはそう言っていたが、アンナはマーカスを微笑ましそうに見つめていた。
キースに良く似た赤い髪は、一族に良く現れる特徴なのだろう、マーカスもクルルも赤い髪をしていた。
しかし、マーカスは、緋色の巻き毛で端正な顔立ちではあったが、武人らしい鋭さも感じさせるキースとは違い、とても繊細な雰囲気を持っていた。
キースの猛禽類を思わせる強い輝きで射抜いてくるような金色の瞳に対して、マーカスの茶色の瞳は、雨上がりの大地のような穏やかな優しさを感じさせた。
アンナが、まだ幼いマーカスに対し、慈しむような笑みを浮かべているのを見て、クルルは好ましく感じていた。
(……アンナさんは、子供が好きそうね。幼いマーカスにもとても優しく話し掛けているし、これなら、将来的にお兄様との間に世継ぎも期待出来そうだわ。まあ、世継ぎの問題より何より、お兄様とアンナさんが仲良く幸せに暮らす事が大事なのだけれど。……)
アンナはマーカスにも椅子を用意すべきかと気を使ったが、マーカスが「僕は芝生の上がいい」と言うので、彼の意見をくむ結果となった。
アンナとクルルはドレスを着ており、特にクルルの方は一応このパーティーの主役として華やかな良いドレスを身につけていた事から、形を崩さぬよう椅子の上に座るのが望ましかった。
一方でマーカスは、前庭に用意されていた椅子は子供が座るには大き過ぎるもので、また、彼は、胸に抱えていた大きな本を読もうとしていたために、椅子の上ではバランスが取りにくかったのだろう。
良く手入れが行き届き青々と茂った芝生の上に両足を伸ばして座り、大切そうにずっと持ち歩いていた本を開いていた。
そんなマーカスの様子を見届けると、アンナは視線をクルルに戻した。