四話
ハウラで借りた部屋によく似た部屋で、フォティオスは目を覚ます。それでかれは、今までのことはすべて夢だったのではないかと思って、体の重さと痛さに思い直した。
「おや、目が覚めましたか」
「だっ、誰なのだっ」
次いでフードがないことに気付く。慌てて顔を隠すために出した両手も手袋に覆われていなかった。
「……っ父さんはどこなのだ!?」
「父というのがキュロスという男のことであれば、我々教会が保護しています。二日前に目を覚まされていますから、心配はいりませんよ」
「そう……そうか。良かったのだ……? 今教会って」
「はい。教会です。私は神官のケフィソドトスと申します。このハウラの村に隣接した森に魔族らしき気配を察知したので派遣されてきたのです。本当はもう少し後に討伐する予定だったのですが、丁度よくあなたがすべての注意を引き付けていてくださったので、最大火力を以て一撃で仕留めることができました。その点については感謝しています」
神官はフォティオスにこれまでの経緯を軽く説明する。そして雰囲気を改め、かれに向き直った。
「それで、フォティオスとやら。あなたは魔獣ですね?」
「……。そうなのだ」
「街に入っていましたね? それから、聖力を保持している」
「…………父さんは悪くないのだ。おれがこう生まれてきたせいなのだ」
フォティオスは、自分が咎められるのは仕方がないと思っていた。生まれ持った性質で生き方のほとんどが決まってしまうこの世界、聖と魔が反発し合うのは当然の理だから。だがキュロスが罪に問われるのだけは嫌だった。
「私はあなたに借りがあります。あなたが教会に飼い殺しになるならば、あの男は開放しますよ」
「嫌だと言ったら……?」
「あなたは死に、あの男も極刑に掛けられるでしょうね」
その言葉は、あまりにも軽々と放たれた。フォティオスがぐっと口を引き結んだ。
「おれ、は……」
「さあ。答えをどうぞ。生きるのと犬死と、どちらがいいですか?」
考えこもうとしたフォティオスに、ケフィソドトスは容赦なく二択を迫る。フォティオスはなんだか考えがまとまらなかった。そこに、昔父が言った言葉が頭に浮かんだ。
――人間は卑怯な生き物さ、フォティオス。そのことをよく知っていてくれ。
そして見えたその可能性に、かれは、賭けることにした。
「それ、どうしてもそれじゃなきゃあダメなのか?」
「……は?」
ケフィソドトスは予想外の言葉に少し驚いた。魔獣なんて、少しばかり言葉が通じても人間より頭が悪くて単純だ――そう、思っていたから。
「おれがもう人間にかかわらないで、父さんとも絶対に会わないで、一人で暮らしていくと言ったら、どうなのだ。……そうだ、今までためたお金もぜんぶやるのだ」
「失礼な獣ですね。そんなにお金に困っているように見えますか。……ですが一考の余地はなくもないでしょう」
「なんなら契約してもいいのだ。おれは……父さんが自由ならそれでいいけど、おれがそのかいごろしってやつになったら父さんはきっと悲しむのだ。だから……一人でも、おれは自由に生きなきゃならないのだ」
与しやすしと思っていた。だがこの魔獣は違う。悲し気に伏せた目には複雑な感情が、先ほどまでの言葉には他の魔獣と比べ物にならない知性が、明確に表れていた。
「……契約、ですか」
「血の契約が一番重いと聞いたのだ」
「……ッ」
死すらも代償にできるその契約の名を、フォティオスはさらりと口にした。何も知らずに言ったわけではない。契約を破れば死ぬ、それがなんだ。生きてさえいればいい。もう会えなくなった程度でフォティオスとキュロスの心は離れない。そういう、かれの決意だった。
「死が代償でもいい。父さんが自由でおれが自由で、それだけあれば、おれは十分なのだ」
「本当にわかっていっているのですね。はは、ふふ。分かりました。分かりましたよ、ええ。負けましょう」
ケフィソドトスは笑う。笑って、いかにも楽しげに、部下に契約書を用意させた。
――アンダルシア星教会と魔獣フォティオスは星の神々の名においてここに誓う。ひとつ、フォティオスは今後育ての親キュロスと交流しない。ふたつ、最後に村を出た日からフォティオスは人間と真人の住む領域に立ち入らない。みっつ、アンダルシア星教会は第一項及び第二項が守られている限り、キュロスとフォティオスの自由を保障する。
「これでよろしいですね。先ほども言いましたが、私はあなたに借りがあります。私は誇り高き真人なので、その程度は譲歩します。本部は契約を持ち出すなど承知しないと思いますが……私はこれでも責任ある地位ですからね。跳ねのけましょう。……まったく、聞くべきではなかったですね」
「……なんか騙してそうで不安になるのだ」
そう言ってもう一回契約書を隅々まで見るフォティオスだが、聖魔法は何も反応していないし、インクもきちんとしみ込んでいるように見えるし、紙が二重になってるなんてトラップもないように見える。
「あ。そうだ。人間と真人の住む領域というのは具体的にどこまでのことなのだ? 家からの距離を決めておいてほしいのだ」
「……侮れませんね。むしろ私の部下にしたいくらいです。まあいいでしょう。十以上の建造物がある場所から距離にして500サリル(約1200m)にしましょうか」
ちょっと恨み言でもいうような顔で呟かれて、フォティオスは少しかわいそうになった。というわけで。
「……そちらの契約違反の代償は決めていいのだ」
「おや、よろしいので? それでは遠慮なく。そうですね。アンダルシア星教会の教徒の中から無作為に百人が聖力を失うというのはどうでしょう?」
「は!? え、えげつないこと考えるのだ……」
力を失うことの恐ろしさをフォティオスは知らない。知らないが――かれでさえ、この聖力が自分の体をむしばむものであっても、それなしでいることはもはや考えられることではなかった。キュロスのように超常の力を持たぬ者を知っていても。
「私の動かせる力はここまでですね。さて、記入は終えました。署名を」
「わかったのだ」
書き上げられた契約書に目を通し、フォティオスは筆を執る。一瞬、かれの手から力が抜けかけ、もう一度しっかりと握りしめた。……署名してしまったら、かれは、家族をまた失う。
それでも、もう、止めるわけにはいかない。フォティオスの文字が確かに契約書へ刻み込まれた。
ケフィソドトスもそれに続き、最後に二人の血が垂らされた。契約は一度強く輝き、浮き上がった文字列は一つがフォティオスの、もう一つはケフィソドトスの中に吸い込まれるように入っていく。最後に残った光る文字列は少し迷った様子を見せてから壁の向こうへ飛んでいった。ケフィソドトスはその方向がアンダルシア星教会の教皇が存在する場所の方向だとわかり、かすかに笑みを浮かべた。
「さて、それでは私はこれにて失礼しますね」
扉の向こうにケフィソドトスらが消え、フォティオスは一人になる。
「疲れたのだ……いてて」
ケフィソドトスとのあれやこれやで忘れていた擦過傷やら何やらが一気に痛みを訴えだす。かれは素直にまた横になることにした。どうせ、かれの力ではかれの体を治せても魂を削るだけだとわかっていたから。
それでも重い傷はケフィソドトスに聖力で治癒を施されていたのだが、それはさておき。
そしてフォティオスが心身ともにすっかり健康になった日、かれとケフィソドトスはハウラの囲いの側に立っていた。辺りに他の生物の気配はしない。時刻は未明。見渡す限りの闇が二人の周りを取り囲む。
「……世話になったのだ」
フォティオスが言うと、ケフィソドトスは相変わらずの読めない笑顔を浮かべた。
「かまいません。あなたの存在は私と私の腹心くらいしか知りませんからね。さっさと逃げてください。いつかまた出会うことがあったら、その時はぜひ私の部下として魔族を倒しましょう」
「それは、遠慮しておくのだ」
どこかアリストデモスを思わせるようなような言葉にちょっと頬を引きつらせ、フォティオスはケフィソドトスに、ハウラに、……キュロスに、背を向ける。
「さようならなのだ。……人間」
「ああ、魔獣」
別れの言葉は短く、フォティオスはハウラの先に広がる森へ――つい数日前に死闘を繰り広げたそこへ、向かってゆく。ふりかえりもせずに。
「本当に、お別れなのだ、父さん」
ぽつりと。
その呟きだけを、残して。




