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ファーストキス

「キスしちゃった・・」

 唇に残る微かな、それでいてはっきりとした感触の名残りを感じながら、僕は一人、帰りの道を歩いていた。

 僕は、あゆちゃんとキスをした。そのことの事実が、にもかかわらず、未だにそのことを現実として信じることができなかった。ファーストキス・・。キスをしてなお、自分がキスをしたという実感がなかった。

 ただ茫然としている自分がいた。ただ唇を重ねるだけのキスだった。でも、それは物心ついた頃から夢想していた、まぎれもないあのキスだった。

 それから、どこをどうやって帰ったのか覚えていないほど、僕は呆けたまま、そして、気づくと、僕は一人自分の部屋にいた。

「・・・」

 キスの感触がまだ生々しく唇に残っていた。なんだか何も考えられなかった。僕の中の世界が劇的に大きく変わってしまったはずなのに、でも、感覚は麻痺したままそのことを、理解できずにいた。

「キスしちゃった・・」

 僕は呟く。

「キスしちゃった・・」

 僕の意識はまだどこか呆けたままだった。

「子どもみたいなキスだったけどな」

「ん?わっ」

 見上げると凉美がいた。いつの間にか凉美が部屋にいた。

「見てたのか」

 涼美はそっぽを向いて顔を反らす。

「お前なぁ」

 僕たちをつけて来ていたのだ。

「ファーストキスだろ」

 凉美が面白そうに僕を指さす。

「うるせぇよ」

「見ちゃった」

 涼美はいたずらっ子のように笑う。

「見ちゃったじゃねぇよ」

 本当に最悪だ凉美は。後までついて来るとは・・、なんて女だ。僕の想像を超えて、こいつはすごい女だった。

「でも、俺、キスしちゃった」

 僕は凉美を見上げる。しかし、そんな凉美の存在なんかよりもやはり、今の僕にとってそれが一番の意識の中心だった。

「知ってるよ」

「愛ちゃんともまだしてないのに・・」

「お前つき合ってたのにキスもしなかったのか」

 凉美が驚いて僕を見る。

「・・・」

「そりゃフラれるわ」

「フラれてない」

 さっきまでの、なんとなくあった高揚感が一気にしぼんだ。

「あっ」

「なんだよ」

「・・・」

 ここで初めて、僕は愛ちゃんを裏切ってしまったことに気づいた。

「浮気しちゃった・・」

「今気づいたのかよ」

「愛ちゃん・・、ごめん」

 浮気じゃないんだ。

「浮気だな」

「浮気じゃない」

 僕は強く言い返す。

「早速浮気か」

 しかし、そんな僕を無視し、凉美は呆れたように言う。

「違う」

「さあ、そんな理屈が通用するでしょうか」

 凉美が、試すような目で、僕を見下ろす。

「・・・」

 絶対通用しない・・。

「ああ、お酒が飲みたいわ」

 その時、突然凉美が言い出した。

「は?」

 僕は凉美を見る。

「ビールがいいわね」

「何言ってんだよ突然」

「バドワイザーが飲みたいわ」

 凉美はさりげなく僕をチラリと見る。

「何言ってんだよ。自分で買って来いよ」

「愛ちゃんに言っちゃおっかなぁ」

 そっぽを向きながら、さりげなく呟くように言う。

「・・・」

 最悪だ。最悪だ。悪魔に弱みを握られている。僕はこの時、そのことに初めて気づいた。

 僕は一人、深夜のコンビニにバドワイザーを買いに行った。


「・・・」

 僕は将棋盤を食い入るように見つめていた。次の日、僕は部屋で丸ちゃんと将棋をさしていた。

「丸ちゃん強いね・・汗」

 何度も何度も将棋盤を見るが、やはり、明らかに僕の負けが確定していた。完全完璧に僕の王将は詰まれていた。僕はこの日、五戦〇勝だった。まったく歯が立たない。

「将棋だけは小学生の時からやっていたから・・」

 その大きな丸い体を縮こませるようにして、丸ちゃんは照れるように言った。

「意外な特技だね」

 どんくさそうな丸ちゃんだったが、以外に頭がいいことが判明した。

「いえ、これしかなくて・・」

 やはり、しきりに照れる丸ちゃんだった。

「しかし、凉美のやろうなんて性格が悪いんだ」

 その時、僕は昨日のことを思い出し、怒りを爆発させる。今日でもう何回目か数えられないほどの思い出し怒りだった。今日は何かというとこれを繰り返していた。

「丸ちゃんもそう思わないかい」

 僕は丸ちゃんに同意を求める。

「僕は・・」

 しかし、いつもどんな時でもみんなに話を合わせる丸ちゃんが珍しく否定的な顔をする。

「凉美さんはいい人だと思います」

「えっ」

 僕は驚く。

「あんなきれいな人、僕なんて他の人だったら口も利いてくれないから・・」

「・・・」

 確かにそうだった。あんな美人、僕など、口も利いてくれない。口を利いてくれないどころか、食パンい生えたカビを見るような目で見られるのが毎度のことだった。実際、僕のこれまでの人生はそうだった。

「・・・」

 そうか、そういう見方もあるのか・・。僕は、少し、凉美に対する見方が変わった。

「何で将棋なんだよ」

 そこに当の凉美がやって来た。

「いいだろ別に」

「コーラ」

 そこで、突然、何の脈略もなく凉美が言った。

「はっ?」

 僕は凉美を見る。

「駅前の自販機のコーラな」

「何言ってんだよ」

「早く飲みたいなぁ」

「誰が行くか。俺は今丸ちゃんと将棋をさしているんだ」

「へぇ~、そういう反抗的な態度とるんだ」

 凉美がチラリと意味ありげに僕を見る。

「なんだよ」

「言っちゃおうかなぁ・・」

「うううっ」

 最悪だ。やっぱり、最悪だ。

「早く買って来て、のどがカラカラ」

「うううっ」

 僕は怒りに打ち震えながら、しかし、立ち上がらざる負えなかった。

「自転車禁止な」

 そこにさらに、凉美が言う。

「なにぃ」

「走れよ。全速力な」

「お前なぁ・・」

「何、その反抗的な顔。そういう顔をすると電話しちゃうよ」

 凉美は、僕の部屋に置いてある電話の子機を手に取る。そこには、履歴として愛ちゃんの番号が入っている。そのことをしょっちゅう僕の部屋に来ている凉美は知っていた。

「分かった。行くよ」

 僕は凉美の手から子機をひったくると、コーラを買いに部屋を出た。「ダッシュな」

「うるせぇよ」

 その背後で凉美の笑い声が聞こえた。

「最悪だ。あいつは最悪だ」

 僕は走りながら、何度そう呟いていた。やっぱり、凉美は悪魔だった。


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