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緋と金と灰  作者: 綾里悠
<緋の章>
103/165

黒い魔法使い #4


 そこは、一族が代々使用してきた別荘の建物の一角に設けられた書庫であった。

 別荘は他の地方にも幾つかあったが、毎年必ず利用するこの地の別荘が一番古い建物だった。

 その別荘の建物にも書庫が設けられていたのは、この地に滞在する一ヶ月から一ヶ月半の間にも読書を楽しめるようにとの先人達の考えに基づいたものだった。


 特に、義父は領主としての責務に追われるかたわら、王都で開かれる学者達の研究会に、少なくとも年に一回は参加する程の明晰な頭脳の持ち主だった。

 養子に入る前から実の甥であった、義父と血の繋がりのある男も、そんな義父とはまた少し方向性の違った高い知能の持ち主だった。

 義父は、政治、経済、歴史といった、領地の運営に直結した学問を専門にしていたが……

 そんな義父が築き上げた今の安定した豊かな治世のおかげもあって、男は、数学や物理学といったより専門的な分野にのめり込む事が出来ていた。

 もちろん、領主としての煩雑な仕事の合間、という限られた時間ではあったが。


 そんな一族に伝わる学問や読書を好む気風が、この別荘にも根づいていた。

 さすがに、領都の屋敷のすぐ隣に建造し膨大な蔵書を収めた、王族も驚愕する程の立派な図書館には遠く及ばないまでも、この別荘の屋敷の一角にもかなりの量の本が整然と保管されていた。

 本の劣化を避けるため、陽の光を取り入れるのは最小限にして、かつ風通しの良さを考えて設計された書庫だった。

 一族の人間が訪れるのは、一年で限られた時間だけだったが、それでも、屋敷を管理する使用人達が、毎日掃除をし、空気を入れ替え、良く晴れた湿度の低い日を選んで年に一、二回、虫干しをするなど、丹念に手入れされていた。

 壁はぐるりと全面床から天井までギッシリと本が収まった備えつけの本棚となっており、上部の本を取るための梯子が掛けられている。

 更に、適切な距離をとって幾つもの本棚が規則的に並べられ、そこにも多くの本が収められていた。

 義父も男も、使用人達が蔵書を丁寧に保全してくれている事にはとても感謝していたが、新しい本が何冊も入ったような場合、分野の違う箇所に置かれている事がままあって、それだけは閉口していた。

 さすがに、ここでは、領都の大図書館のように、本や学問に明るい専門家を何人も雇って管理を統括してもらうような事はしていなかった。

 使用人達には、望む者には文字の読み書きを無償で教えていたが、さすがに専門的な本の内容にまでは理解が及ばないのは、仕方のない事ではあった。



 男が本を読んでいたのは、そんな書庫の一角にある、読書のための円形状に開けたスペースだった。

 絨毯が敷かれ、くつろげる椅子があり、本を読むための台をはじめとして、持ってきた本を置いておくための小さな棚や、ちょっとした書き物もできる机と椅子なども用意されていた。


 男は、深夜にふと目を覚ました折、思いがけず目が冴えてしまい、眠くなるまでしばらく暇を潰そうと、一人ランプを片手に書庫に赴いたのだったが……

 そこで、あれこれと棚に収まった本の背表紙を眺めている内に、懐かしい一冊を見つけたのだった。


「義父上にこの本を頂いた子供の私は大層気に入って、どこに行くにもこの大きな本を胸に抱えて持っていったものだ。母に、『食事の時は本を置いていらっしゃい』と叱られたなぁ。」

「まあ、今と全く変わっていないじゃありませんか。お義母様のせっかくの教育が無駄になってしまいましたわね。」

「ハハ、私の妻は母よりも辛辣だ。まあ、確かにその通りなのだが、人間の本質というものは、そうそう変わるものではないのだよ。良く言うだろう、『三つ子の魂百までも』とね。」

「本当にあなたは、昔から屁理屈だけは得意ですこと。」


 良い事も悪い事もお互いを理解し合っている仲の良い夫婦が軽口を叩き合っていると、放っておかれた事を不満に思ったらしく、次女が男の寝間着の袖を引っ張った。


「お父様、お父様、早くこのご本のお話を読んで!」

「ああ、待たせてしまって悪かったね。……では、さっそく読んでいこうか。さてさて、どこからこの長大な冒険物語を語り始めたものか。」

「私、難しい話は分からないわ。簡単なお話にして、お父様。全部じゃなくっていいの、面白い所だけお話しして!」

「もう! あまり我儘を言って、お父様を困らせてはダメよ!」


 自分が父に愛されている事を幼いながらに良く理解している次女は、満面に可愛らしい笑顔を浮かべて無茶な要求をしてきたが、すかさず、真面目な長女が妹を注意していた。

 男は、頭が良く品行方正な姉に叱られて、唇を尖らせ拗ねた顔をしている次女の髪を撫でつつ、長女にも優しい笑顔を向けて二人の仲を取り持った。


「そうだな、では、この『黒い魔法使い』という物語の中でも特に有名な、『姫と騎士の話』をする事にしよう。」



 のちに男が調べた所、その本は元々『黒い魔法使い』という題名だった。

 作者は富貴な貴族の三男で、家督を継ぐ事がなかったため、あちこちの土地を気ままに旅して回りながら、趣味として各地に伝わる物語を書き留めていった。

 それらの土着のいくつもの伝承が元となり、後年書き上げられたのがこの『黒い魔法使い』という大叙事詩である。


 内容は、恐ろしい黒い魔法使いに美しい姫がさらわれ、それを勇敢な一人の騎士が助け出す、というごくオーソドックスな物語が主軸となっている。

 ただ、登場人物がとても多いだけでなく、それぞれの登場人物について様々なエピソードが細かく描写されていて、メインストーリーから横道に逸れた部分にも膨大な分量が割かれていた。

 しかし、一番の人気は、やはり、騎士が姫を助け出す物語である。

 冒険小説としては、騎士が様々な困難を、知恵と勇気と、出会った人々の助けを得て乗り越えてゆく要素が、少年達の心を躍らせた。

 かく言う男も、子供の頃、騎士がどうやって黒い魔法使いの罠や、神々の試練を解決するのかという、謎解きや知恵比べのような部分に夢中になって読み進めたものだ。


 一方で、女性達には、姫と騎士のロマンスが人気が高かった。

 実は、本の内容は、前述の騎士の冒険譚や、その他の登場人物の外伝的なエピソードが大半を占めており、世の婦女子の好む恋愛小説的な部分はごく一部であった。

 元々は、作者が各地を放浪して集めた民間伝承が元になっているために、群像劇的なエピソードが多いのだろう。

 それでも、まだまだ物語や小説といった娯楽がさほど多くなかった時代に書かれたこの『黒い魔法使い』における姫と騎士のエピソードは、その部分だけを別個抜き出して編纂される程人気が高かった。


 美しい姫と勇敢な騎士はお互い惹かれあっていたが、王は身分の違いから二人の結婚を反対していた。

 そんな時、姫の噂を聞きつけた、巨大な力を持つ邪悪な黒い魔法使いが姫をさらっていってしまう。

 誰もが、父王さえも、絶望して悲しみに暮れる中、騎士だけは諦めず、立ち入れば死ぬと言われている黒い魔法使いの居城のある山へと赴き、数々の困難を乗り越えて、ついには姫を救い出し、国へと連れ帰る。

 王は、騎士の勇敢な働きと、姫と騎士の強い愛に打たれ、遂には二人の結婚を許すのだった。


 こういった姫と騎士の物語が人気を博したため、本は何度も書き写され民間に広まっていく内に『黒い魔法使い』という題名では人々の興味を引かないと思われたらしく、途中から『美しい姫と黒い魔法使い』や『姫と騎士と黒い魔法使い』と題名が改正されていった経緯があった。

 実際、男が幼い頃義父から貰った豪華な装丁に美しい挿絵の入った富貴な読者向けの観賞用の本も『黒い魔法使い』という題の下に『金色の美しい姫と勇敢な騎士』という長い副題がつけられたものであった。



 男は、朝食までの残り時間と、妻や娘達の嗜好を考慮して……

 騎士の冒険における数々の試練や謎解き、また、多くの名脇役達のエピソードは省略し、姫と騎士のロマンスの部分だけをかいつまんで語った。

 どうやら男の判断は当たったらしく、妻と娘達は目を輝かせて男の話に聞き入っていた。


 「面白そうなお話ね。私も読んでみたいわ。」と妻が言うと、「お母様、今度私に読んでちょうだい!」と次女がせがんだ。

 しかし、夫に付き合って多少読書のたしなみのある妻も、大きく分厚い本に装飾的な文字がぎっしりと詰まっているのを見て尻込みしている様子で、それを察した男は「有名な部分だけ読みやすい言葉で編集されたものもあるから、それを探してあげるよ」と提案した。

 それを聞いて、妻と次女は、男が本を贈ってくれるのをさっそく心待ちにしていた。

 一方で、勤勉で向上心の強い長女は「私はこの難しい文字を読めるようになりたいわ」と、原文に近い形での物語の読破に意欲を見せ、読書好きな男は「時間のある時は私が勉強を見てあげよう」と顔をほころばせていた。


「お父様、さっきから気になっていたのですけれど、この絵に描かれているのは、どんな場面なのですか?」


 大好きな父が自分のために勉強を教えてくれると聞いて、長女は頰を紅潮させ興奮気味に尋ねてきた。

 台の上に開かれていた男が読みさしていた本のページの挿絵が、長女の印象に強く残っていたようだった。


「ああ、これは……騎士が黒い魔法使いを倒す旅に出てしまったのを心配して、姫が隣国の国王に助けを求めている場面だよ。」


 そんな男の答えを聞いて、妻と娘達は一応にきょとんとした顔をした。

 今まで男が語った「姫と騎士の物語」のあらすじには、そんな場面は出てこなかったからだ。

 妻が不思議そうに男に尋ねた。


「あら? お姫様が黒い魔法使いさらわれてしまって、騎士がそれを助け出したのですわよね? 先程聞いたお話とは違っているように思いますわ。」

「いや、この場面は、先程私が語った物語の後に続く部分なのだよ。」

「続き? お姫様と騎士の物語には、まだ続きがあったのですか、お父様?」

「お姫様が騎士に助けられ、二人が王様に認められて、その後二人は幸せに暮らした、というお話ではありませんの?」


 妻と長女に怪訝な顔で問われ、男は少し困った様子で、頰をポリポリと指で掻きながら苦笑した。


「実はこの『黒い魔法使い』という物語は、二部構成でね。先程私が話した『黒い魔法使いに連れ去られた姫を騎士が助け出す』というのは、『第一部』なのだよ。『その後、黒魔法使いを倒すために、姫を残して再び騎士が旅立つ』というのが、『第二部』の物語だよ。」


「『第二部』の方は、実はあまり知られていなくてね。世に出回っている本には『第一部』だけしか載っていないものも多いんだ。……私が子供の頃義父上に頂いたこの本は、姫や騎士以外のたくさんの登場人物の細々とした外伝的なエピソードも含めて、『黒い魔法使い』の全てを網羅した完全版だったからね、『第二部』の話も収録されているんだよ。」


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