愛ちゃんの部屋にて
「・・・」
愛ちゃんの部屋・・。そこは愛ちゃんの部屋だった・・。僕は、その愛ちゃん部屋のベッドのへりに縮こまるようにして遠慮がちに座っている。
「愛ちゃんの匂いが・・」
とてもいい匂いがした。僕はそれを鼻を動かしながらクンクンと嗅ぐ。いや、そんなことしている場合ではない。
「女の子の部屋・・」
ベッドがあり、机があり、別に普通の十代の子の部屋なのだが、そこは僕の現実からは遠く離れたおとぎの国か、不思議の国だった。一応、あゆちゃんの部屋で免疫はつけているが、やはり、その雰囲気は、別世界のもので圧倒されてしまう。
愛ちゃんは自然とそんな僕の隣りに座って来た。しかも近い。ほとんど触れてしまいそうな距離。愛ちゃんのその圧倒的肉体的実在感が僕に迫って来る。僕の全身の筋肉はビシッと固まるように締まり、緊張で自分の体じゃないみたいにその意志を失う。
「いいのか・・」
僕はすぐ隣りの愛ちゃんを見る。
中学一年になってすぐに行われたキャンプの時――。今でも忘れない、その夜行われたキャンプファイヤーでのフォークダンス。一部の女子は僕の手を握るのを嫌がって、手を浮かすようにして踊った。僕はそんな男だった。
「いいのか・・」
そんな僕が愛ちゃんに腕を組んでもらい、そして、今すぐ横に座ってもらっている。
「いいのか・・」
いいはずなのに僕はやはり自信がなかった。僕は女子を恐れていた。
「いいんだっ」
そうだ、僕たちは恋人同士なんだ。なんの遠慮もいらない。僕は、気弱な自分に言い聞かせた。
「それにしても・・」
それにしても、大人しそうな愛ちゃんの大胆さに驚く。
「今日は、なんだか積極的だなぁ・・」
愛ちゃんは今日は妙に大胆で、驚くくらい積極的な感じがした。
「もしかして・・」
もしかして、愛ちゃんも僕を求めている・・?この時の僕は女心というものをまったく理解していなかった。
愛ちゃんは、さらに体育座りの不安定な姿勢から、僕の体に寄りかかって来た。接触。
「おおおっ」
それだけで堪らない快感が走り、僕の体はさらに緊張で硬直する。
そして、愛ちゃんを見ると、愛ちゃんも僕を見返し無防備な笑顔を僕に向ける。完全に僕に安心しきっている表情だった。
そして、心の深いところで目が合った。
「あのクリリンマリリンは・・」
そんなこと今、滅茶苦茶どうでもいいのに、僕はそんな下らないことを口走っていた。
チャンスだ。
チャンスが来ているんた。三度目のチャンスだった。今度こそ、今度こそ、このチャンスをものにしなければ、もう二度とチャンスはないだろう。
「愛ちゃん・・」
今度はしっかりと周囲を見回す。大丈夫だ。当たり前だが誰もいない。
「・・・」
これで三度目。頭の中でのシュミレーションは、億がつくほどこれまで繰り返されてきていた。心の準備は万端だった。
そして、あゆちゃんと・・、実践経験も積んだ。完璧だ。完璧過ぎるほど完璧だ。逆にこれ以上の状況などない。
「いざゆかん」
僕は初陣に走り出す。
今度こそ、今度こそ。
僕はゆっくりとぎこちなく顔を愛ちゃんに近づけていく。愛ちゃんが嫌がるそぶりはない。愛ちゃんは僕を迎え入れてくれている。それを感じた。愛ちゃんも同じ気持ちなのだ。
「愛ちゃん・・」
今度こそ今度こそ・・。
「愛ちゃん・・」
大好きだ。愛ちゃん・・。
もう目の前だった。愛ちゃんの唇は、念願のキスは目の前だった。あと五センチ、四センチ、三センチ、二センチ・・、一センチ・・。
「来たぞ。ついに来た」
もうこれは触れ合うしかない距離まで来た。
「来た。ついに来た」
ついに来た。
「愛?」
その時、突然、ドアの外から声がした。愛ちゃんのおかあさんだった。僕たちは慌てて体を引き離す。あれほどに時間をかけ縮めた距離は、一瞬で宇宙の彼方まで遠のいた。
「入るわよ」
「う、うん・・」
愛ちゃんが答える。そして、扉が開き、愛ちゃんのお母さんが入って来た。
「はい、紅茶とお菓子」
「ありがとう」
愛ちゃんのお母さんは何かを察しているのか、僕たち二人を見て不敵な微笑みを浮かべている。多分もろもろ了解済みなのだろう。
「それじゃごゆっくり」
「は、はい・・」
そして、紅茶とお菓子の乗ったお盆をベッド前のテーブルに置くと、意味深な口調で僕を見ながらその言葉を残し、愛ちゃんお母さんは部屋から消えた。
「・・・」
沈黙。
なんだか妙に気まずい。そして、距離ができてしまった。心の距離ができてしまった。あれほど接近していた僕たちに、万里の長城レベルの壁と距離ができてしまった。悲しいかな、逆にあれほどに接近していたが故の距離だった。
あと少し、あと少しだったのに・・。しかし、この空気感からまたあそこまで持って行く精神的強さと技量を僕はまったく持ち合わせていなかった。
「またダメだった・・」
またダメだった・・。僕たちはキスのできない何かそんな運命なのだろうか・・。そう思えるほど、あまりに愛ちゃんのお母さんの入ってくるタイミングは絶妙だった。
「せっかくだから、食べましょうか」
愛ちゃんが、その微妙な空気を変えようとするように言った。
「う、うん」
僕は紅茶のカップを手に取った。しかし、僕の心は紅茶の味どころではなかった。僕はキス失敗という絶望の中にいて、意識は思いっきり虚ろだった。
「あちっ」
あまりに虚ろ過ぎて、紅茶を膝の上にこぼしてしまった。
「あっ、大丈夫ですか」
愛ちゃんが慌ててティッシュをとって、すぐに拭いてくれる。
「あつつつっ」
紅茶はめっちゃ熱かった。
「大丈夫ですか」
「うん」
でも、愛ちゃんが拭いてくれるとすぐにそれは楽になった。そして、僕たちはまた目が合った。
「・・・」
僕はゆっくりと、愛ちゃんの目を見つめたまま、紅茶のカップを置いた。
僕たちは再び接近していく・・。
唇と唇が触れ合った。
「ああ、愛ちゃん」
針の先ほどの接触。でも、たったそれだけで脳天から下半身に電撃のような快感が走る。刺激が強過ぎて、脳天がぶっ飛んでしまいそうだった。そして、さらに唇は、その接触面積を広げ、圧がかかっていく。
「愛ちゃん・・」
愛ちゃんの唇だった。
そしてどちらからともなく、舌を出し絡め合う。そこからはただお互いを求め合った。
「愛ちゃん」
僕はそのまま、愛ちゃんの中にとろけて消えてしまいそうだった。
愛ちゃんのふっくらとした少し濡れた唇の温かさとその舌先を感じながら、僕は快感の中に耽溺していった。
世の中にこんな気持ちのいい天国があるなんて知らなかった。世の中はまだ僕の知らないことばかりだった。
「愛ちゃん・・」
愛ちゃんとキスしている。僕は今愛ちゃんとキスをしている。しかも、一気にディープキスだった。これはまったく予定していなかった。
「ん?」
待てよ・・。
というか、キスどころか、このまま、一気にその先まで全部いけてしまうのではないのか・・?いや、行けるぞ。というか行く。この流れはそうだった。そのためのすべての条件は揃っている。
「うっ」
そんなことを考え始めた途端、僕の血流は突然沸騰し始め、心臓が爆動し始めた。
「う、うううっ」
「ど、どうしたんですか」
僕の異変に、唇を離し、愛ちゃんが驚いて僕を見る。
「いや、ああ・・」
答えようとしたその時、鼻の奥に何かぬるっとした温かいものを感じた。
「うあああっ」
そして、大量の鼻血が、鼻から吹き出るように溢れ出てきた。
「ああ、大丈夫ですか。ヒロシさん」
愛ちゃんが驚き慌てた声を上げる。
「は、鼻、鼻血が・・」
「あああ」
愛ちゃんがその血の量の多さに叫ぶ。
「わあああ」
僕も叫ぶ。恐ろしいほどに鼻血はドバドバ出て来る。
「ティッシュティッシュ」
愛ちゃんが慌てて、大量のティッシュを箱から抜き取り、僕に渡してくれる。僕はそれを素早く鼻に当てる。だが、そのティッシュはすぐに真っ赤になっていく。
「うううっ」
「救急車、救急車、お母さん、救急車」
そのあまりの勢いと量に、愛ちゃんが部屋の外に飛び出して行った。
ピーポーピーポー――
そして、僕は生まれて初めて救急車に乗り、病院へと運ばれていった。
「アレルギーとかある?」
とりあえず鼻血がとまり、診察室のベッドに横になる僕に医師が訊いた。
「いえ」
「何か持病は?」
「いえ、特に・・」
「何かぶつけたわけじゃないんだよね」
「はい、まったく・・」
「突然出てきた」
「はい」
「う~ん、おかしいな。それでなんでこんなに鼻血が出るんだろうなぁ」
その若い救急医の医師はしきりと首をかしげている。
「・・・」
多分、絶対真相は分かるまい・・。僕は思った。
「・・・」
妄想して興奮し過ぎたからですとは、絶対に言えなかった。




