仮面舞踏会 #1
月を見ていた。
既に夜は更け、上弦の月は天の頂を過ぎて、空と地の境界にそびえる山脈の黒き影に近づきつつあった。
深い群青色の空には、銀の砂を撒いたような無数の星々が散りばめられている。
ひときわ星の密集した巨大な光の川が、天球を横切っては、やがて地平の端の山並みに吸い込まれて途切れる。
故郷とは違い、夏は肌に空気がまとわりつくように湿度の高い王都にもようやく秋の気配が満ちてきたらしく、夜の空は薄皮を一枚剥いだように清々しく透き通っていた。
そんな夜空のただ中で、遠い月は、うっすらと金色を帯びてまろやかに光っていた。
「これはこれは、こんな所でお会いするとは奇遇ですな。」
背後から話しかけられて、人気のないバルコニーから外を眺めていたキースは、ゆっくりと振り返った。
途端に、月の美しい初秋の夜空から、煩雑な人界の淀みに引き下ろされた気分になる。
キースに話しかけてきた熟年の男は、若い婦人を伴っていた。
二人とも、目の周囲を、手に持った棒の先についた黒い仮面で隠しているが、一目で見知った人物だと分かる。
そんなキースも、金の装飾で縁取られた白い仮面で顔を覆っていたが、燃えるような独特の緋色の髪と狼を思わせる金色の瞳では、周囲に自身の名を名乗って回っているようなものだった。
真紅のマントが、鍛えた長身の体と威風堂々たる彼の雰囲気に良く似合い、嫌でも人目を引いていた。
キースが片足を後ろに引いて深々と礼をすると、男と女も丁寧に一礼をした。
「ガーライル辺境伯ともあろうお方が、こんな所にお一人でいらっしゃるとは。貴方様と話をしようと探し回っている者も多いでしょうに。」
「特に美しいご婦人方は」と、男は愛想の良い笑みを浮かべてつけ加えたが……
その笑みが、キースには、ねちゃりとした黒い泥がこびりついているかのように見え、一層不快感が増した。
しかし、キースも立場上、内心を悟られないよう、仮面の下の自身の顔にもまた仮面を被るすべを心得ていた。
朗らかな笑みを浮かべて、当たり障りのない返答をした。
「どうやら少し飲み過ぎてしまったようで、酔いを覚ましておりました。」
キースの目に、仮面越しに大広間の光景が映っていた。
大きなガラス窓を開けてバルコニーに出てきていたものの、振り返ればすぐそこには、欲望に満ちた俗世が渦巻いている。
夜が更けて一層賑々しく、巨大なシャンデリアの下で、上等なドレスやスーツを身にまとったたくさんの人々が、歓談したり、ワインのグラスを傾けたり、ゼンマイ仕掛けの人形よろしくクルクル踊ったりと忙しい。
そんな、豪華絢爛たる夜会の光景が、キースには、都の辻で人を集めている紙芝居の絵よりも薄っぺらく見えていた。
もはや、一片の興味も湧かなかった。
□
「そう言えば、ガーライル卿にはまだ紹介しておりませんでしたな。お会いになるの初めてでしょう? こちらは私の三番目の娘となります。」
男は、伴っていた若い女性を促し、自分より前に立たせる。
社交界に顔を出すようになってまだ間もない様子の十六、七歳の娘は、おずおずと進み出て、手にしていた仮面ついた棒を下げ、ドレスの裾を摘んで再びキースにお辞儀をしてきた。
その立ち居振る舞いから、しっかりと貴族の娘として教育の行き届いているのが感じられるが……
顔を上げてキースと視線が合った時にニコリと微笑んだその表情が、キースにはまだまだ世間知らずな子供のように感じられてならなかった。
(……仮面の意味など、あってなきがごとしだな。……)
お互い名乗りをあげての挨拶に、キースは心の中で嘆息する。
一応名目上は、「普段は堅苦しい貴族の身分制度に縛られている人々が、顔を名前を隠して楽しむ催し」として開かれている仮面舞踏会であったが、実質社交界で見知った顔ぶればかりでは、匿名や無礼講はほぼ機能していない状態だった。
キースは、柔らかな笑みと共に「とてもお美しい方ですね。」と、ごく一般的な社交辞令を口にしながら、内心では(またか……)とうんざりしていた。
こうして、妙齢の娘を紹介されたのは、この仮面舞踏会にやって来てからこれで何人目になるだろう。
閉塞感と虚飾と腐敗に満ちた社交界の雰囲気を嫌って、山のように届く夜会の招待状を普段はなるべく断っているキースだったが、この夜は祖父の代から世話になっている身分の高い貴族の誘いであったので、仕方なく出席していた。
そんな、滅多にこういった場に顔を出さないキースが現れた事で、参加者達は色めき立ち、ここぞとばかりに入れ替わり立ち替わり自分の娘を紹介しにやって来た。
そんな状況に嫌気がさしたキースは、一人そっと人気のないバルコニーで夜空に架かる月を眺めて物思いにふけっていたのだったが。
辺境伯というキースの身分は、ここハンズリーク王国の貴族社会では特別高いとは言えなかった。
しかも、今の爵位を拝領したのは父の代からであって、それ以前はただの辺境の男爵家であり、今でも影では新興の田舎者と揶揄されているのも知っていた。
それでも、代々王都に住まう由緒正しき貴族達は、こぞって熱心に話しかけ、未婚の娘を紹介し、深い縁を結ぼうと画策してくる。
それは、キースが国境を守備する騎士団の団長として武勲を立てているからでも、公明正大にして慈悲深い領主として自身の領地を治めているからでもなかった。
もっと言えば、彼の精悍な美丈夫ぶりも、このハンズリーク王国で十年に一人と讃えらる剣の腕前も、まして、彼の豪快にして清廉潔白な性格も、全く関係のない要素だった。
キースの統治するガーライル領が、良質な金や宝石を豊富に産出する鉱山を有する、この国きっての裕福な領土だというのが、真の理由だった。
要するに、金だ。
身分だけは高くとも、内情が火の車である貴族は多い。
まして、とうの昔に一族の栄華は傾いてしまったというのに、上辺だけ必死に取り繕って豪奢な生活を続けていれば、低落ぶりに拍車が掛かるだけというものだ。
それならば、己の領地の政に精を出せばいいとキースは思うのだが、王都に大きな屋敷を構えて住み続ける貴族達は、自身で汗水流して働く事をどうやらすっかり忘れてしまっているらしい。
いや、むしろ、自らが先頭に立って領地や商工を切り盛りするなど、卑しい行為だと考えている風潮さえあった。
そんな「黙っていても金はどこからか湧いてくるもの」と思っている貴族達は、大木の出す甘い樹液に群がる虫のように、媚びへつらってキースに寄ってくるのだった。