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緋と金と灰  作者: 綾里悠
<緋の章>
105/166

白い小石 #1



「……お兄さん?」


 そう呟いて、アンナが視線を逸らしたのは、二曲目のワルツも終わりに近づいた頃の事だった。


 おそらくダンスなどほとんど踊った事のないアンナに気を使って、クルルは、最初の一曲目はシンプルなメロディーかつゆったりとしたテンポの曲を選んでいた。

 二曲目は、もう一度同じ曲が繰り返されていた。


 それまで、キースとのダンスに集中していたアンナが、不意に注意を他に向けたので、ダンスが崩れるかとキースは心配したが……

 アンナは人ごみに視線を向けつつも、ほぼ無意識に足はワルツのステップを踏んでおり、動きは綺麗に保たれていた。


「……アンナ?」

「あ!……も、申し訳ございません、ご領主様。一瞬お兄さんと目が会った気がして。」


 キースは、アンナと組んで踊り続けながら、彼女の視線を追ったが、そこにはアンナの兄であるイヴァンの姿は見つからなかった。

 アンナも一瞬捉えただけだったらしく、彼が見えた辺りをしばらく見つめていたが、ふうっと寂しげに息を吐いて、再びキースに向き直った。


「イヴァンも誰かと踊っていたのかい?」

「い、いいえ。お兄さんは、好んでダンスを踊るような人ではありません。昔から人が多い場所や賑やかな場所があまり好きではないらしくて。」

「なるほど。」


 少し悲しげな表情で語ったアンナの言葉に、キースは、寡黙であまり人と交流しないイヴァンの様子を頭の中で思い描いて納得していた。

 イヴァンは、このハンズリーク王国ガーライル領シュメルダの土地に来てからと言うもの、森林管理人の仕事に就いて森の奥の小さな小屋に妹のアンナと二人でひっそりと暮らしていた。

 それは、絶世の美貌の持ち主である自分の妹を良からぬ輩から守るため、という理由だったのだろうが、元々あまり人との交流を好まないイヴァンにとっては、そんな世捨て人のような暮らしも苦にならなかったのかもしれない、とキースは思った。


 目の前のアンナに夢中になり過ぎて、彼女の兄のイヴァンをはじめ、森林管理人の里長であるデルクが率いてきた里の者達がどうしているか、この時まで考えずにいたキースだった。

 森林管理人の里の男達は、女子供をパーティーの行われている前庭に残して、土産に持ってきた彼らの狩の収穫物である動物や魚を屋敷の厨房へ運んでいたようだったが……

 今現在は、パーティーの人の群れに加わって、料理やダンスを楽しんでいる様子だった。

 こんな時は人一倍盛り上がってダンスを踊りたがるであろうデルクも、今回は妻のテレザが臨月であるため、彼女のかたわらに付き添って、取り分けた料理や飲み物をかいがいしくテレザに手渡していた。

 長男は、歳の近い少年達と豪華な料理を食べたり、庭のあちこちを探検してみたりと、もうその歳でデルクの息子らしくリーダーシップを発揮しているようだった。

 次男は、内気な事もあり、見知らぬ場所ではまだ両親のそばを離れようとしなかった。

 長女は、テレザが熱心に勧めたらしく、小綺麗な衣装を着た招待客の若い男とダンスを踊っている。

 お互い初対面の異性と話したりダンスを踊ったりといった事には慣れないらしく、二人ともぎこちなく、実に初々しい雰囲気だった。


 しかし、やはりイヴァンの姿はどこにもなかった。

 森林管理人の里の者達は、大体ひとかたまりになっているようだったが、その中にイヴァンは見当たらない。


「イヴァンの姿が見えないようだが、どこに行ったのだろうか? 彼も楽しんでくれていると良いのだが。」

「ご心配をおかけして申し訳ありませんわ、ご領主様。……兄はそういう人なのです。すぐにどこかに姿を隠してしまうのです。でも……」


「肝心な時には、いつの間にかそばに居て、必ず私を助けてくれる、そういう人なのです。」


 アンナが悟ったようにそう言った時、ちょうど流れていた曲が終わった。

 アンナは、キースから体を離すと、三歩後ずさり、ドレスの裾を両手の指先で摘んで深々と頭を下げた。



「お兄様、ダンスは腕の見せ所ですわよ! いえ、ダンスなのだから、足の見せ所と言った方がいいかもしれませんわね!」


 昨晩、妹のクルルに懇懇と語り聞かされたのをキースは思い出していた。

 翌日はパーティーがあるので、早めに体を休めたかったのだが、朝から誰よりもパタパタと動き回っていた筈のクルルは興奮して神経が高ぶっているのか、夜になっても目を爛々と輝かせており、談話室でくつろいでいるキースをなかなか自室に返してくれなかった。


「アンナさんは、きっとこれまでほとんどダンスを踊った事がない筈よ! そこでお兄様の出番すわ! お兄様は、ダンスの練習は幼い頃から専門の教師についてしっかりと教わっているのですものね、息をするぐらい簡単な事でしょう? そんなお兄様の華麗なステップで、困っているアンナさんを颯爽とリードして、頼れる所を印象づけるのですわ!……窮している時に助けてくれた殿方は、普段より何倍も頼もしく素敵に見えるものです! 千年も昔から、そうと相場が決まっておりますわ!」

「確かに、国境警備の兵達の間でも病に伏せっている所を見舞われたのがきっかけで恋仲になった、という話は良く聞くな。心や体が弱っている時に親切にされると、相手がいつも以上に良く見えてしまうという心理的な働きだな。」

「そう! まさにそういう感じですわ!……とにかく、どうしたらいいのか戸惑っているアンナさんをしっかりとリードすれば、アンナさんがお兄様をますます好きになる事請け合いでしてよ!」


「私は、お兄様とアンナさんがいい雰囲気になれるように、精一杯裏方として尽力いたしますわ! 明日は、大船に乗った気持ちで私にお任せ下さいませね!」

「分かった分かった。お前の言う通りにしよう。」


 自信満々といった様子で胸を反らすクルルの姿を前に、キースは苦笑いしたが……

 実際の所、女性と恋仲になった経験のないキースは、アンナとどうやって距離を縮めたものか分からず途方に暮れている所だったので、大船に乗るというよりもむしろ渡りに船、いや、藁をも掴む気持ちだった。


(……それにしても、我が妹ながら、こういう時の行動力はいろいろな意味で驚かされる。……)


 クルルが男女の恋愛に精通しているかというとそんな事はなく、見合いの相手がたまたま良い人物で、すんなりと結婚し、大きな問題もなく幸せな家庭を築いているだけであった。

 クルルは、使用人の子供達と泥だらけになって夢中で遊んでいた少女時代は異性に興味などなく、年頃になっても疎い方であったように思われるのだが……

 それでも夫婦関係は至って円満であるので、自分よりは何倍も立派だとキースは言わざるを得なかった。


 「兄の恋の橋渡し」という目的で動いている筈のクルルが、まるで子供の頃いたずらを企んでいた時のような気配を漂わせているのは、不安な要素ではあった。

 クルルがまだ子供の頃、夜中に流れ星を見るためにこっそり屋敷から抜け出す手助けをしてほしいと頼まれた時は、心底困り果てたキースだったが、今となってはそれも良い思い出だった。

 ちなみに、キースは、歳の離れた妹の頼みを断りきれず、夜中に二人で屋敷を抜け出しては、結果屋敷中を引っくり返す程の大騒ぎを起こし、温和な父に珍しくこっぴどく叱られたのだったが。



(……果たして、クルルの策が功を奏しているものかどうか。……)


 キースは、ワルツを二曲踊ったのち、少し休憩をとろうとアンナの手を引いて、天幕を張った場所へと移動した。

 汲んだばかりの冷たい井戸水に香草とフルーツで香りづけをした飲み物を配っていた使用人からカップを受け取って、アンナに手渡す。

 キース自身は、ガーライル領の領主のかたわら国境騎士団の団長をしている優秀な武人でもあるので、ゆっくりとしたテンポのワルツを二曲踊った程度では疲れなどまるでなかったが、アンナは違う。

 軽く息が上がり、額にはうっすらと汗が浮いていた。

 「ありがとうございます」と、銀のカップを受け取って冷水を口に運ぶアンナの様子を、キースは金色の目を細めてジッと見つめた。


 今まで森の奥のアンナと兄のイヴァンが住む小屋を訪ねていた時には、こんな風に体を動かして息を切らしているアンナの姿を見る事はなかった。

 乱れた髪をそっと撫でつけ、ドレスの裾を整えながら、アンナは水を美味しそうに飲んでいた。

 その仕草は、貴族の礼儀作法を知らない平民の娘ながら、下品な雰囲気はまるでなく、むしろ上品で綺麗なものだったのだが……

 大きく開いたドレスの胸元で少し汗ばんだ白い肌が速い呼吸に合わせて上下する様も、運動の後で僅かに濃くなった彼女の甘い体臭も、水を飲み干す華奢な喉の動きも……

 全てが魅惑的で、元々の彼女の美貌と相まって、キースは目がくらむような感覚を覚えていた。


「アンナ、ダンスは楽しいかい?」

「はい、とても。音楽に合わせて体を動かすのは、素敵な事ですわ。……でも、私の拙い足運びでご領主様にご迷惑をお掛けしてはいないかとずっと気になっておりました。」

「そんな心配は無用だ。アンナはもう充分にワルツを踊れているよ。それに今日はくだけた席だ。アンナよりも不得手な者もたくさん平気で踊っている。これからも、巧拙はあまり気にせず思い切りダンスを楽しむといい。私も、こうしてアンナと共に踊るのはとても楽しいよ。」

「ありがとうございます、ご領主様。」


 アンナを気遣ったキースの言葉と笑顔に、アンナは彼の目を真っ直ぐに見つめて、柔らかく微笑んだ。

 その、大輪の花の咲くごとき笑顔を浴びて、キースの胸はまた高鳴った。

 キースは、アンナの仕草や声色、言葉、そしてその表情に、自分に対する彼女の心を探ったが……

 恋という病に罹っているためか、キースには彼女の心の動きを正確に判断する事は叶わず、むしろ自身がますます深い陶酔の中に落ちてゆくばかりだった。


「では、また一曲、私と踊ってもらえるかな、アンナ?」

「はい、喜んで。」


 キースは、アンナと共に一曲分天幕の下で休憩をとったのち、新しい曲が始まったのを良い機会に、再び彼女の華奢な手を取った。

 本来、恋人や夫婦でなければ、何曲か踊った後に相手を変えるものだが、キースはアンナを他の者と踊らせる気は更々なく……

 また、この宴の主催者でありこの地の領主でもあるガーライル辺境伯のキースの行動を妨げる者は、この場に誰一人として居なかった。


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