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説得

 実験用工房と石鹸工房を何度か往復して、石鹸の資料と材料を全て運び終えた。これで石鹸工房の受け入れ態勢は完了だ。

 作業の最中にエマが居なくなっていた。おそらく家族のところに戻ったのだろう。早めの決断を期待したい。


 一通りの作業を終えても時間が余ったので、石鹸工房の準備にあてた。日が沈むまで石鹸工房で過ごし、店に帰った。

 店ではルーシアが1人、閉店の作業をしている。フランツは奥でサニアの手伝いをしているらしい。


「お疲れ様です。閉店作業、手伝いますね」


「あ、お疲れ様です。ありがとうございます。お願いします」


 ルーシアは手を動かしながら笑顔をこちらに向けて答えた。

 売上伝票をまとめているようだ。1日の売上を集計する、閉店作業で最も重要な業務。邪魔をしないように店内の後片付けをする。


 カフェスペースの掃き掃除をしていると、店の扉が突然開いた。もう閉店時間なんだけど……。


 扉の方に目を向けると、息を切らしたエマが扉にもたれかかっていた。俺と目が合うなり、こちらに駆け寄ってくる。


「助けてください……」


 エマは涙を流しながら、俺の腰に縋るように抱きついた。エマの顔が俺の股間に埋もれる。大丈夫だよね? 臭ってないよね?


「とりあえず落ち着いてください。大丈夫ですか?」


 エマからの返事はない。嗚咽だけが聞こえている。背後に視線を感じて振り返ると、ルーシアが怒りと不安が混じったような複雑な表情を浮かべて俺を睨んでいた。


「ツカサさん。何があったんです?」


「さあ……? 話を聞いてみないことには、僕にも分かりません」



 閉店の準備を一時中断して、カフェスペースの椅子にエマを座らせた。

 俺の股間が涙と鼻水でぐっしょりだ。無駄に吸水性が高い生地のズボンなので、()()()()をしたようになっている。着替えたい……。


「何があったか、お話しいただけませんか?」


 俺の問いかけにも、エマは何も答えない。


「ねえ、エマ。何があったの? 言ってくれなきゃわからないわよ?」


 見かねたルーシアが優しく声を掛けた。すると、エマはゆっくりと口を開く。


「……兄さんが……私に『娼館で働け』って……」


 ん? それだけ? そんなに泣くことか? うぅん……。分からない。納得できるなら働けばいいし、嫌なら拒否すればいいだろう。どこに悲しい要素があるんだ?

 と思ったら、ルーシアは「そんな……」と呟いて言葉をなくした。え……どこに共感したの?


 拙いな。俺だけ取り残された。誰かエマの感情を分かりやすく説明してくれ。


「どういうことでしょうか。詳しく教えていただけませんか?」


「ちょっと! ツカサさん! エマに気遣ってください」


 なぜかルーシアに怒られた。なんなんだよ、マジで。



 ルーシアの手を引いて店の隅に連れ込み、小声で聞く。


「どういうことなんですか? 僕はエマさんの家族のことを知らないので、話が理解できません」


「……ツカサさんは娼館が何か分かっています?」


 ルーシアは怪訝な表情で俺を見る。


「なんとなくは分かっていますよ。日本にも、似たようなお店がありましたから」


 法律に違反していない限り、どんな仕事に就くのも個人の自由だ。働きたければ働けばいい。まあ、俺は絶対にお薦めしないが。

 病気、周りからの偏見、金銭感覚の狂いなど、リスクが多すぎる。それでいて給料は他よりも少し高いだけ。短期間で大金を得ることはできるが、失うものが多すぎるんだ。無理をしてでもやらなければならない仕事ではない。


 それでもやりたいというなら働けばいい。好きでやっているのであれば問題ないし、立派な職業だ。


「その口ぶりですと、ツカサさんが知っている娼館とは違いますね……」


「え? 何が違うんです?」


 違法なのか? それなら全力で止めるぞ。違法な仕事はそれなりの覚悟と技術が必要だ。素人が手を出していいことではない。それは日本で痛感した。


「簡単に言うと、『娘を売る』ということなんです。入店した時に契約料を渡されて、契約期間中は辞めることが許されません。外出することもできなくなります」


 おや。穏やかじゃないね。悪徳金貸しが違法風俗店と結託して女性を陥れる手口によく似ているじゃないか。

 確か、業界用語で『風呂に沈める』だったかな。借金で女性を縛り付け、軟禁して無理やり働かせるんだ。昔はよく聞いた手口だけど、久しぶりに聞いたぞ。


「なるほど。それは良くないですね……」


 エマが泣いている理由がなんとなく分かった。エマは家族に売られたことが悲しかったようだ。家族が居ない俺には、理解しがたい話だな。

 まあ、信頼していた人に裏切られたという意味なんだろう。それなら分かる。もし俺がそんな状況になったら、相手をサメの餌にしても気が収まらない。泣きたくなるのも無理はないな。


「お分かりいただけましたか。では、エマのところに戻りましょう」


 いや、まだ聞きたいことが残っているんだ。歩き出そうとするルーシアを止める。


「あ、すみません。もう一ついいですか?」


「何です?」


「ご家族と、商売についてです。お店をやられていたんですよね?」


 俺はエマの家族のことを何も知らない。商売をやっていることは察したが、いったい何の仕事なのか。場合によっては根回しが必要になる。


「そうですよ。エマのお父様は乾物の問屋をやっておられました。お兄様はその跡取りです。副店主をやられていたようですね。お母様は、数年前にお亡くなりになりました」


「なるほど。ウォルターさんやルーシアさんは、ご家族と交流があったんですか?」


「私は何度か会ったことがある程度ですよ。父も、仲が良い様子ではありませんでした。業種が違いますからね」


 よし。うちの店に飛び火する心配は無いな。これが心配だったんだよ。エマの家族はかなり危険な状態だ。周りが全く見えていない。たぶん、金のためなら何でもやる。今近付いたら、うちの店にも何らかの被害が出るかもしれない。

 ウォルターを経由して店に来られたら、かなり面倒なことになっていた。この様子ならエマにさえ気を付ければ問題ない。


「ありがとうございます。それでは、エマさんのところに戻りますか」


 そう言って歩き出す。「面倒だから」とエマを切り捨てるのは簡単だ。しかし、ルーシアの心証が悪くなる。それに、石鹸工房の工房主としてこれほど手軽な人材が居ない、というのも事実だ。

 多少のリスクは覚悟して、エマを雇う。そのためにはエマの家族をどうにかしなければならない。



 カフェスペースで項垂れるエマに近付き、声を掛けた。


「すみません。状況が理解できました。かなり拙いことになっていますね」


「……どうしたらいいですか?」


 エマは涙声で言葉を絞り出した。少しだけ平静を取り戻したらしい。


「まずはご家族と距離を置きましょう」


「距離……?」


「はい。一緒に居たらお互いのためになりません。ご家族の逃亡資金は僕が建て替えます。それで遠くの街に逃げてもらいましょう」


 エマを売り飛ばすという結論に至ったということは、逃亡資金すらままならないのだと推測できる。それなら、金を渡して逃げてもらうのが一番手っ取り早い。


「え……? でも、そのお金は、たぶん返せませんよ?」


「エマさんが返してくれたらいいです。簡単に返せるくらいの給料はお支払いできると思いますから」


 良い人っぽく聞こえるけど、やっていることは娼館と同じなんだよね。前倒しで報酬を払って、その金は家族のところに行く。よくよく考えたらおかしな話なのだが、娼館に送られるよりはマシだ。


「え? いや、あの……」


 言い淀むエマに、さらに追い打ちをかける。


「ご家族がこの街に居る限り、エマさんを娼館に送ろうとしてきますよ。ご家族にとって、そしてエマさんにとって、それは良いことですかね?」


「あ……そうですね……。でも、家族と離れるのは、ちょっと……」


 この期に及んでまだ言うか。


 おそらくエマは、家族を説得してくれることを望んでいるんじゃないかと思う。そんなことはしない。時間の無駄だ。


 エマの家族はもうダメだ。周りを巻き込んで破滅しようとしている。他所の街に行けばまだチャンスはあるから、早く逃がした方がいい。

 ただし、エマが一緒に行くのもアウトだ。目の前に娼館という手軽な手段がある限り、家族はそれに縋ろうとしてしまう。


「よく考えてください。娼館に行ったら、どうせ離れて暮らすことになるんですよね? 自分から離れるのと、どう違うんですか?」


「……私、これでも家族のことは大切に思っているんです」


 ああ、求めていた回答と違う。どうしようかな……。


「平穏な生活が戻った時、ご家族はエマさんのことをどう思うでしょう。きっと、娼館に送ったことを後悔するのではないでしょうか。今は周りが見えていないから、そんな行動を取っているんです。エマさんだけは冷静に考えてください」


「でも、家族のためだから……」


「家族のためを思うなら、今は離れてください。それが最善です。一生離れろとは言いません。ご家族が冷静さを取り戻したら、また一緒に暮らせばいいじゃないですか」


「そう……ですかね……?」


「心配なら、僕の友人に追跡を依頼しておきます。ご家族の行き先や暮らしぶりは、ある程度分かると思いますよ」


 俺はエマの家族と直接会いたくないので、ギンに金を貸してもらうつもりだ。そのついでに調査を依頼する。


「わかりました。そうします……。すみませんが、よろしくお願いします」


 よしよし。上手く丸め込んだぞ。詐欺師の手法をブチ込んでやった。推測を大げさに語り、自分の選択が間違っていると思わせる。さらに『大事な何かを守るため』という大義名分を突き付けて、俺の都合を押し付ける。


 もっと穏便に済ます方法はあったかもしれないが、俺はこういうやり方しか知らない。結果的に誰も困らないはずだ。少し後味は悪いが、石鹸工房の工房主の問題はこれで解決したな。

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