黒い魔法使い #5
『黒い魔法使い』と呼ばれる物語は、作者である貴族の三男が『第一部』を書き上げて発表したところ、彼の周りの人々になかなかの好評を得た。
「またこんな話を書いて欲しい」「是非読みたい」「続編のようなものはないのだろうか?」そんな周囲の声を受けて、作者は再びペンを取り、『黒い魔法使い』の物語の続きにあたる、『第二部』を書き始めたのだったが……
実はこちらはあまり評判が良くなかった。
『第一部』で、それまで作者が長年各地を放浪して収集した民間伝承にアイデアを得たエピソードのほとんどを使い切ってしまっており、いわゆるネタが切れた状態だったのもその一つの理由であるが……
『第二部』は、『第一部』の爽快な冒険譚とは違って、どこか鬱々とした暗いストーリーが続き、読み手が期待した心躍る楽しい物語とは言えないものだったのだ。
一説には、作者はその頃から精神的な病を患っており、それが物語の雰囲気に影響を与えたとも言われている。
そうして、そんな周囲の冷めた反応を受け、作者の創作スピードは落ちてゆき、ついには物語の完成を見ないまま、病に倒れて亡くなってしまった。
つまり、物語は未完だった。
陰鬱な展開の上、話の結末が分からないままというすっきりしない状況が、多くの人々の心をこの物語から遠ざける結果となったのだった。
こうして、『黒い魔法使い』の『第二部』にあたる部分は、現在は本に収録される事もほとんどなくなり、その存在さえ人々の間で忘れ去られようとしていた。
「せっかくお姫様と騎士が幸せになったのに、お話にはまだその続きがあって、それが悲しいストーリーだなんて、なんだか辛い気持ちになりますわ。」
妻は胸に手を当ててそう語り、「お姫様は幸せになってほしかった!」と、次女はぷうっと頰を膨らませ、「どうして作者はこんな続きを書いたのかしら?」と、長女は首を傾げていた。
「そうかい? 私は『第二部』の物語も好きだよ。確かに陰鬱なエピソードが多く、『第一部』のような冒険や謎解きの要素は少ないけれどね。なんと言うのかな、『第一部』は、作者が集めた伝承をまとめて物語のような形にしたものだったが、『第二部』は、もっと作者自身の想像の世界、個人的な創作が多いんだ。私は、文学にはあまり造詣が深くないのだけれどもね、作者の心の深い部分から湧き出してきたかのような『第二部』の物語や文章は、文学的な意味でとても素晴らしいものだと思っているよ。もちろん、『第一部』のように、多くの人間が楽しめる娯楽小説的な部分も大変良いものだ。しかし、『第二部』のような、作者の個性と懊悩が滲み出る文学的な部分も、また違った味わいがある。……子供の頃の私は、冒険物語好きの少年の類にもれず、『第一部』を良く読んでいたのだけれどもね、この歳になると『第二部』の悲壮感漂うストーリーと難解ではあるが詩情溢れる文章も、これはこれでまた、非常に良いものだと思えるようになったよ。」
□
男の前にある台の上に開かれた本のページには、特徴的な細密な描写の挿絵が描かれていた。
手前左側には、片手に自分の長い髪を持ち、もう片手にナイフを持って涙を流している美しい姫が……
対になるように手前右側には、玉座に座ってそんな姫の様子を見つめている立派な王様の姿があった。
二人の背後は王城の中らしき堅固な石造りの壁となっており、ちょうど二人の間に位置する場所に大きな窓があって、外に向かって開かれている。
窓の外には、曲がりくねりながら遠くまで続いていく道が見えていた。
その道の上に、騎士が手に剣を持ち馬に乗って進んでいく後ろ姿が描かれている。
騎士は、こちらを振り返る事なく、真っ直ぐに前だけを向いて歩いているように見える。
騎士の進んでゆく道の先の地の果てには険しい山々が連なっており、その更に奥に一際高い、棘のように尖った黒い山があった。
そこには黒い魔法使いの居城があるのだろう。
上空にはそれを表すかのように、巨大な黒雲が、ローブを被り杖を持った魔法使いの姿となって浮かんでいた。
『黒い魔法使い』の『第一部』では、黒い魔法使いによってさらわれた世にも美しい姫を勇敢な騎士が助け出し、共に国に戻ってきて、姫の父である王に認められるところで話が終わっている。
しかし、『第二部』では、騎士は姫を国に置いて、再び過酷な旅に出てしまう。
姫はそばに居てほしいと泣いて騎士を止めるのだが、騎士は……
「黒い魔法使いは生きています。このままではいつまたあなたをさらいに来るとも知れない。あの男は倒さねばなりません。あの黒い魔法使いが生きている限り、あなたに真の安息はないのです。」
そう言って、すがる姫を振り切り、旅に出てしまうのだった。
そうして、騎士は、黒い魔法使いの居城を目指す険しい道のりの中で、新たに様々な苦難に遭う。
『第一部』では、騎士の冒険は、「毒の沼に沈んだ宝玉をどうやったら毒に冒されずに取り出せるか?」といった謎解きや知恵比べのような要素が多いのだが……
『第二部』における騎士の試練は、専ら精神的なものであった。
ある時は、自信を失って永遠に落ち続ける砂の中に沈んでいき、またある時は、自分が誰か分からなくなって、浮浪者のような格好でさびれた海辺を延々とさまよう。
正気を失って、気味の悪い虫の湧いている腐ったスープを腹がはち切れる程貪り食ったり、身体中をムカデが這い回っている悪夢の中で苦しみもがいたりといった、読む者が思わず目を背けたくなるような悲惨な描写が続く。
作者が精神病を患っていたのではないかと囁かれるのも無理はないと思う程に、『第一部』の小気味良い冒険譚からは遠くかけ離れた内容だった。
一方で、愛の力で騎士の度々の危機を感じ取っていた姫は、なんとか騎士の助けになりたいと考えていた。
しかし、自国には黒い魔法使いに対抗する力はなく、姫は、強力な軍隊を擁する隣国に自ら赴き、その国の王に助力を願い出る。
ところが、若く立派な王は、姫のあまりの美しさを前に、一目で彼女に心を奪われてしまう。
そこで王は、「あなたが私の妻になるのなら、あなたの願いを聞き入れ、騎士を助けよう」と提案する。
姫は、騎士を助けたい気持ちと、騎士を愛する気持ちの間で揺れ動くが、最後には泣きながら王に訴える。
「私が愛するのは、あの方ただ一人だけです。ですから、あなたの妻になる事は出来ません。代わりに、私の髪を差し上げます。どうか、あの方を助けて下さい。」
そうして、手にしていたナイフで、自分の長い金の髪を切り、それを王に手渡す。
王は、姫の騎士への愛の強さに打たれ、彼女を妻にする事を諦めると共に、彼女の望みを受け入れて、騎士を助けるために力を貸す事を約束するのだった。
この、姫が泣きながら自分の髪を切って王に渡す場面が、男が読んでいた本のページに描かれていた挿絵であった。
「まあ! どうして騎士はお姫様のそばに居てあげなかったのでしょう? 一人残されたお姫様が可哀想ですわ。」
「でも、お姫様は美しいだけではなくて、とても強い人なのですね。騎士を助けようと自分の髪を切って隣の国の王様に差し出すなんて、とても勇気があるわ。」
妻と長女はそれぞれに感想を口にしたが、次女はまだ幼く登場人物達の心情が理解出来なかったようだった。
代わりに、男に物語の先を急かした。
「それでそれで? お父様、騎士は黒い魔法使いを倒したの?」
騎士は、長く辛い試練の旅の末に、黒い魔法使いの住む地の果ての城に辿り着き、命がけの死闘に挑む。
騎士と黒い魔法使い、二人の戦いは七日七晩繰り広げられ、ついに騎士は黒魔法使いを倒すのだったが……
騎士も力を使い果たし、山脈の谷底の氷の中に閉じ込められてしまうのだった。
「それからそれから? お父様、騎士は助かったの? お姫様はどうなったの?」
「ごめんよ、小さなお姫様。お話はここで終わりなんだ。」
「え? 本当にそこで終わりなのですか、あなた? なんだか随分唐突なような……」
「実際、尻切れトンボなのだよ。作者が物語の結末を書かずに亡くなってしまったからね。」
作者の死により『黒い魔法使い』の『第二部』が未完である事伝えると、妻は頰に手を当てて落胆していた。
「お姫様が可哀想だわ。物語が終わらないと、お姫様も騎士も、永遠に救われないまま、幽霊のように物語の世界の中をさまよい続けているみたいだわ。」
ふと呟いた長女の感想に、男は自分の娘の感性の素晴らしに感動した。
一方で、次女は男のガウンの裾を引っ張って首を横に振った。
「お父様! 私、お話の終わりが知りたいわ! お父様が、お話の続きを書いてちょうだい! 私、お姫様が騎士と結婚して幸せになるお話がいいわ!」
「ええ? 私がこの物語の結末を書くのかい?……いやいや、それは、作者に失礼というものだろう? それに、私には、そんな文才がないよ。」
「お父様は、とっても頭がいいのでしょう? お母様がいつも言っているもの! だからきっとお父様なら、このお話の続きが書ける筈だわ! ねえ、お願い、お父様!」
「ハハ、いやはや、これは困ったな。我が家の小さなお姫様のお願いは、黒い魔法使いを倒すよりも難しそうだ。」
自由奔放な次女から飛び出した無理難題に男が苦笑していると、書庫のドアがノックされ、侍女が「皆様、そろそろ朝食のご準備を」と伝えに来た。
男は、それに半ば助けられた形で、「さあ、時間だ。『黒い魔法使い』の物語の続きはまた後でな。」そう言って話を切り上げたのだった。
□
この時の出来事がきっかけとなり、男は、その数十年後、歳をとって領主の座を退いてから、『黒い魔法使い』の物語の再編纂に力を傾けた。
そして、完結していなかった『第二部』の物語を書き上げたのだった。
男は、元の作者の書いた部分と、自分のつけ足した最後の部分をきちんと明記して、元の作者への敬意を後書きに書き記した。
男が書いた『第二部』の結末は、詩情豊かながらも悲壮感漂う元の作者の描いた物語の世界の雰囲気を壊す事なく、見事に昇華されており、悲しくもとても美しいものだった。
こうして、長い年月を経て、別人の力を借りて完結した『黒い魔法使い』の物語の『第二部』は人々に注目され、高い評価を得る事になる。
元の作者の作った物語に他人が手を入れた事を批判する向きもあったが、多くの反応は、男の綿密な調査と再編纂、そして元の作者が乗り移ったかのような結末の創作の功績を称えるものであった。
長大な物語の再編纂が終わる頃には、残念ながら、男の妻は天寿を全うし、娘達も歳をとっていたが、娘達の子供達、男にとっての孫達は、『黒い魔法使い』の結末を楽しむ事が出来た。
男はその生涯において、数学や物理学といった分野で有益な専門書を何冊も執筆し、また、建物や橋の建築技術の向上にも多大な影響を与えたが……
『黒い魔法使い』は、そんな男が後世に残した、たった一冊の物語本であった。
そして、後の世の人々の多くは、男の名を……
「マーカス・ガーライル」の名を、数学や物理学、建築の分野ではなく、この『黒い魔法使い』の物語の編纂者として、長く伝え知る事になる。
□
(……それにしても、子供の頃義父上に頂いた本がこんな所にあったとは。……)
マーカスは最後に、革の表紙を懐かしげにひと撫でして、本を元あった棚にゆっくりと入れた。
約三十年前、まだ子供だったマーカスは、叔父であるキースに貰ったこの本をとても気に入ってどこに行くにも小さな腕で一生懸命胸に抱えて持っていっていたのだが……
いつの間にか失くしてしまい、このシュメルダの別荘を去った後、父と母にねだって新しい本を買ってもらったのだった。
そして、擦り切れる程に読みふけっては、少年時代の思い出の詰まった本となった。
(……そうか、あの夏は、思いがけない事件が起こったために、予定を切り上げて早々に帰ったのだったな。慌てて荷造りをしたせいで、うっかりこの本をここに忘れてきてしまっていたのか。それを使用人の誰かが見つけて、書庫に収めてくれていたのだろう。……)
マーカスは、三十年前の夏の出来事を思い出し、その優しい眉を少しばかりひそめたが……
「あなた」「お父様ー!」「朝食に行きましょう」
妻と娘達の呼ぶ声を聞いて、マーカスは、視線を、棚に収めた古い本の背表紙から、声のした方へと向けた。
そして、寝巻きの上に羽織ったガウンを揺らめかせながら、急ぎ足に歩き出していた。
「待たせてしまって悪かったね。さあ、行こうか。」