黒い魔法使い #3
男の妻は、過去の話に出てきた美しい女性が誰であるかを悟ると、唇を閉ざして、それ以上は男をからかう事も詮索する事もしなかった。
男は、妻の機嫌を損ねずに済んでホッと胸を撫で下ろす一方で、その三十年前のある夏の日の出来事が未だ鮮明に頭の中を巡っていた。
記憶は、絹糸を通したひと繋がりの真珠の首飾りのように、一つの珠が思い出されると、それに連なる珠が次々と脳裏に浮かんでくるのだった。
(……あの時一瞬見た義父上の表情が、今でも忘れられない。……)
まだ幼かった男が、義父の大切な女性に大きな樹の下で本を読んでもらっていた。
そこに、女性を一人にしてしまった事に気づいた義父がやって来た。
走って来た訳でもなく、優雅で堂々とした態度は崩していなかったが、急ぎ足にやって来た義父の気配は、駆けつけてきたという表現が良く合っていた。
二人きりで居た幼い男と女性を見て、義父は、当たり前のように女性に嬉しそうな笑顔を向け、女性も義父に柔らかく微笑んだ。
しかし、一瞬、幼い男の方を見た義父の目は、激しい敵意で冷たく凍りついていた。
すぐに、何事もなかったように、義父はいつもの優しいまなざしを幼い男に向けてくれたが、あまりに強烈な印象だったため、少年は怯えて、しばらくうつむき黙り込んでいた。
すぐに母もやって来て、少年を引き取り、義父と女性はパーティーの人の輪の中に戻っていった。
少年が肩をすくめて縮こまっていたのは、いつもの人見知りのためなのだろうと、義父も母も、その場に居た誰もが本当の理由に気づかずにいた。
(……今思うと、あれは……嫉妬だったのだろうな。……)
それに気づいたのは、何年も経って、男が男女間の感情の機微を理解してからの事だった。
義父は、一貫して、甥である男には優しかった。
いや、義父は、甥という身内に限らず、部下にも使用人にも、領民達にも、等しく公平で博愛の気持ちを持って接していた。
幼い男を、子供として侮る事も、特別扱いで庇護し過ぎる事もなく、個性と自主性を尊重しながらも、大きな愛情で見守ってくれていた。
そんな義父が、男に対して剥き出しの敵意を向けたのは、まだ男が幼かったあの一度限りの事だった。
自分の知らない内に、幼い甥が女性と二人きりで親しそうに過ごしていた事に、反射的に憎しみを覚えたのだろう。
もっとも、そんな醜い感情は、すぐに、義父の公明正大にして清廉潔白な精神によって覆われてしまったが。
まだほんの子供だった甥っ子相手に嫉妬の感情を抱くというのは、あまりにも心が狭いと普通は思う所なのだろう。
しかし、男は、なぜかすんなりと腑に落ちてしまっていた。
それ程までに……かの女性は美しかった。
そして、義父が彼女に向ける感情は、貴族らしい上品な笑顔と仕草で隠されていたが、とても激しく荒々しいものだった。
自分以外の男が彼女と親しく接する事を、それがまだ幼い甥であろうとも、思わず憎悪してしまう程に。
(……私は、あんな風に激しく誰か異性を思った事がない。おそらく、この先もないのだろう。……)
男は、幼い昔に見た、完璧な聖人君主として知られていた義父の意外な一面を思い出した事で、自分の身と引き比べてそう考えた。
愛する妻に対して少し申し訳ない気持ちになった。
男は、我を忘れるような、燃え盛る炎に身を焦がすような、激しい男女の愛を経験した事がなかった。
しかし、全く違った愛情で、妻とは深く結ばれているという実感もあった。
それは、穏やかで優しく、労わりと思いやりに満ち、お互いに心が癒され温まる、そんな愛情だった。
男は、自分の人生の内で、そんな尊い愛情を得られた事、そんな愛情と信頼を分かち合える妻を得られた事、妻と二人で宝のような二人の娘達を育ててゆける事を、何よりも幸福に思っていた。
元より、学者肌で読書や研究を優先する男は、多忙な領主としての責務の合間の貴重な時間を、女性と愛を語らう事に費やす気は更々起こらなかった。
それでも、義父があの美しい女性に向けていた激しい情念を想像すると、全くそういった感情を知らずにこの先にも生きていくだろう自分の人生を思って、男は、少しばかり羨ましい気持ちになったりもするのだった。
□
(……そう言えば、もう一人、あの場に人が居たな。……)
その時、男の脳裏に、ひらりと気まぐれな夏の蝶が舞った。
幼い男が美しい女性に大樹の木陰で本を読んでもらっていたあの場には、義父と、母と、そして、もう一人の人物が居た。
彼は、ひょろりと背の高い痩せた青年だった。
パーティーに来るために精一杯洗って整えたのだろうが、短い灰色の髪は艶がなくボソボソとしており、肌はカサついて青白さとくすんだ印象が同居していた。
やせ細ったその体からは、筋張った筋肉が僅かに感じられるだけで、特に四肢はもう骨と皮だけといった見た目だった。
今思うと、青年は病を患っており、あの時既にかなり病状は進行していたのだろう。
それでも、紺色の晴れ着に身を包んだ青年は、スッと背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。
まるで、天と地の間に、何も支えるものも頼るものもないかのように、いや、もしあったとしても、全ての助けを拒否するかのように、鉛色の棒になって、自らの力のみでどこまでも垂直にこの世界に突き立っていた。
良く見れば、まだ歳の頃は二十代半ばの青年であったが、その若い身空でいかにしてそんな孤独な張り詰めた気配を身につけたものかと、今は思わずにはいられない。
幼かった男の目に、病で痩せこけた青年は異様な姿に映った。
貴族の家の子息として生まれ恵まれた環境で育ってきた少年は、病気の人間を間近で見た経験がなく、その青年はまるで人間ではない何かの化け物のように見えていた。
良く言えば慎重、悪く言えば臆病な性格もあって、少年は青年に怯えた。
「お兄さん。」
しかし、少年であった男に本を読んでくれていた美しい女性は、その青年を見ると、とても嬉しそうに親しげに微笑んだ。
青年は女性の兄であるらしかった。
確かに、改めて見ると、二人の容姿や雰囲気は、決して赤の他人には踏み入れない領域で似通った所があった。
青年は、血色が悪く痩せこけてはいたが、目鼻立ちが女性同様に端正に整っており、確かに血の繋がりを感じさせた。
少年には、空恐ろしい化け物に見えるその青年に対し、美しい女性は、心を開いた相手だけに向ける親愛の眼差しを一心に注いでいた。
だが、青年は、少年がおびえている事を察したのか、二人にそれ以上近づいてこなかった。
少し離れた場所で、二人の様子を見張るように、腕組をして木の幹にもたれていた。
少年は内心ホッとし、また女性が読み始めた本の物語に没頭していった。
と、ふと、気まぐれな一匹の夏の蝶が、避暑地の爽風に乗って、少年の目の前を行き過ぎていった。
かたわらの美しい女性は蝶に気づかなかったらしく、本の文字を指でなぞりながら読み上げ続けている。
対照的に少年は、思わず目の前の蝶を追って、本から顔を上げた。
その時、少年は見たのだ。
二人の邪魔をしないようにと少し離れた木の元に立っている青年が、ジッとこちらを見つめているのを。
(……優しい目だった。……驚く程、澄んだ瞳だった。……)
くすんだ灰色の髪の下にある、ポッカリと虚無の闇が口を開いたような青年の黒い瞳を、少年はそれまで恐ろしく感じていた。
片側だけ前髪を伸ばして隠していたが、彼の顔には左目を横切るように刀傷があった事も、少年の恐怖を増幅させていた。
けれど、その一瞬に見た青年の目は、少年の中にあった黒いモヤを一瞬にして搔き消す程に鮮烈な印象を与えた。
青年は、自分の妹である美しい女性を見つめていた。
おそらく彼の目には、真夏の風景も、パーティーに集まった着飾った人々も、天幕の下に並べられた豪華な料理も、他のものは一切映っていなかったのだろう。
この世界でただ一つ、ただ一人、妹だけを見ていた。
(……祈るような瞳だった。……)
(……それは、まるで、砂漠の中で両手を結んで汲んだひと掬いの清水を見つめるかのようだった。……あるいは、果てのない闇の中で、遥か彼方に輝く小さくも温かな星の光を望むかのようだった。……あるいは、また、雪片混じりの横殴りの風が吹く凍てついた荒野で見つけた、一輪の可憐な花を慈しむかのようでもあった。……)
(……あの青年にとって、彼女は、そんな存在だったのだろう。……)
(……この世界の中で、たった一つだけ、彼が自分よりも大切に思い、自分の命を賭しても守ろうとしていたもの。……)
病んだ肉体に死人のような陰気な気配を纏う青年を、人々は本能的に不吉なものをして避けていた。
当時少年であった男もまた、他の者達と同様に、彼を忌避していた。
しかし、そんな彼が人知れず胸にいだいている切なる感情を垣間見た時、少年の彼に対する印象は一変したのだった。
(……あんなにも純粋で思いつめた瞳を、私は他に見た事がない。……)
(……その愛は、もはや、悲愴であった。……)
(ああ、この人は、悪い人でも怖い人でもなかったのだ)と、その事実を知った少年は、怯えた態度を取ってしまった事を申し訳なく感じた。
しかし、少年がこちらを見ている事に気づいた青年は、スッと視線を逸らし、その瞳はすぐに再び虚ろな闇で埋まってしまった。
結局、少年は、最後まで何も青年と触れ合う事がないままだった。
やがて、義父と母が少年を探して女性と二人で座っていた大樹の元にやって来た時、いつの間にか青年の姿は消えていた。
もう、妹のそばに人が来たために、自分がついている必要はないと判断して、音もなくどこかに立ち去った様子だった。
少年が……まだ幼かった男が、美しい女性の兄だというその痩せこけた青年に会ったのは、それが最初で最後の事だった。
それ以降、男が青年の姿を見る事は、絶えてなかった。