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湖畔

 打ち上げが終わると、みんな屋台の前の歩道と、深夜になりもはや車の通らなくなった車道に出て、バラバラに固まりだらだらとだべり始めた。しかし、そんな状況になっても愛ちゃんは僕の隣りにいてくれる。

「こ、これは・・」

 これは、これはもしかして・・。僕に・・。僕に・・。好感を・・。

 なんか興奮と不安がごちゃ混ぜになって、変なテンションになってきた。しかし、緊張で何をしていいのかが分からず、僕の体と思考は固まっていた。でもうれしかった。最高にうれしかった。愛ちゃんが隣りにいてくれる。いてくれる。

「へいへ~い、ヒロシ、オレさまはとってもハッピーだぜ」

 そこへ普段変なテンションが酒に酔ってさらに変になったジェフが、変なステップでお踊りながらやって来た。

「ヒロシ、オレさまはハッピーだ」

 僕の目の前に立ちジェフは両腕を広げもう一度言った。

「ありがとうジェフ」

 僕は何の前触れもなく思いっきりジェフを抱きしめた。愛ちゃんと出会えたのはジェフ、君のおかげだ。

「ありがとうジェフ、ありがとう」

「?」

 しかし、当然ジェフは何が何やら訳が分からず、僕に抱きしめられながらポカンとしていた。

「宏さんて言うんですか」

 再び愛ちゃんと向き合うと、愛ちゃんが言った。

「あ、うん」

 そういえば僕の名前を言っていなかった。

「いい名前ですね」

「へへへっ、ありがとう」

 僕たちはお互い少し照れて笑い合った。

「宏さん、あっちの湖畔に行ってみませんか」

「えっ」

 その時、愛ちゃんが言った。この町の中心には中途半端な大きさの透明湖という湖があった。

「えっ?」

 僕は最初、愛ちゃんが何を言っているのかうまく理解できなかった。今まで女の子にそんなことを言ってもらったためしのない僕は、たとえそれが日本語であろうと、その意味が理解できなかった。僕は思いっきりまごついた。

 愛ちゃんを見ると、僕のその反応のせいで、うつむき加減に恥ずかしそうにしている。

「あっ、嫌ですよね」

「えっ」

「ごめんなさい」

「え、いや」

 あまりのことに、声が出ない。何度も言うが、僕は今まで女の子に何かを誘われたことがない。だからこういう時、とっさにどうリアクションしていいのかが分からない。

「いや、あの」

「ごめんなさい。変なこと言っちゃって・・」

「い、いや・・」

「ごめんなさい。それじゃ」

 愛ちゃんは僕に背を向け友だちの方へ行こうとする。

「い」

 行く。絶対行く。何があっても行く。しかし声が出ない。また臆病な僕が僕を支配する。愛ちゃんは固まる僕を置いて行ってしまう。

「い、いや・・」

 しかし、声が出ない。

「い、いや、嫌じゃない」

 僕は、ジョージ・マクフライが、ビフを倒し、その後、魅惑の深海パーティーでロレインと踊り合う中、強引な男に無理矢理彼女を奪われ、怖気づき去ろうとするが、しかし、やはり、勇気を振り絞りその場に引き返し、男を押しのけ、彼女を取り戻す時のような勇気を振り絞り、愛ちゃんの背中に叫んだ。

「えっ」

 愛ちゃんが振り向く。

「行こう湖畔。湖畔へ行こう」

 僕はそんな愛ちゃんに向かって叫んでいた。

 湖畔は外灯がほとんどなく、ほぼ真っ暗な中に、遠い外灯のほの白い薄明かりと、月明かりという、どこか非現実的な幻想のような雰囲気だった。その中を二人で歩く。

「ここ座ろうか」

 僕がぎこちなく言う。湖畔に着くと、そこに丁度ベンチがあった。

「うん」

 僕が座ると、愛ちゃんが僕の隣りに座った。

「な、なんか すごく近い」

 すぐ隣りに愛ちゃんが座る。ちょっと動けばもう触れられそうな距離だ。愛ちゃんの体と肉感を強烈に感じる。

 ドキドキした。

「なんだこのドキドキ」

 心臓が壊れてしまいそうにドキドキする。

「何だこれ」

 なんだこれは。痺れるようなドキドキが全身を覆いながら、僕を不思議な高揚感へと苛んでゆく。

「何だこれは」

 透明湖と呼ばれるこの町の中心にあるこの湖は、かつては日本のスイスと呼ばれたほど美しく澄んだ湖だった。だが、戦後の高度経済成長時代に全国各地で巻き起こった公害や環境破壊の影響を御多分に漏れず思いっきり受け、今では青緑色をした腐臭漂う汚い湖に成り果てていた。

 しかし、この町のそんな恥部であるその汚い湖すらが、今は輝いて見えた。

 ほのかに光る街頭。月明かりに照らされた湖面。酔って火照った体に吹き抜ける心地よい風。

 キス。

 その単語が僕の頭に浮かんだ。いや、その単語以外が浮かびようがなかった。距離、シュチュエーション、雰囲気、全てが揃っている。

「こ、これは・・」

 これは、つまり・・、つまり・・。そういう時なのか・・。そういう場面なのか・・。

 彼女もそれを意識しているのが流れる空気と共に分かった。全ての事象はその方に流れ、全ての運命がそれを後押しする。

 しかし、僕の体は機械油の切れたブリキのロボットのごとく、固く固まり全く動かない。僕の体だけがその絶対的な流れに逆らっていた。肝心な時、いつも僕の体はこうなる。

「湖畔に来るの久しぶりだな・・」

 僕が呟くように言う。

「はい・・」

 愛ちゃんがそれにあいまいに答える。

 ぎこちない会話だけが虚しく続いてゆく。

「愛ちゃんは何か楽器やってるの」

「私はピアノを小さい時からやってました」

「そうなんだ」

 そんなことはどうでもいい。そんなことは滅茶苦茶どうでもいい。そんなの全然訊きたいわけじゃない。そうじゃない。そうじゃない。

 今大事なのは・・。今大事なのは・・。

「うううっ」

 しかし、僕は痺れて動かない体を引きずり唸るしかない。

 ちょっと前まで引きこもりだった僕に、突然こんな幸運を降らせても、それを受け取れるだけの準備が出来ているわけないじゃないか。

「神さまはなんていけずなんだ」

「えっ?」

「い、いや、なんでもない」

 なんていけずなんだ神さまは。僕は自分の情けなさを神様に転嫁して神さまを呪った。

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