グラトニー 後編
イオ、いや魔王は覚えていた。かつて、1人のオークに出会っていたことを。
それは人間と魔王軍との戦争の最中の出来事。年老いて前線を退いたオークナイトが行う新兵教育の現場査察の時に出会った。
荒野に設けられた訓練場で何百というオークの新兵達が剣術の稽古に励んでいた。
「王よ、新兵達の熟練度はもう間もなく実戦投入可能になります。あとは実戦でのみ鍛えられます故」
「そのようだな……だが……"あれ"はなんだ?」
視線の先には明らかに他のオーク達に比べ、剣の扱いが不慣れな1人のオークがいた。あまりにも剣の扱いが下手過ぎて、何百もいるオークの新兵達の中で悪目立ちしていた。
「ああ……あれは……"出来損ない"でございます。追い出しても追い出しても訓練に出てくるので、もういない者として扱っております。前線にも出すつもりはありませんので、ご安心を」
「そうだな。栄光ある我が軍隊にあんなみっともない兵がいては敵に笑われてしまう」
「おっしゃる通りで」
「…………"あいつ"と話をしたい」
「は?ははっ!!訓練止め!!」
老オークナイトの号令で新兵達の動きが一斉に止まる。"1人"だけそれに少し遅れて止まる。
「王のお通りだ。道を開けよ!!」
魔王の進路上にいる新兵達は一子乱れぬ動きで魔王が通る道を作り、膝まずいた。その動きは熟練した兵士の様ではあるが、やはり"1人"だけ行動が遅い。その"1人"の前に魔王が立った。体が他のオークに比べて小柄で如何にもひ弱そうだ。
「顔を上げよ」
しかし、顔を上げない。
「この"出来損ない"め!!お前のことだ!!王の命だ。顔を上げないか!!」
魔王の後ろで青ざめた老オークナイトが叱責する。
「お、オイラですか?王様?」
間抜けそうな顔をしているオークだった。
「ああ、そうだ。"出来損ない"と呼ばれているようだが、名は?」
「ぐ、グラトニーです」
「グラトニー……お前は何故ここにいる?」
「え?お、オイラ、剣が下手で、でも戦うには剣が使えなきゃで……」
「お前のような出来損ないが戦う?何故?」
「オイラの父ちゃん……人間に殺された!!だから、オイラが父ちゃんの敵を討つんだ!!」
周囲から笑いを堪えるような空気の流れを感じた。当然だ。敵討ちなどという行為に出るオーク、否、魔物などいないのだ。
戦いに生き、戦いに死ぬ。
それが魔物の誇りであり、本能だ。鳥が飛び方を知っているように、魚が水中での呼吸方法を最初から知っているように、魔物は戦うために生きているのだ。しかし、グラトニーにはそれが該当しなかった。戦うのに理由を持っていた。
「そのわりに剣術はお粗末だな」
「で、でも、オイラ、きっと戦場で人間を殺してみせます!!」
親を殺されたことへの復讐は嘘ではないだろうが、その瞳には闘争心や憎悪という感情は見られない。あるのは不安だった。こんな文字通りの出来損ないを戦場に出した所で戦力の足しにもならない。ひょっとしたら、足手まといだと仲間であるオークに殺され、夕食の足しにはされるかも知れない。
だが……
「いいだろう。ならば、明日より前線に出るが良い」
「ほ、本当ですか!?王様!!」
「ああ……せいぜい、人間への憎しみを忘れないことだな」
翌日訓練所にいるオークの新兵の誰よりも早く戦場に赴くが、案の定戦力の足しにもならず、夕食の足しにもなりたくないグラトニーは戦場から逃げ去った。その後は森に潜み、時々通りがかる人間を襲い、肉を喰らい、女は犯して過ごしていた。魔王が勇者によって打倒された後も、その生活は変わらなかった。戦場で戦えなかった分を少しずつ取り戻すように。何年も何十年も、何百年も。
やがて、グラトニーは1人の男に拾われる。
『人間を腹いっぱい食べさせてあげるわ。女も好きなだけ犯すのもいいわよ。そんな場所を提供してあげる』
そうして、行き着いたのがこの殺戮ショーだ。
「知っているぞ。お前に何があったか」
イオはボールで遊ぶようにライネの頭部をグラトニーに見せつける。しかし、グラトニーの注意は完全にライネの頭部からイオ、かつての主である魔王に向けられている。
グラトニーがショーに連れて来られたのは先々代の支配人の時期だ。最初の頃は筋肉質な大男のような姿をしたグラトニーだったそうだ。ボロい原始的な武器を持ったスラムの住人を持ち前の怪力で殺して、喰って、女は犯して、殺して、喰っていたそうだ。しかし、先代の頃からスラムの住人を殺すことに抵抗を見せ始めた。
『もう喰えない……もう殺したくない……』
そんなことを吐いたらしい。
だから先代はグラトニーから外科的手術で"理性を取り払った"。以降のグラトニーは文字通りの暴食を繰り返し、ショーは大盛況。見た目こそ今では醜くなってしまったが、それでも御釣りが来る。自分は観客が飽きないようにするだけ。
〔なのに、何だって言うのよ!?急に大人しくなっちゃって!!〕
このショーの主催者、あの癖の強い嫌味ったらしい声の支配人は闘技場の中で起きている初めての事態に苛立った。しかし、食べ進みが悪いのは今日が初めてではない。以前にも数度"食べ過ぎ"による食欲不振があった。
「ちょっと、何やってるの!?早く注射を撃ちなさい!!」
支配人は観客に気付かれないように無線で、裏方で待機している部下に命令した。
連絡を受けた部下はグラトニーが現れた扉の脇から銃口を覗かせ、グラトニーに向けて注射器を放った。注射器の中身は所謂強壮薬。以前食欲不振に陥った際もこれで何十人ものスラムの住人を"踊り食い"させた。
注射器が刺さった途端、グラトニーは唾液や汗を撒き散らしながら雄叫びを挙げた。
支配人はもちろん、観客達もいつものグラトニーが戻ってきたと安心した。その瞬間だった。
「オ、オオ……!!オオ……オオ……!!オ……ゴォ……ゴォ……ロォ……!!ジィ……!!デェ!!ゴォロジィデェ!!」
何を言っているかいまいちわからない。だが、明らかにグラトニーは言語を発していた。雄叫びを挙げながら。イオにはグラトニーの様子がまるで苦痛に耐えながら、必死に最後の願いを伝えようとしているように見えた。辛うじて取り戻した僅かな理性と知性を振り絞って発した言葉。
「殺して」
もしも、グラトニーがもう少し誇りや知性を取り戻していたら自害という道を選ぶこともできたのかも知れない。しかし、おそらく今は自分を何とか抑え、目の前にいる自分の願いを叶えられる唯一の存在に伝えるので精一杯なのだろう。
「……ああ、わかった」
イオはボールのように弄んでいたライネの頭を掲げた。
「"それは何人も逃れられぬ影。
足に、腕に、首に、頭に。
そして、心臓に。
朝も昼も無く、
常に影と共にある。
光では決して消えぬ影。
とこしえに広がり、包み込む。
さあ、抱擁の時だ"」
掲げたライネの頭部が一瞬で泥のように溶け、イオの足元に広がり、渦を巻いた。
この闘技場は地下にある。換気や空気の循環のためにいくつかの換気扇は設けられている。空調の設備もある。しかし、それらとは違う空気の流れが発生した。肌から温度を奪う冷気を伴う空気の流れがイオを中心に広がっている。得体の知れない事象に観客達から恐怖が滲み出る。しかし、恐いもの見たさが僅かに恐怖を上回り、観客達はその光景に見いっていた。
「"死よ"」
イオの足元に広がる渦がグラトニーの足元に移動すると、まるで食虫植物が虫を捕らえるように、渦の端が閉じて、グラトニーを包み込んだ。グラトニー自身も最初は得体の知れない渦を振り払おうともがくが、引きちぎることも噛み砕くことも出来ずに渦に包み込まれていく。そして、そのまま強烈な力で締め付けられ、5メートルはあろう巨体が原型を留めていない程に圧縮され、気が付くと渦もグラトニーも跡形もなく消え去っていた。