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いんだいれくと・ばれんたいん

作者: 白木サトミ

 俺の友人には、妙な噂があった。

 複数人と付き合っている、とか。

 社会人に貢がれている、とか。

 教師と不倫している、というのもあった。

 ストレートに、ビッチだという人もいる。

 根も葉もない噂は、笑って済ませてしまうのが一番なのだけれど。

 あまりにも噂の種類が豊富で生々しいせいか、信じてしまう人が校内に一定数いるのも事実で。

 具体性には、説得力が付随する。信じてしまう人たちの気持ちも、わからないでもない。

 でも、どんな噂が立とうと、俺は「そんなはずはない」と言い続ける。

 俺―青山正哉(あおやませいや)―は、花崎雅(はなさきみやび)の友人だから。

 間近で、雅のことを見てきたから。

 他者が広める噂に、心動くこともなく。

 決して雅の本質を、花崎雅という人間を、見失うことはない。

 雅が、どんな悪意に晒されようとも。

 俺が雅を見失うことはない。



 放課後の、夕陽が差し込む教室。

 一日の役目を終えた空間には、モラトリアムが希釈され、漂っている。

 乱れなく並んだ机と椅子。

 まっさらな黒板。

 エアコンから流れる温風が、静かに空気を揺らして。

 俺と雅。二人の息遣いだけが、静寂を震わせていた。

 隣席で文庫本に目を落とす雅。

 それに倣って、数年ぶりに活字に触れてみたものの、早々に集中力が尽きた俺。

 薦められた本を読み進めているフリをして、視線を雅へと滑らせる。

 濃黒の長髪は、かわいらしい青のリボンによって、一つに纏められている。前髪は眉にかかる程度。スカートは膝丈。学校指定の真っ白なハイソックス。

 指先は本一冊の重みにすら負けてしまいそうなほど細く、薄桃色の爪は桜の花弁のように整えられている。

 清楚。字面の美しさも含めて、雅を形容するに相応しい単語だと思う。

 決して、見かけだけの話ではない。

 成績は優秀で、動作や言葉遣いにも気品がある。口元に手を当てて微笑む同級生なんて、俺は雅以外に見たことがない。

 雅は、誰よりもまともに高校生をしている。


 ――男子でありながら、女子の制服を着ていることなんて、些細なことなのだ。


 生徒手帳に記載された校則には、制服の着こなしについての項目こそあれ、男子がスカートを穿くことについては一文も触れていない。

 そこまで調べ、ルールに則っていることを確認したうえで、雅は雅らしく振る舞っているだけなのである。

 こんな雅が、どうして淫乱扱いされるのか、俺にはどうしても理解が出来ない。

 こんな雅を見て、どうしてくだらない噂を信じようと思えるのか、わからない。

 不愉快で無根拠な噂が撒き散らされているという現状が、理解できない。

 信じがたいことだが、この世のどこかに雅を貶めようとする意思が存在するのだ。

では、原因はなにか。

 他人を貶める噂。つまりは、悪意。

 悪意を雅へ向ける理由は?

 俺には、わからない。心当たりも、ない。

 雅の傍にいる人間は―少なくとも俺の目が届く範囲にいる知り合いは―表層的には雅に好意的だ。

「……」

 自らへ向けられた悪意を知ってなお、取り乱さずにいられるのはなぜなのか。

「……どうしたんだい、正哉?」

 こちらを一瞥すらしていない雅に、俺の小さな困惑はすっかり見透かされていた。

 ごまかすかべきか、少し迷った後。俺は覚悟を決めた。

「お前さ、どこかで恨み買ってないか?」

「……どうして、そんなことを尋ねるのかな?」

「みんなが、お前の噂ばかりしてるから」

「ふーん」

 平坦な返事。

 だが、この話題を一度始めたからには、突き詰めておきたい。中途半端で終わらせてしまう気はない。

「……もしかして知ってるのか? 噂のこと」

 雅は基本的にクールだが、今の無反応には不自然さが僅かに滲んでいた。

 心構えが出来ていたような――知っていたような、平静。

「まあ、一応は」

 言いながら、雅は小説を一ページ捲った。

 傍から見る風景と、中心から見える光景は異なる。

 雅本人には、貶められる心当たりがあるのだろうか。

 俺の目には見えていないものが、雅の立ち位置からは見えていたり?

 涼やかな目には、いったいなにが映っているのか。

「気にならないのか?」

「あまり。……正哉こそ、随分と興味があるみたいだけど。もしかして、その噂を信じているのかな?」

「ぜんぜん」

「なら、いいじゃない」

「よくない」

「なぜ?」

「……お前が、困るだろ」

 俺の言葉を聞いて、雅は前髪を撫でた。

「……ふぅ、今日はここまでにしとくよ」

「あ、悪い」

「んーん、キミのせいじゃないよ。キリがいい所まで進んだから」

 ぱたん、と文庫本を閉じて、雅は鞄を手に取った。

「帰ろうか、正哉」

 俺の質問に対する答えを寄越さないまま、雅は立ち上がろうとしている。

「ふふっ、不満そうだね」

「……そんな顔してるか?」

「ううん、ぜんぜん」

 雅は楽しげに微笑んだまま、浮かそうとした腰を、静かに下ろした。

「でもね。『お互い様』だと思うよ」

「……」

 雅には、たまにこういう所がある。

 俺が困惑するのを見て、喜ぶような一面。

 サディズムとは、少し違うのかもしれない。

 俺が怪我した時などは、真剣に心配してくれる。

 俺が試験勉強に苦戦している時は、優しく付き添ってくれる。

 ちょっとした俺の失態を弄る時は、子供みたいにはしゃぐこともあって。

 俺が拗ねてみせると、こちらが機嫌を直すまで、頬をつついてくることもある。

 雨の日。俺が傘を忘れたことを一通りからかった後、おどけて腕を組みながら、傘に入れてくれたりもした。

 雅という人間は、やや掴みどころがない。

 大人っぽいようで、不意に子供っぽいこともある。

 かわいらしい時と、シリアスな時の落差が大きい。

 ただ、俺以外の同級生には、決してそのギャップを見せることはない。

 ポジティブに考えるなら、俺は信用されているということになるのだが。

 そうであることを願いつつ――やはり、雅が俺をどう見ているのか、わからない。

「ちなみに。正哉が聞いたボクの噂って、どんな噂?」

「ビッチとか、そういう」

「あははっ。ちょっとは隠そうとか思わないの?」

「知ってる、って言ったじゃねーか」

 隠す意味がない。

「まあね、くくくっ」

 心底おかしそうに、雅は肩を揺らして笑った。

「ビッチね。ふむふむ、そっか」

「んなわけねーのにな」

 一笑に付すつもりだった。だから、


「事実なら、どうする?」


 なにげなく放り投げられた言葉は、予想外の角度で、俺の心を思った以上に深く抉った。

「ボクが……みんなが言うように、いろいろな男の人と仲良くするような人間だったら、どうするの?」

 不意を突かれたのは、一瞬。

 俺は、すぐに俺を取り戻す。

「ありえないだろ、そんなの」

「……根拠もないのに、そこまで言ってくれてありがとう」

 数秒の沈黙。

 どんな言葉を口にすべきか迷っていると、雅が先に口を開いた。

「正哉は、ボクが淫乱だとみんなに思われていることが、気に入らないの?」

「当然だろ」

「なぜ?」

「なぜって……」

「淫乱だったら、ボクのことを嫌いになる?」

 質問の意図が読めない。

 けれど、俺のことを見つめる雅の瞳は、なにかを探っているようで。

 俺は、なにも口にすることが出来なくなってしまう。

「ボクがたくさんの人とえっちしたら、誰かに迷惑が掛かるかな?」

 表面的には、俺をからかっているような――実際は、ひどく自虐的な言葉だった。

 こんな雅は見たことがない。

 俺が想定していたのとは、違う方向へ転がっていく言葉。

 背中に冷たいものを感じていると、雅がふっと口角から力を抜いた。

「冗談だよ」

 笑えない冗談だった。

 笑えない、というだけでなく。

 俺の胸には、怒りさえ湧き上がっていた。

「さてさて、帰ろう。時間だ」

 反射的に、雅の腕を掴んでいた。

 あまりに細くて、そのまま力を籠め続けたら、あっけなく折れてしまいそうな腕を。

 待て。ふざけるな。本当なのか。教えろ。様々な言葉が脳裏に浮かんで、そのどれも口にすることは、出来なくて。

 雅なら察するだろうと、大きな瞳を見つめる。

「そういえば、明日はバレンタインデーだね、正哉」

「……はぁ?」

 あまりも唐突で、脈絡がなくて。

 その声には、幼子へ母親が向けるような慈愛さえ滲んでいた。

 雅がなにを言っているのか。俺が理解する前に、雅は言葉を続ける。

「――よければ、これからチョコレートを買いに行きたいんだ。付き合ってくれないか? たくさん買う予定だから、正哉にも手伝って欲しい」



 雅が髪を伸ばし始めたのは、四年前の、ちょうど今ごろ――中学二年のバレンタインデーからだった。

 その年は、奇跡的に俺も義理チョコを貰えた年だったから、よく覚えている。

 俺なんかにチョコをくれたのは、たまたま席が近かった片瀬さん。

 明るくて、綺麗で、少し意地悪な女の子。

 そういえば、あの子も長髪をリボンで纏めていた。

 みんなの前では、優しくて、楽しくて、良い人で。

 そんな彼女が、不思議と俺にだけは素っ気なかったり、意地悪だったり、妙に馴れ馴れしかったり。

 俺のことを、完全にスクールカースト下位だと認識していたのかもしれない。こいつなら、多少の粗を見せても、地位や生活が瓦解することはないと、タカを括られていたのかもしれない。

 俺は俺で、たとえ相手が片瀬さんだろうと、媚びるのはめんどくさいなどと考えていて。

 だいぶ雑に接していたと思う。雑といっても、決してぞんざいに扱っていたわけではない。雅にそうするように、必要以上に気を遣うことをしなかった。

 なのに、片瀬さんは俺にチョコをくれた。

 手のひらに乗るような、小さなチョコではなく。丁寧にラッピングされた、手作りチョコだった。

 義理だから。余ったやつだから。

 受け取る際にそう念押しされたおかげで、勘違いはせずに済んだけれど。

 それでも、嬉しかったのだ。人生で初めて、女子から貰ったチョコだったから。

 

 人生初の体験に感動していた俺の横で、雅は両手で持ちきれないほどのチョコを机の上に並べていた。

 当時から中性的で整った顔立ちだったけれど、制服は男子のもので。一人称も、ボクではなくオレだった。

 あの頃の雅は、ごく自然に人の輪へ溶け込んでいた。

 今よりもテンションが高くて、口調も仕草も年相応で。

 どちらかといえば、俺よりも片瀬さんに近い立ち位置に居たと思う。いわゆる、一軍というやつだ。

 俺は近付くことも出来ず、近付こうとも思わず。

 雅がたまたま人の輪から外れた時。その合間に俺とつるむ。そんな感じの距離感だった。

 そんな雅が、本命義理問わず山のようにチョコを貰うのは、必然だったと言ってもいい。

 普通の男子なら、喜び、舞い上がるような状況。

 なのに。雅は、なにが不満だったのか、みずみずしい唇をへの字に曲げていて。

「食べきれないから、いくつか持っていく?」

 と投げやりな口調で問われたので、

「いらない」

 と強がってみせた。

 今でも、なぜ雅が不機嫌だったのかは、わかっていない。

 わかるのは、おそらくその日がきっかけだったということだけ。

 バレンタインデーから一夜明けた、二月十五日。雅の纏う空気が、仕草が、ほんの少し変化した。

 なぜか素っ気なかったり。よくわからないタイミングで意地悪になったり。妙に距離感が近かったり。

 今でこそだいぶ馴染んだが、あの頃の雅には、まだぎこちなさがあった。そのことを指摘したらグーで肩を殴られたから、雅も自覚していたんだと思う。

 内面だけでなく、外見にも変化が生まれた。

 前髪だけを綺麗に整えつつ、髪を伸ばすようになって。

 春休みの間、俺の誘いはことごとく断られて。

 中学三年の始業式。

 待ち合わせ場所である二丁目の交差点に、少し髪が伸びた雅が、女子の制服を着て現れた。

 なんでもないという風に、素知らぬ顔で「おはよう」と言った雅。


 あの時だった、と思う。

 雅が、ほんの少しだけ変わったのは、おそらくあの日から。

 なにが、と問われると、はっきりとした答えは持っていないけれど。

 雅と――もしかしたら、俺も。

 小さな何かが、変化した日だったと思う。

 

 

 どこから流れてきたのか、分厚い雲が空を覆っている。

 鮮やかな夕陽はビル群の向こうに沈んで、肌を刺す空気だけが残った。

 駅ビルの中央口から伸びるタイル張りの一本道は、ライトアップされた並木に彩られていて。

 幻想的だな、と感傷に浸る――ことも出来たかもしれない。こんな状況でなければ。

「助かったよ。本当にありがとう、正哉」

 鞄を抱きかかえながら、水色のマフラーを揺らす雅。

 その横で、右手に鞄を、左手に紙袋をぶら下げている俺。

 たくさん買う予定だから、という言葉に偽りはなかった。紙袋の中には、雅がたっぷり二時間かけて選んだチョコが詰め込まれている。

「……こんなに買って、大丈夫なのか?」

「ん、大丈夫。ちゃんと、配るアテはあるから」

「そうじゃなくて…………金とか」

 違う。

 そんなことが聞きたいのではない。

 いや、もちろんこんなにチョコを買って、小遣いは大丈夫なのかと心配になるけれど。

 俺の胸に引っ掛かっているのは、そんな部分じゃない。

「それも大丈夫だよ。割のいいバイトを見つけたから」

「バイト?」

 初耳だった。

「うん。お手軽で、すぐにお金がもらえるバイト」

「…………どんなバイトだ」

「ふふっ、どんなバイトだと思う?」

 煽情的な微笑が、頭一つ分低い位置から俺を見上げている。

「知らね」

「答えてよ」

「……競馬とか」

「なにその一ミリもおもしろくない冗談」

「うるさい」

「……ヒントをあげようか?」

 無視して歩いていると、

「本当に興味ない?」

 小さな声に、そう問われた。

 振り向いたら負けな気がして、俺は前方を、並木通りの先で紺碧色に輝く噴水を睨みつける。

「お客さんは、おじさんばっかり」

「……」

「妻子持ちが多いかも」

「……」

「人によって、羽振りの良さはまちまちかなぁ。交渉次第って感じ」

「……嘘だろ」

「……なんでそう思うの? もっと詳しく話してあげようか?」

「詳しいとか、そういう問題じゃない」

「じゃあ、なんで嘘だと思うの?」

 簡単だ。

「お前が、楽しそうじゃないから」

 声は弾んでいる。俺の顔を覗き込む表情は、にやついている。

 でも、目が笑っていない。むしろ、怯えている。

 挑発しておきながら、なにかを怖がっている。

 なにを考えているかは分からなくとも、機微――と呼ぶにはあまりにも大きな感情の揺らぎくらいは、俺にだって読み取れる。

「……そのチョコね、他校の男子にあげようと思ってるんだ」

「嘘だな」

「……こないだね、相模先生に別れ話されたの。だから、そのチョコを先生の家に送って、思い知らせてやろうとか、考えてたり」

「嘘」

「……そのチョコ持って、援交相手に愛想振り撒くの」

「それも嘘」

「……チョコ選びながら、キミは喜んでくれるかなって、ずっと考えてた」

「……」

 嘘では、ない。

「そのチョコ、ぜんぶキミにあげるつもりで選んでた」

 これも、嘘じゃない。

「キミなら、こういうのが好きそうだなって、一生懸命悩んでた」

 やっぱり、嘘じゃない。

「これだけ悩んだんだから、キミも……ホワイトデーで、たくさん悩めばいいのにって思ってたよ?」

 ショーケースを見つめる横顔が、妙に真剣だった。

 わざわざATMで小遣いを引き出してまで、なぜこんなに大量のチョコを買うのか、疑問だった。

 俺に渡すため?

 俺に、たくさんのチョコを渡して――

「……バイトしなきゃ」

「うん……え? バイト? ……なんで?」

「小遣い、足りそうにないから」

「……」

「ホワイトデーには間に合わせなきゃいけないから、早めにごっふぉ⁉」

 覚悟を決めている最中に、脇腹が爆発した。

 空気が肺から飛び出した後、一秒遅れで腹筋が収縮し、身動きが取れなくなる。

「……ひっどい勘違いをされたのだけは、わかった」

 真顔の雅が、至近距離で俺の目を見つめている。

 憤怒を通り越した殺意を、収縮した瞳孔から感じ取った。

「本当にムカつく!」

「な、なにが?」

「ボクのチョコがどういうチョコだと思った? 十文字以内で」

「……一生懸命美味しいチョコ選んだから、お返し頼むぞチョコ」

「ぜんぜん十文字に納まってないんだけど」

 無茶言うな。

「もう一つ質問。……ボクが、お返し目当てで、キミに無理矢理チョコを押し付けるような人間だと、本気で思ってる?」

 

 思ってないよ。当たり前だろ。


 だから、驚いたんだ。

 驚いて、混乱して。

 でも、答えがわからなくて。

 わからないから、咄嗟に浮かんだ「間違っている」とわかりきった理屈を、とりあえず飲み込もうとした。

「……ギリギリだけど、まあいいや」

 俺の逡巡を見てなにかを悟ってくれたのか、雅は俺の脇腹に食い込んだ鞄を、ゆっくりと引き抜いた。

「あのね、正哉」

「うん」

「ボク、キミがなにを考えてるのか、ぜんぜんわかんない。ずーっと、わかんない」

「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」

 雅のことは、わかっているつもりだけど。

 雅がなにを考えているのか、ぜんぜんわからない。

 不思議な沈黙を抱えたまま、俺たちはとぼとぼと歩き、やがて並木道の終わりへ辿り着く。

 遠くで煌めいていた噴水が、飛沫の届く位置にまで迫っていた。

「どうすればキミが――」

 キミが。雅はたしかに、そう言ったのに。

 俺が聞かなければならなかった言葉を掻き消すように、水が一斉に噴き出した。

 舞い踊る飛沫が、青いライトによって照らされている。

 青は、美しいと思う。

 澄んでいるから。清らかだから。

 人は自らが持たないものをこそ欲するというが、その通りだ。

 ただ、今はその美しさが、雅の言葉をさらっていってしまった。

「雅、ごめん。もう一回言ってくれるか?」

「……なんでもない」

 同じ言葉を、二度言うつもりはないようだった。

 噴水へと向き直って、

「綺麗だね」

 ぽつりと呟いた雅。

 その横顔は、幻想的な紺碧色に染まっている。

 瞳は、もう俺を見ていない。

「……ああ」

 切実な雅の言葉に比べて、俺の相槌はどこまでも陳腐で。

 正体不明のもどかしさを、静かに噛み締めていた。



 どのくらい、二人で噴水を眺めていただろうか。

 冷気は、すっかり体の芯にまで沁み込んでいる。

 紙袋を持つ左手は、とっくに感覚がない。

「行こうか」

 雅の言葉に、無言で頷いた。

 どちらともなく、歩き出す。

 鮮やかな噴水の脇を抜け、並木通りに比べると薄暗いバス乗り場へ向けて歩いていると、

「そういうわけだから、そのチョコはぜんぶ、キミが一人で食べてね」

 唐突に、そんなことを言われた。

「――嬉しい? ボクから、たくさんチョコをもらえて」

 どう返せばいいのか、わからない問いだった。

 適当に肯定するのも、違う気がする。

 だが、大金を注ぎ込むところを目の当たりにしたプレゼントを、無粋な言葉でけなす気にもならない。

 だから、正直に。

「まあ、嬉しい……かな。一応」

「そっか」

 満足してもらえたかは、わからない。

 少なくとも、露骨な不満は見えなかった。

 苦し紛れに、話題の転換を図る。

「全部食べたら、体重どのくらい増えるかな」

「あははっ、どうだろうね?」

「……というか、そもそも人間ってこの量のチョコ食っても大丈夫なんだろうか」

 考えるまでもなく、ヤバい気がするのだが。

「……たしかに。それもそうだね」

 突然、雅が立ち止まった。間髪容れずに、小さな手がチョコの入った紙袋へと伸びる。

 雅が取り出したのは、他のチョコに比べて随分とシンプルな――というよりも、コンビニでも売っているような板チョコだった。

「……ん?」

 板チョコ。

 見慣れた存在だからこそ、違和感があった。

 雅と回ったショップに並んでいたチョコは、どれもバレンタイン仕様の気合いが入ったラッピングのものばかりだったのに。

 雅が手にしているのは、正真正銘、ただの板チョコ。

 どこに売っていたのだろう。少なくとも、一緒に回ったショップには無かった気がする。

「正哉に死なれたら困るから、これはボクが食べてあげる。カロリーを減らしてあげよう」

「焼け石に水だろ」

「ふふっ、感謝してくれていいよ」

 雅は恩着せがましいドヤ顔をしながら、板チョコの包み紙を綺麗に剥がしていく。

「……はむっ」

 噛みつく、というよりは、唇で甘噛みするような食べ方だった。

 板チョコに沿うように形を変える、柔らかそうな桜色の唇。

 体温で、チョコを溶かして。飲み込むように、口に含む。

 味わっているのとは、少し違う。

 まるで、感触そのものを楽しんでいるかのようだった。

 あまりに独特な食べ方だったせいか、いつの間にか雅の口元に、その動きに見入ってしまっていた。

「……欲しいの?」

「は、え?」

 欲しい。その言葉が、なにを指しているのか。

 混乱した思考が間違った方向へ転がり落ちようとしたところで、

「なら、一口だけあげる」

 目前へ、板チョコが突き付けられた。

「あ、ああ。チョコな、うん」

 一瞬でも、桃色な勘違いをしてしまった自分が恥ずかしい。

 などなど。羞恥や自戒に思考能力を奪われていたからかもしれない。

 差し出されたチョコを、俺はぼんやりとしたまま一齧りしてしまった。

 まろやかな甘みが、口内に広がっていく。

 とても普通な、どこにでもあるチョコの味だ。

「……おいしい?」

「あ、ああ、まあ」

「――なら、今日はこれで勘弁してあげるよ」

 満足げな雅は、板チョコをひらつかせる。

「いやいや、ちょっと待てって、雅」

 雅を貶める噂、その出所。

 雅が大量のチョコを買い求めた理由。

 そのチョコを、俺に押し付けた意味。

 板チョコは、どこから紛れ込んだのか。

 板チョコを齧ったことで、俺はなにを勘弁してもらったのか。

 結局、なにもわからないままだ。

「……なんなんだ、いったい」

「それは、こっちの台詞だよ」

 その答えも、わからない。

 手を伸ばせば、届く距離で。

 俺と雅は、互いの目を見つめ合う。

「やっぱり、正哉のこと、なんにもわからない」

 俺もだよ。

 お前のことが、わかるけど、わからない。

 でも、一つだけわかっていることがある。

 雅がどうこう、ではない。

 俺は、俺だから。

 俺のことだけは、はっきりとわかる。

「あのな、雅」

「なに?」

 会話の始まりに。

 チョコを買う前に。

 まず、伝えておくべきたった言葉。

 言うべき時に、言えなかった言葉。

 雅が、自分のことを俺に開示してくれなくとも。

 俺が、雅へ自分を開示することは出来る。

 察することばかりで、察してもらえると思ってばかりで。

 もしも、それが今この瞬間の違和に繋がっているのならば。

 ただ、思っていることを言葉にしたい。そう思った。

 教室で、問いに答えてもらえなかった。

「…………俺さ。お前が悪く言われるの、嫌なんだ」

 原因は、どうでもいい。

 雅が悪く言われるのは、嫌だ。

 俺が、嫌だ。

「だから、さっきみたいな……援交とか、おっさんとか……そういうこと言うの、やめろよ。俺は嘘だってわかるけど、他の奴らはわからないから。お前が誰とでも付き合うような奴じゃないって、俺はわかってるけど」

「……うん」

「逆に言えばさ、俺はわかってるつもりだから。だからむぐっ!」

 真摯な言葉を吐き出している最中の口が、甘みで塞がれてしまった。

 チョコを口につっこまれた。そう思った。

 甘かったから。

 さっき口にしたチョコと、同じ味だったから。

 ――でも、なぜか柔らかかった。


「『気にならない』よ。キミが、そう言ってくれるなら」


 澄んだ声と、遠ざかっていく甘い香り。

「まったく。最初から、そう言ってくれればいいのに。そしたら、こんなに回りくどいことしなくて済んだんだから」

 回りくどい、とは。

 その言葉の意味は、わかるようで、わからない。

 少し考えれば、わかるのかもしれないけれど。

 今の俺には、なにもわからない。

 なんとなく、雅は自分のことを棚に上げている気がした。

 追求したい気持ちはあるが、揺れる黒髪は俺を置いてどんどん先へ進んでいく。

 

 やっぱり俺は、雅のことを、なにもわかっていないのかもしれない。

 けれど。

 流れる髪の隙間から見えた笑顔は、少なくとも取り繕った偽物ではなかったような気がした。

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