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昨日の今日

 まるで昨日の晩のことが幻想であったかのように、太陽は昇り、雲は流れ、風はそよぎ、日常はまた動き出していた。

 僕は、寝不足と軽い二日酔いの平衡感覚の乱れの中、またスタジオに行き、現実逃避のように一人ギターをかき鳴らして、家に帰るところだった。

 結局、キスは出来なかった。

「彼女を大切に思っているんだ」

 僕は無理矢理自分にそう言い聞かせた。ただ怖かったというその事実を誤魔化して・・。

 でも、昨日の愛ちゃんとの時間は、一日経った今でも強烈な幸福体験として僕の中に宿り続けていた。まだ胸の中にほんのりと、愛ちゃんの温かい存在を感じていた。まだ心も体も痺れるような高揚感が僕を包み込んでいた。

 愛ちゃんのことを考えると、胸が痛くなった。彼女のことをちょっと思っただけで苦しくなった。初めての感覚だった。僕はどうしていいのか分からなかった。ただ苦しくて、でも、温かい何かも感じて・・。その二つの感情の複雑さの中で僕は悶えた。

 別れる時、愛ちゃんは、家の電話番号を教えてくれた。それが、今の僕の心の支えだった。最後に電話番号を書いた紙を渡してくれた時のあの愛ちゃんの、ちょっと恥ずかしそうな顔が、僕の目の前に焼き付いて、今も見えていた。

「よおっ」

 駅前に来た時だった。突然声をかけられ、僕はその方を見る。そこには中学の時、同級生だった山田と陸川が二人並んで立っていた。

「・・・」

 二人の口元にはニヤニヤとしたいやらしい笑いが浮かんでいた。

「元気?」

 そして、そのニヤニヤ笑いのまま、さらにバカにした感じで僕の顔を覗き込むように声をかけてくる。中学時代、同級生ではあったが、この二人とは、ほとんど口をきいたことはなかった。というか、口をきいてもらえなかった。

「・・・」

 僕は黙ってうつむいていた。僕が、高校を不登校になって辞め、引きこもっているということは、この田舎の閉鎖された狭い町の人間関係の中ではみんな知っていることだろう。当然この二人も知っているはずだ。

「生きてたか?」

 二人はさらに僕の顔を覗き込む。二人はとても楽しそうだ。

 二人は地元の有名な進学校に進み、山田はスポーツも出来、慶応にスポーツ推薦の話もあるという。陸川は中学の時から圧倒的に頭がよく、東大に行くという噂だった。

「・・・」

 僕がそれでもうつむき黙っていると、二人は、何が面白いのか、互いに顔を見合わせ、二人で同時に爆笑した。

「じゃ、元気でな」

 そして、散々笑った後、そのいやらしいニヤニヤとした視線を僕の顔に残し、二人は去って行った。

「・・・」

 堪らない屈辱感と怒りがこみあげて来て、体が震えた。僕は拳を固く握る。でもどうしようもなかった。僕にはなんの力も後ろ盾になる仲間もいなかった。バカにされても見下されても、昔から何もできなかった・・。どうすることも出来なかった。

「・・・」

 ただこの屈辱に耐えるしかなかった。

「クソッ・・」

 頭の中でどれだけ、あいつらを切り刻んでやっただろうか。しかし、そんなことは虚しいことだった。結局、現実は理不尽で絶望的な・・。

「何してんのよ」

「ん?」

 また声がして、僕はまた顔を上げる。

「あっ!」

 涼美だった。

「ああっ、あああ」

 僕は涼美を指差すが、言葉が言葉にならず、うめく。

「なんて顔してんのよ」

「聖心女学院!」

 やっと声が出た。涼美が聖心女学院の制服を着ている。

「お、お前、聖心女学院なのか」

「そうよ」

 涼美は澄まして言う。聖心女学院は、地元では誰しもが知る、山の手にあるキリスト教系の超名門のお嬢様学校だった。

「お、お前が・・」

 信じられなかった。

「校則とかめっちゃ厳しいって聞いたぞ」

「厳しいわよ」

 涼美は澄まして言う。

「校則厳しいのになんで、お前はお前なんだ」

 興奮し過ぎて、自分でも訳の分からないことを僕は口走る。いつも清純とはかけ離れたやたらとセクシーな格好をしている涼美が、今、目の前で、その上下真っ白の制服を、きれいに清純に着こなしている。髪もきれいに後ろで清楚に束ね、まったく同じ人間とは思えない身だしなみをしている。

「そこはうまくやってるわよ」

「・・・」 

「あたしに校則なんて効かないわ」

「・・・」

 意味は分からなかったが、なんか妙に説得力だけはあった。

「ていうかお前、高校生だったのか」

「そうよ。まだ花の十七歳。高校二年生よ」

「お前タメだったのか・・」

「そうよ」

「うう、年上だと思っていた・・」

 どこかに同世代の匂いは感じてはいたのだが、そのセクシーさに完全に騙されていた。

「うううっ」

 何かが、僕の心の中でガラガラと崩れる音を聞いた。

「俺はお前が年上だから・・、年上だからと色々と我慢していて・・」

「あなたが勝手に思い込んでいただけでしょ」

「うううっ」

 確かにそうだった。おっしゃる通りだった。

「うううっ」

 それでも、やっぱりなんか悔しかった。

「じゃあね」

 しかし、涼美は、目の前で懊悩煩悶するそんな僕を残し、その真っ白な制服をふわりと翻して去って行った。

「ううっ・・」

 しばらく、僕はその場に茫然と佇んだ。あまりのことに頭が真っ白だった。

「・・・」

 頭に若干色が戻ってくると、僕は、再び踵を返し、スタジオの方に向けて歩き出した。今日は死ぬまでギターを弾いてやろう。そう思った。愛と怒りと屈辱と悔しさと、その感情すべてを弾きまくってやろう。そう思った。

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