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愛ちゃんの声

「ううううっ」

 僕はライブアハウスで愛ちゃんに会ったその日、自分の部屋で一人悶えていた。僕は自分が情けなかった。勇気がなく愛ちゃんに全然電話できていなかった。明日しよう明日しようと先延ばしにしてその結果として、愛ちゃんの方から電話させるなんて、なんて情けない男なんだ。

「うううっ」

 僕は自己嫌悪と、自責の念の渦の中で悶えまくった。

「あっ、悶えてる」

 涼美がそんな僕を見てからかうように言う。

「何で悶えているのお兄ちゃん」

 千亜が涼美を見る。

「恋だよ」

 涼美が千亜に耳打ちする。

「えっ、お兄ちゃんが恋?」

 千亜が素っ頓狂な声を上げる。

「そう、初恋だよ」

 そこで、ぐふふふっといやらしい笑いを涼美は満面に浮かべた。

「これが初恋をした男というものだよ。よく見ておきなさい」

 そこで涼美はさらにいやらしい、ほんといやらしい笑いを浮かべながら僕を指差す。

「うううっ、なんて、性格の悪い女なんだ」

 僕は、あらためて涼美の人格を疑う。だが、この国の社会の価値観とその文脈の中では、美人は何をしても大概のことは許されるというその共通了解の空気感があり、その中でどうしても免罪されてしまう。

「うううっ」

 僕はうなることしかできなかった。

「初恋は、人生で最も輝く瞬間であり、最高の瞬間でもある」

 その時、マチがいつものように、部屋の片隅の壁に背をもたせながら本読む顔を上げ言った。

「へぇ~、誰の言葉?」

 千亜が感心する。

「十九世紀のフランスの名もなき詩人の言葉よ」

「初恋は、人生で最も輝く瞬間であり、最高の瞬間でもあるか・・」

 確かにそうだった。確かに愛ちゃんは輝いていた。そして、最高の存在だった。

「でも、同時に、最大の悲しみの前触れでもある」

「不吉なことを言うな」

 うううっ、まったくどいつもこいつも・・。ほんと最低だ。

「でも、いいなぁ、私も恋がしてみたい」

 千亜が両手を胸の前で握り、夢見る少女のような目で虚空を見る。

「すてきなすてきな男の人と恋がしてみたいわ」

 千亜は夢見心地な目で言った。

「恋は幻想。誰の言葉だったかしら」

 すると、マチが一人首をかしげながら呟くように言った。

「流行り歌の歌詞だよ」

 僕がツッコむ。

「マチは恋をしないの?」

 千亜がマチを見た。

「私はフランスで恋に落ちるの。そう決めてるわ」

 マチはさらりと答える。

「ふ、フランス・・? 決めている・・?」

 恋は自分で決めるものなのか・・? 意味が分からなかった。

「まったく、頭のいい奴は何を考えているのかまったく分からん・・」

 あらためて僕はマチが分からなくなった。

「くだらないわ」

 そこで、涼美が吐き捨てるように言った。

「涼美おねえちゃんは恋をしないの」

 千亜は今度は涼美を見た。

「私は恋なんかしないわ」

「なんで?」

「恋っていうのは私に対して男がするものだから」

「かっこいい」

「お前らなぁ・・」

 ほんとに勝手なことばかり言いやがって。恋っていうのはな。恋っていうのはなぁ・・。

「うううっ」

 自分でもよく分からなかった。

 

 その日の深夜。

「もしもし・・」

「もしもし・・」

 電話の向こうから愛ちゃんの声が聞こえた。

「もしもし・・」

「うん・・」

 愛ちゃんの声が、僕の心に棲みつくあらゆる苦しみと渇きのすべてに、清涼な聖水のように染み渡っていく。

「うん・・」

 愛ちゃんの声・・。全てが許せた。涼美たちにバカにされたことも、今までの人生で味わったありとあらゆる屈辱も痛みも、すべてを許すことができた。

「何してたの・・」

「うん、ギター弾いてた・・」

「うん・・」

「うん・・」

 お互いの不器用な言葉の中に、でも、そこに、僕たちはお互いを強く想っていた。

「うん・・」

「うん・・」

「なんか言ってよ・・」

「うん・・」

 それから毎日、僕たちは深夜になるとお互い電話をして、何時間も何時間も語り合った。お互いのこと、自分のこと、今考えていること、趣味や音楽、漫画、映画、見ていたテレビ番組、そのほとんどは、生産性のない、意味のない、目的のない、無駄な、くだらない話ばかりだった。でも、溢れる青春の時間を惜しげもなくたっぷりと使って、僕たちは深夜遅くまでいろんな話をした。

 誰もが寝ている深夜の静寂の中で、僕たち二人だけが、電話の前でささやかに息をしていた。

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