奇跡
「いてててっ」
「大丈夫ですか」
誰か観客の一人が、倒れる僕の傍に寄って来て介抱してくれる。
「くそっ、思いっきり殴りやがって」
僕はゆっくりと上体を起こす。顔面がヒリヒリする。凉美に殴られ、そして、そのままライブも終わり、僕の酔いも少し冷めた。
「あんたが悪いんでしょ」
凉美がまだ怒りの収まらない勢いで、上から僕を睨みつける。
「殴らなくてもいいだろ。しかも思いっきり」
僕は腫れた頬を押さえながら言う。
「殺されなかっただけ、よかったと思いなさい」
そう言って、凉美はプイッと行ってしまった。
「くそぅ、相変わらず無茶苦茶だな。まったく」
僕は小さく毒づいた。
「鼻血出てますよ」
その時、さっきから僕の傍で介抱してくれている子が言った。そして、ポケットティッシュから、一枚ティッシュを取り出して差し出してくれる。
「ありがとう」
僕はそれを受け取った。
「ん?」
僕は、鼻をぬぐいながら、その時初めてその子を見た。
「あっ」
その介抱してくれていたのはあゆちゃんだった。
「・・・」
僕はアホみたいに口をあんぐり開けて、すぐ横のあゆちゃんを見つめる。あの丸い顔がそこにあった。
「あゆちゃん・・」
一瞬で残っていた酔いが冷めた。
「・・・」
僕はその場に固まりあゆちゃんを見つめた。あのあゆちゃんが目の前にいる。これは一体・・。
「奇跡・・」
これは奇跡だった。これはまごうことなき奇跡だった。
「神はいる」
一瞬で、無神論な僕は、しかし、確信した。
「先輩?」
あゆちゃんが、あゆちゃんを見つめたまま固まるそんな僕の顔を覗き込む。
「えっ、あ、ああ」
それで僕は我に返る。
「大丈夫ですか」
僕の腫れた、鼻血の跡の残る顔を、さらに顔を近づけあゆちゃんが覗き込む。
「う、うん・・」
あゆちゃんの顔が間近に迫る。やっぱり最高にかわいい。僕は最高潮にどぎまぎしてしまう。
「びっくりしました。先輩が出てるなんて」
「う、うん、僕もびっくりしたよ。あゆちゃんが目の前にいる」
「えっ」
「あ、いや、あゆちゃんたちも出てたんだね」
「はい、このライブハウスは久しぶりなんです。やっぱりいいですね。ここ」
「うん・・」
あまり、いいとは思わなかったが、あゆちゃんが言うのだからいいのだった。
「すごい偶然ですね」
「うん」
まさに奇跡だった。実際は、狭い田舎町のこと、あり得ない話ではなかった。しかし、僕の中では、まごうことなき奇跡だった。
「あゆ~」
その時、入口の方で、他のメンバーがあゆちゃんを呼んだ。
「う~ん」
あゆちゃんがそれに返事をする。
「じゃあ、私行かなきゃ」
「うん」
またあゆちゃんは仲間に呼ばれて行ってしまった。
「奇跡だ」
だが、それは奇跡だった。今、目の前で奇跡が起こった。
「・・・」
あゆちゃんが去った後も、僕は感動の余韻に痺れていた。美少女から、先輩と呼ばれるのは男の夢だった。あゆちゃんの僕を先輩と呼ぶそのなんともかれんな声の残像が、今も僕の頭の中に、何度もリフレインし、響き渡っていた。
「生きていればいいこともあるんだな・・」
今、どこかの宗教に勧誘されたら、なんかすんなり入ってしまいそうなほどに、この時の僕は神の存在を素直に信じられるレベルで信心深くなっていた。




