白い小石 #2
(……アンナは確かに私に対して親しげに笑いかけてくれる。……)
(……その笑顔に嘘はない。……それは、仮にも十年以上ガーライルの領主として、腹に一物も二物もある貴族達相手にしてきた私には分かる事だ。心に偽りのある者の笑顔は、どこかが歪んで感じられたり、違和感を覚えたりするものだ。しかし、アンナの笑顔にはそれがない。彼女の本心からの笑顔だという事に間違いはない。……)
(……ただ、問題は……アンナは誰に対しても、嘘偽りのない親しみのこもった笑顔を向けているという事だ。……そう、私だけではない。クルルにも、デルクにも、テレザにも、給仕をしてくれた使用人達にも。……)
(……例外は、兄のイヴァンぐらいか。……イヴァンは、アンナの血の繋がったただ一人の家族であり、戦災の中、身を呈して彼女を助けてここまで連れてきた人間だ。アンナがイヴァンに非常に厚い信頼を寄せているのも納得出来る。アンナはイヴァンの前では、まるで無邪気な少女のように嬉しそうに微笑んで彼を見ている。……まあ、兄のイヴァンは仕方ないにしても……)
(……私に対するアンナの気持ちは一体どういう種類のものなのだろうか?……クルルやデルク一家をはじめとした彼女の周囲の人間と同程度の親愛の情なのか? いや、そうは思いたくなものだが。……)
(……アンナは、いつも私が話しかけると笑顔で答えてくれるし、今日も二人で料理を食べたり絵を見たりしながら、楽しく話が弾んでいた。こうしてずっと二人でダンスを踊っていても、不満な様子は全く見て取れないどころか、とても楽しそうに笑ってくれている。……)
(……私は、アンナにとって、その他大勢の人間と同じではなく、特別な存在だと信じたい。アンナが、私に異性として好感を抱いてくれていると。……だが……)
(……どうにも確信が持てない。……いや、確信が持てないというのは言い訳か。私に自信がないだけなのだ。……)
(……本来なら、とうに私から彼女に気持ちを打ち明けているべきなのだろう。少なくともデルクならそうしているな。こいう時に男の方からはっきりと言わなくてどうするというのだ。……アンナが私に異性としての好意を抱いていてくれていたとして、彼女から告白してくるのを待つというのは、あまりにも消極的過ぎる。どこか卑怯な気さえする。それに、私とアンナの身分の差を考えれば、アンナが自分から私に想いを告げるのをためらうのは、容易に想像がつく事だ。……)
(……おそらく、アンナは、私が気持ちを伝えれば、頷いてくれるだろうとは感じている。彼女はきっと私の気持ちを受け入れてくれるだろう。……)
(……しかし、それは、私がガーライル領の領主という立場になくても得られる結果なのかどうか?……私は、アンナの、正確にはアンナの兄イヴァンの雇い主であり、二人の暮らす土地の領主だ。兄が森林管理人として私に雇われ生計を立てている身の上として、また一領民の立場として、領主である私からの申し出は、たとえ気持ちに反していたとしても断る事は出来ないものだろう。……そういう忖度は、私の望む所のものではない。……)
(……私は、ただ……アンナの本当の心が欲しいのだ。……)
(……嘘偽りなく、私の身分や立場に関係なく、ただ一人の男として、アンナに好いてもらいたいのだ。……)
キースはアンナとダンスを踊りながら、内心必死に彼女の心を探っていた。
しかし、花のように美しく微笑むアンナの本心をどうにもはかりかねて、最後の一押しの確信が持てずに、未だ彼女の良き友人の立場から一歩踏み出せないままだった。
(アンナよりも十歳以上年上の、もう三十六にもなるいい大人の男が情けない)と自分でも思っていた。
ただ、アンナと身近に接する事は、今まで女性と恋愛感情を持って接してこなかったキースにとっては、めくるめく感動と喜びに満ちていた。
アンナの笑顔は、キースの見る世界を光で輝かせ、言葉や声色は、キースの胸を締めつけ、匂いや触れた手や華奢な体の感触は、キースの鼓動を高鳴らせた。
今この時だけは、自分の立場も、領主として山積する問題も、妻との不仲も、己の抱える憂いを皆忘れ去って……
ただ、目の前の美しく魅力的な女性の事だけを感じていたかった。
アンナが、自分の世界の全てであるかのように。
(……ずっとこうしていたい。……アンナのそばで、彼女を見つめ、彼女の存在を感じていたい。……)
(……誰にも、彼女を渡したくない。……この腕の檻の中に、この世にも美しい蝶を優しく捉えてしまいたい。二度と離れぬように、逃さぬように。……彼女にも、自分だけを見つめていて欲しい。彼女を私だけのものにしたい。……)
□
その後、キースは時折休憩を挟みながらも、アンナと五曲程踊った。
キースは目の前のアンナばかりを気にしていたため気づかなかったが、美男美女のペアで、片方はこの地の領主であるガーライル辺境伯であり、当然人々の注目を集めていた。
キースは決して目立とうといつもりもなく、領主たる自分は中央で踊るべしとの考えもなかったが、人々が二人に場所を開けるため、結果的にダンスの輪の中心で多くの招待客の視線を浴びながら踊る事となった。
二人が踊りに慣れてきた頃合いを見てとってクルルが楽団に指示を出したのだろう、途中で曲はワルツからもっとテンポの速い四拍子のものに変わり、戸惑いを見せるアンナをキースは微笑ましげに巧みにリードした。
そんなキースのリードの上手さもあってか、アンナはみるみる上達し、二人は周囲の者達が、二人の容姿も含め見惚れる程のダンスを披露したが……
いたずら好きのクルルが、突然キースさえも良く知らないこのシュメルダ地方独特の非常に速い曲を挟んできたため、二人とも慌てふためく事となった。
「ハハ、今の所は回るのだったかな? すっかり間違えてしまった!」
「ウフフ、私もですわ! でも、これはこれでとても楽しいですわね!」
二人は、思いがけないメロディーやリズムが飛び出してくる独特な楽曲に、とっさに即興でステップを合わせながら笑い合った。
ゆったりとした優雅な曲もムードがあって良いものだが、まるでクイズを解くような素早くトリッキーな曲も、ステップを失敗するとそれさえも笑いとなり、目まぐるしく楽しい雰囲気を盛り上げてくれた。
「ハァ、ようやく終わったか。とんだ選曲をしたものだな、クルルのヤツめ。次はもっとゆっくりした曲を頼みたいものだな。」
「フフ、でも、楽しかったですわ!……私は情けなくも息が切れてしまいましたけれど、ご領主様は、あれだけ動かれても汗一つおかきにならずに、ご立派ですわね。」
「ハハ、これでも武人の端くれだからね。それに、アンナに良い所を見せたかったのだ。……うん、少し日陰で休もう、アンナ。疲れただろう?」
「お気遣いありがとうございます、ご領主様。」
キースがアンナの手を引いて、天幕の下で料理や飲みものを配っている場所へと移動しようとしていた時だった。
この屋敷の家令の一人が慌ただしくキースの元に駆け寄ってきた。
中年の男は、今日のパーティーにおいて門のそばで私設警備の兵と共に招待客のチェックを行なっていた者だった。
「旦那様。お客様がいらっしゃいました。」
「招待状を送った方は、既に大体いらっしゃっていたと思うが。」
「そ、それが、そのお方は招待状は持っておられませんでした。たまたま旦那様に会いにいらっしゃった所、パーティーを開かれていたの知って、大変驚かれていました。」
「今日のパーティーを知らなかった? 招待客ではないのか。一体どういう事だ?」
せっかくアンナと楽しくダンスを楽しんでいた所を、家令の登場によって興が削がれ、緋色の眉を少ししかめていたキースだったが……
どうやら不測の事態が起こり家令だけでは判断がつきかねてキースに報告に来たらしい事を知って、ガーライル領主としての真剣な表情に変わっていた。
「アンナ、すまない。急ぎの用事が出来てしまった。少し席を外さなければならない。」
「分かりましたわ、ご領主様。どうか私の事はお気になさらず。」
「いや、そういう訳にもいかない。私の居ない間、君を一人にしておく訳には……」
「お兄様、どうかなさったの?」
家令が駆けつけきた事で、キースが何やら険しい顔をしているのに気づいたクルルが、ドレスの裾を摘んで小走りに寄ってきた。
辺りに何事もなかったように音楽が流れているのを見ると、楽団のそばを離れる折に「適切に」と指示を出してきたらしかった。
「ああ、クルル、いい所に来てくれた。実は、火急の用事で私はしばらくこの場を離れなければならなくなったのだ。その間、クルル、お前がアンナのそばに居てやってくれないだろうか?」
「あら! こんな日にお仕事ですの?……まあ、仕方ありませんわね。ちょうど私もアンナさんとお話ししたいと思っていた所でしたわ。喜んでお引き受けしますわ。」
「すまない。では、行ってくる。なるべく早めにすませて戻ってくるつもりだ。それまで、アンナを頼む。」
「分かりましたわ。」
少し心配そうな表情で、胸の前で手を重ねて二人を見つめているアンナをよそに、キースとクルルの兄弟は迅速に対応を決めていた。
「では、すまないな、アンナ。すぐに戻るから、クルルとお喋りでもして少しだけ待っていてくれ。」
「分かりました、ご領主様。」
アンナは短く一礼し、キースはそんなアンナに優しい笑顔を残した後……
きびすを返し、「客人を私の執務室に案内してくれ」と言いながら足早に家令と去っていった。