黒い魔法使い #1
「……た……あなた……」
男は何度か呼ばれてから、ようやくゆっくりと顔を上げた。
手元の本の文字に落とされている時は、どこか遠くを見ているようだった茶色の瞳が、かたわらに自分の妻と娘達の姿を捉えると、スウッと現実に戻ってくる。
その温かく優しいいつもの気配に、妻はホッと胸を撫で下していた。
「ああ、みんな、どうしたんだい?」
「それはこちらのセリフですわよ。朝目が覚めたら、あなたが隣に居なくて、とても驚きましたのよ。」
「え?……あ、ああ、そうか、それはすまなかったね。……おっと、もうこんな時間なのか! 気がつかなかった!」
「お父様!」と、九歳になったばかりの下の娘が安楽椅子に掛けた男の膝元に飛びついてくる。
男は目を細めて、妻に良く似たその亜麻色の髪を撫でた。
子供の髪はまだ細く、子猫の毛を思わせる柔らかさだった。
男は、視線を巡らして、妻の後ろに大人しく控えている十三歳の長女を見つめると、「おいで」と腕を伸ばし、長女はおずおずとやって来ては、やや髭の伸びた父の頰にキスをした。
男は二十歳で結婚してしてから妻との間に二人の娘をもうけたが、二人の性格が全く異なっているのを興味深く感じていた。
長女は、大人しく慎重で思慮深い。
対照的に、次女は、大胆で行動的で快活だった。
長女は赤い巻き毛に薄茶色の瞳で、そんな外見的な特徴だけでなく、性格面でも自分に良く似ていると男は感じていた。
自己主張が苦手で、先に他の人間が前に出たり話していたりすると、自分の意見を口にするのをためらって、一歩下がって黙り込んでしまう所があった。
一方で、次女は、放っておいても一人で楽しい事を見つけて、糸の切れた凧のようにどこまでも飛んでいってしまうような所があった。
妻に似ている、と言うよりは、男の母親を思わせる怖いもの知らずの自由奔放さだった。
男は、そんな個性の違う二人の娘を良く愛し、自分の言いたい事を飲み込んでしまいがちな長女に対しては、なるべく話し掛けて彼女の気持ちを引き出すように努め、好奇心いっぱいな次女に対しては、冒険が行き過ぎてうっかり危険な領域に立ち入らないようにと、そっと目を配っていた。
最後に、妻が男に歩み寄り、男の乱れていた髪をそっと撫でつけながら、優しい抱擁とキスをしていった。
男は若い頃、その富貴な家柄と端正な容姿から、夜会に出ればいつも多くの貴族の子女が彼の気を引こうと寄ってきていたが、本人は内心そんなかしましい女性達が苦手で辟易していた。
「お前は、私に似ているな。」
義理の父はそう言って苦笑し、無理に彼を夜会に出席される事もなく、適齢期になっても早く結婚しろとも言ってこなかった。
その内、父の知り合いが屋敷を訪れた際、伴ってきた彼の娘と話す機会があった。
「……わたくしも、実は、華やかな場所は苦手なのです。……」
そう、恥ずかしそうに告白した楚楚とした容姿と性格の娘に、男は初めて異性に対しての好感をいだいた。
男を、家柄や見た目の美麗さだけでなく、その心根まで理解してくれたのは、今まで出会った女性達の中で彼女が初めてだった。
娘は、男の、その華やかな見た目によらず、内向的で凝り性な性格に付き合って、読んだ本の内容についての感想を真剣に聞かせてくれたりもした。
そうして、一年程交流を重ねたのち、男は娘と結婚した。
「おめでとう。いや、お前はいつかあの子と結婚すると思っていたよ。どうだい、伴侶が居る人生というのも存外悪くはないだろう?」
娘と結婚する事を告げると、義理の父は嬉しそうに目を細めて笑った。
その時ようやく、男は、義理の父が彼のために彼と気の合うであろう娘を探して引き合わせたのだと気づいた。
それが、今の男の妻であり、義理の父が見込んだ通り、男の人生は、妻を得て、新しい光が差したかのように明るくなった。
その後も、妻とは喧嘩をする事もほぼない良い夫婦仲が続き、二人の娘にも恵まれて、ともすると自分の殻にこもりがちな男の生活に、新鮮な一面を与えてくれていた。
男は、義理の父の慧眼に改めて感服すると共に、その心遣いに心の底から感謝していた。
「まあまあ、こんなにおぐしが乱れて、あなたを名君と敬っている領民達がこんな姿を見たら、どう思う事でしょうね。」
妻は、男がガウンを羽織っただけの寝巻き姿のまま、すっかり日が昇り朝が来たのも気づかずに書庫で本を読みふけっていた事をからかうようにそう言ったが、その瞳は、夫に対する愛情に満ちていた。
今となっては、賢君としての評判が王国内に広く知れ渡っている辺境伯の夫であるが、中身は、初めて出会った時から変わらない、一度自分の世界にのめり込むと周りが見えなくなる、内向的で変わり者の本の虫だった。
良き領主であり、良き夫であり、良き父であると共に、そんな夫の知る人ぞ知る個性を愛おしく思う気持ちが、妻の穏やかな笑顔には溢れていた。
妻は男の寝癖のついた赤い巻き毛を更に何度か撫でつけながら笑ったが、男はそんな彼女の手を取って優しく微笑み、手の平にキスをした。
男は、もう三十半ばを過ぎた年齢であるものの、こうしていると今もどこか純粋な少年のような雰囲気を漂わせる。
まだ朝の身支度をしていないために、皺のついた寝巻きにガウンを羽織っただけという格好で、カミソリを当てる前の頰にはヒゲがうっすらと伸びていた。
それでも、男の生来の端正な顔立ちは十二分にうかがい知る事が出来た。
一族の血を引く者に現れる、燃え盛る炎に例えられる特徴的な緋色の巻き毛。
しかし、彼の義理の父親が猛禽類を思わせる気迫に満ちた金色の瞳であるのに対し、男の瞳は、雨水を受け止め草木を育む豊かな大地のごとき、穏やかで優しい茶色をしていた。
歳をとって、出会った頃の若者らしい瑞々しさは失われたものの、大人の落ち着きと、経験の積み重ねによる叡智や包容力をより一層感じられるようになった男の容姿に、妻は思わず見惚れた。
特に、妻は、男の茶色の瞳が好きだった。
義理の父親は、非の打ち所のない偉大な人物だったが、その威風堂々たる気配や強い眼差しは、控えめな性格の彼女にとって、緊張や息苦しさを感じる場面もままあった。
しかし、夫である男は、この一族特有の緋色の髪を持ち、彫りの深い端正な面立ちも義理の父親に良く似ているものの、どこまでも優しく繊細な雰囲気で、彼のそばに居るとホッと心が安らぐのを感じた。
「すまなかったね。目を覚ました時ベッドに一人で、不安な思いをさせてしまったね。」
男は、キスをしていた妻の手の平から顔を上げながら、申し訳なさそうに言った。
「夜中にふと目が覚めてね、なかなか眠れなかったので、少し本でも読もうと思ったのだけれど、いつの間にか夢中で読みふけってしまっていたよ。」
「確かに、目が覚めた時あなたの姿が見えなくて、心配な気持ちになりましたけれど、あなたの事ですから、どうせこのような事だろうと思っておりましたわ。」
仲の良い夫婦はそう言って苦笑し合った。
「あなた、今日は午後からお義父様と森へ出掛ける予定なのではなかったかしら? 寝不足で大丈夫ですの? お義父様は武人でいらっしゃるから、あのお歳でも大丈夫なのでしょうけれど、あなたは毎年森へ行った日はグッタリしていましたわよね?」
「ああ! そ、そうだった! 今日は義父上との約束の日だった! しまった、どうしたら……」
「まったく、仕方ありませんわね。朝食をとったら、少しお休みになったら?」
「そうしたい所だが、今寝てしまうと、夕方まで寝こけてしまいそうだよ。」
「フフ。大丈夫ですわよ。私と娘達が、ちゃんとあなたを起こしますから。」
慌てふためいて緋色の巻き毛を両手でグシャグシャに掻き回している夫の姿に、妻は思わず笑った後、安楽椅子のかたわらのサイドテーブルの上に置かれていたオイルランプを手に取ると、ガラスを持ち上げて、夜中からついたままだったらしい火を吹き消した。