黒い魔法使い #2
「お父様、このご本はなんのご本なの?」
しばらく男の膝にすがりついて甘えていた次女が、男の座る安楽椅子の前にあった読書用の台を見て興味を示した。
そこには、立派な革張りの本が置かれていたが、かなり古いものらしく、革の風化に時間の流れが感じられた。
男の妻も、姉である長女も、勉強嫌いで普段は本などまるで読もうとしない次女が、興味津々で、父の読みさした本のページを覗き込んでいるので、不思議に思い視線を向ける。
「まあ、珍しい。あなたが挿絵の入った本を読んでいるなんて。いつもビッシリと文字の詰まった本ばかり熱心に読みふけっているのに。」
「……いつもお父様が読んでいる本を、この前私も頑張って読んでみたけれど、私には全然分からなかったわ。頭が痛くなりそうだったわ。……でも、この本は全然雰囲気が違うのね。ええと……文字は見た事がない種類で読めないけれど。どこの言葉なのかしら?」
妻が少し目を見開いて驚いて見せ、長女も自分の感想を述べた。
長女には最低限の教養としての勉学をあまり厳しくする事なく学ばせていたが、賢く真面目な彼女は、もうほとんどの文字の読み書きを覚えていた。
しかし、文字が読める事と、本の内容を理解する事はまた別で、男が普段好んで読んでいる数学や物理について書かれた本は、まだ到底彼女の手に負えるものではなかったようだ。
「これは、いつも使っている文字と同じさ。同じ言葉だよ。ただ、飾り文字と言ってね、文字に絵のように複雑な装飾が施されているんだ。……ほら、良く見てごらん、これが『A』だよ。こっちは『B』だ。」
「あ! 本当だわ! 確かに良く見ると『A』や『B』の形をしているわ! 凄いわ!」
男が指差して説明すると、長女はすぐに理解した様子で感動で頬を上気させていた。
と、そんな様子を見ていた次女が、自分も大好きな父親に構って欲しいらしく、身を乗り出して、本の挿絵を指し示した。
「お父様、お父様、この絵はなんの絵なの? 髪の長い女の人と、冠を被った男の人が居るわ。こっちには馬に乗った人、それから、この黒い人はだぁれ? なんだか、この黒い人、怖いわ。」
「ああ、これはね……ええと、朝食までまだ少し時間はあるかな?」
男がかたわらに立っている妻に視線を上げると、妻は諦めたように微笑んで答えた。
「少しだけですわよ。……あなたの居場所は見当がついていましたから、朝食の時間の少し前に侍女に迎えに来るように言っておきましたの。迎えが来たら、すぐに部屋に戻って身支度をして下さいね。お義父様をお待たせする訳にはいきませんから。」
「ああ、ありがとう。じゃあ、もう少しだけここに居させてもらおう。」
「フフ、実は私も、あなたが珍しく読んでいる挿絵のある本の内容が気になっていましたの。」
寛大な妻の許可を得て、男は長女の肩を抱き、次女を膝に乗せて、台の上に置いた 本に改めて向き直った。
妻や娘達と共に本を見つめる男の目は、少年のように輝いていた。
□
「この本は、私がまだ子供の時分に義父上が下さったものなのだよ。有名な冒険小説で、義父上も少年時代は夢中になって読まれたそうだ。」
男は、台の上に置いた革張りの大きな本のページを、懐かしそうに目を細めて撫でながらそう語った。
「私が義父上からこの本をいただいたのは、ようやく文字を覚えたばかりの頃でね、私もこの複雑な飾り文字を目にするのはこれが初めてだった。それに、古典的な文法や単語が多く使われていて、文章も多分に詩的な装飾的表現が多かった。そんな訳で、基本的な文字を覚えたばかりの私にとって、この本を読み解くのはまだまだ難しかったよ。それでも、さすがに名作として長い間多くの人々に親しまれてきた物語だけあって、内容は思いがけない展開の連続で、とても面白かったんだ。子供の私は、なんとか読める文字を拾って、読めない部分は必死に想像して補って、夢中で物語を読み進めていったよ。」
「義父上は、『読めない文字があったら教えてあげよう』と言って下さったのだけれど、人見知りで引っ込み思案だった私は、なかなか義父上に話し掛けられなくてね。何しろ、その頃私が義父上に会うのは、せいぜい半年に一回といった所だったからね。それに、義父上はいつもたくさんの仕事に追われて忙しそうにしてらしたからね。……そこで母に読んでもらおうと思ったのだけれど、母は、複雑な飾り文字を前に頭を抱えて、早々に逃げ出してしまったのだよ。母は幼い頃から勉強が嫌いで、本もほとんど読んでこなかったらしい。」
「困った私は、この重く大きな本を胸に抱えてヨロヨロ歩きながら、誰か呼んでくれる人は居ないものかと探した。と言っても、自分から『本を読んでほしい』と頼む事も出来なくてね。使用人達が時々心配して話し掛けてくれたが、残念ながら彼らにはこの本が読めなかった。仕方ないので、私は、自分一人で、読める文字だけを読んでいた。」
男は、ふと、顔を上げて、壁の高い位置にしつらえられた小さな窓を見遣った。
瓶の底を思わせる丸いガラスが、鉛の縁取りで繋げられた明り取りの窓からは、もう朝の白い光が差し込んできていた。
頭上から降ってくる光は、未だ寝巻きにローブ姿の男を中心に、身支度を整えたドレス姿の妻と娘達が彼を囲む様子を、一枚の絵画のように照らし出していた。
「ある時、この屋敷の庭でパーティーが開かれて、たくさんの人が訪れた事があった。人見知りの私は、この本を胸に抱えて母の後をちょこちょこついて回っていた。……すると、やがて母は、使用人に呼ばれ、用事があると言って、そばに居た女性に私を預けてどこかに行ってしまった。」
「その人は、とても美しい女性だった。後にも先にも、あれ程美しい女性に、私は会った事がない。子供心にも、そのあまりの美しさに、人間ではなのではないかとさえ思った程だ。まるで天から降りて来た女神のようで、引っ込み思案の私はますます緊張して、ろくに喋る事も出来ず、恥ずかしさで顔を赤くしてずっとうつむいていたよ。」
「その女性は、そんな私にとても優しくしてくれた。私は女性に手を引かれて、大きな木の根元の木陰の草の上に腰をおろした。女性が、私が大事そうに抱えている本の事を聞いてきたので、私は夢中で本の事を喋った。なんとか間を持たせようと、必死に自分の知っている話をしたのだ。私が本を読みたがっている事を知った女性は、私が抱えていた本を丁重に受け取ると、ページを開いた。女性は本のページを見て、困ったような表情を浮かべた。それもそうだ、母も使用人達も、誰もまともに読めなかった難解な本だ。私は、女性を困らせてしまった事が申し訳なくて、泣きたい気持ちになった。」
「ところが、私が泣きそうな顔をしているのを見た女性は、本を読んでもらえなくて悲しんでいるのだと勘違いしたようだった。そして、こう、スッと唇の前に指を一本立てて『内緒にしておいて下さいませね』と小さな声で言った。私は、何を内緒にしておくのか良く分からなかったが、女神のように美しい女性に頼まれたので、反射的にコクリと頷いていた。……すると、女性は、私が先程指差した読みかけていた本の箇所を、白く細い指で辿りながら、ゆっくりと読み上げ始めた。」
「とても美しい声だった。天上の神が金の鈴を鳴らすような、清らかにしてまばゆい光に満ちた音色だった。女性は、途中で読み間違える事も、つっかえる事も一度もなく、滑らかなに丁寧に流れるように、本の文字を読み進めていった。……彼女の美しい声で音読される、装飾的かつ古典的な文章によって、幼い私の周囲に、みるみると非現実的で独特な世界が広がっていくようだった。遠い昔の作家が生涯をかけて紡いだ大叙事詩が、私の脳内に色鮮やかに息づいていた。物語の中では、燦々と太陽が輝き、雨が蕭蕭と降り、高い山がそびえ立ったかと思うと、見る間に遥かな平原へと変わる。雲が行き過ぎ、川は流れ、木々は歌い、草花は囀った。そして、登場人物達が、血肉を持った本物の人間のように活き活きと笑い、泣き、戦い、慈しみ、めくるめく物語を生み出していった。……私は、女性の読む本の内容に心奪われ、夢中で耳を傾けた。なんと素晴らしい時間だった事だろうか。」
男は、詩情溢れる過去の思い出を、うっとりと浸るように語っていたが、ハッとなって、かたわらの妻の顔を見つめた。
特に彼女は怒っている様子はなかったのだが、女心に疎い男は自分の伴侶の前で他の女性を褒めた事を気まずく思ったらしく、慌てふためいて弁明し、妻はそんな男の気持ちを理解していながら、少し意地悪くからかうように笑った。
「……ち、違うんだよ、君! これはもう三十年以上も前の話でね、私はまだほんの子供だったのだよ! 浮気とか、そういった話では……」
「まあまあ、あなたが女性の容姿をそこまで褒めるだなんて、珍しい。余程お美しい方だったのですわね。」
「た、確かに美しい人ではあったが、やましい気持ちは決してなかったし、私には君が……そ、そうだ! その女性は、義父上の大事な人だったのだよ! 君も聞いた事があるだろう? ああ、その頃は、まだ私は養子縁組していなかったから、義父上ではなく、叔父上と呼んでいたなぁ!」
男が身振り手振りを交えて必死に事情を話すと、妻は「ああ、そうでしたのね……」と納得し、わずかに表情を曇らせていた。
後にも先にも、義父の周りで「この世のものとは思えない程美しい女性」の話は他になかったために、すぐに察しがついたようだった。