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とうさん

 地獄のような1日を終えて、晴れ晴れとした気分で次の日を迎えた。はずだったのだが、ちょっとしたピンチを迎えている。


 今日は石鹸工房の引き渡しの日だ。それに合わせて機材の納品もある。工房の準備が整う中、まだ工房主が決まっていない。

 蒸留水は十分なストックが溜まっている。いつでも作り始めることができるのだが、肝心の工房主がいない。もうすぐ石鹸工房の視察が……。


 定かではないが、今月の中旬くらいには視察が来ると思う。書簡を届けるのに10日、日程調整で10日、移動で10日。合わせて約1カ月待たされるという計算だ。


 忘れていたわけではない。フランツのアホが余計な仕事を持ち込んだせいで、作業が遅れてしまったのだ。

 急いで候補者を探さなければならないが、いざとなったらフランツを使おうと思う。仮の工房主にしておいて、正式な工房主が決まったら店に呼び戻す。



 店外のカフェスペースで、カラスの到着を待つ。しばらく待っていると、困惑したような表情を浮かべたカラスがこちらに掛け寄ってきた。


「兄さん、こんなところに居たんすか……」


 焦っているのか、息を切らしている。


「こんなところって、僕が店に居るのは当然でしょう」


「さっき兄さんの工房に行ったんすよ。そしたら知らない女の人が居たっす……。マジで焦りましたよ。愛人が居るならそう言っておいてほしいっす」


 ……愛人? おいおい。エマのことかよ。


「愛人ではありませんよ。人聞きの悪いことを言わないでください。訳あって部屋を貸しているだけです」


「そうなんすか? まあ、そういうことにしておくっす」


 信じろよ!

 しかし、エマはなんで居たんだろう。昼間は仕事があるはずなんだけどなあ。


「まあいいですから、早く工房に行きましょう。荷物の搬入もあるんです」


「そうすね。行きましょう」


 立ち上がって食器を片付けると、石鹸工房に向かって歩き始めた。

 カレルの工房と実験用工房を急がせたので、石鹸工房の引き渡しはかなり後回しにされた。ただ、もともとそういう約束だったから文句は言えない。


 広さは蒸留水の工房と同じくらい。そこそこ広い店舗スペースと、無駄に広い倉庫がセットになっている。この倉庫の棚を撤去し、作業台を入れてもらった。大きな換気口も設置してある。


「問題ありませんね。ありがとうございました」


「いえ、こちらこそありがたいっす。この辺の物件、マジで売れないんすよ。何をするにも遠いっすから」


 カラスの言う通り、普通に住むには不便極まりない立地だと思う。商店街は遠いし、職人街も遠い。近くにあるのは闘技場と訓練場くらいだ。

 この辺りに住んでいるのは、剣闘士と狩人ばかり。街の中で普通に働く人は住みたがらない。まあ、だからこそ安いわけだが。その安さに助けられている。


「またお願いするかもしれません。この辺りの物件が手に入ったら、僕に声を掛けてください」


「そう言ってもらえると助かるっす。またお願いします」


 カラスは深々とお辞儀をして帰っていった。


 カラスと入れ違いに配送業者が入ってきた。そのまま荷物を入れてもらう。簡単な梱包を引き剥がして検品したら、そのまま放置する。機材は重いし量が多いので、1人ではしんどい。工房主が決まったら一緒にやろう。



 これで工房の準備は完了だ。最後に工房主を探す。

 石鹸組合の仕組み上、俺が最高責任者にならなければならない。そのため、工房主は従業員として雇うという形になる。普通に求人を出してもダメだ。信用できる人間じゃないと任せられない。そんなに都合良く見つかるだろうか……。


 気長に構えている場合ではないが、とりあえず実験用工房に行こうと思う。石鹸の材料と資料を、石鹸工房に移しておきたい。



 実験用工房に到着すると、玄関の鍵が開いていた。

 やっぱり居るなあ……。銀行が休みだとは聞いていないぞ。


 工房の中に入り、エマの部屋に向かって声を掛ける。


「エマさん。お疲れ様です。どうしたんです? 具合でも悪いんですか?」


 すると、扉がガチャリと開いて、顔面蒼白になったエマが顔を出した。


「あ……お疲れ様です。大丈夫、元気ですよぉ」


 と死にそうな声で言う。どこが元気なんだよ。どう見ても具合が悪そうじゃないか。


「風邪でもひかれました? 本当に具合が悪そうですよ?」


「ご心配には及びません。もうすぐここを出ていきますので、お構いなく……」


「出ていく? 家の問題が片付いたんですか? とてもそうは見えませんけど……」


「ははは。片付きましたよぉ。父さんの店が倒産です。なんちゃって」


 エマは乾いた笑い声を上げながら、力無い笑みを浮かべた。目が死んでいる……。

 完全に大丈夫じゃないな。クソ面白くないダジャレが飛び出すほど病んでいるじゃないか。


「それのどこが片付いたんですか! 何があったんです? 詳しく話してください」


「……倒産したのは本当ですよ。ついでに私も解雇されちゃいました」


「解雇……? 銀行を、ですか?」


「はい……。例の詐欺事件が原因です。私の父が銀行と揉めまして……。私は責任を取って辞めさせられました」


 そういえば、いつかの銀行員が被害者と揉めていると言っていたな……。その中の一人が、エマの父親だったらしい。

 いくら銀行に詰め寄ったところで、騙し取られた金は返ってこないのに。


「なるほど。それは災難でしたね。これからどうされるおつもりですか?」


「父と兄はこの街を出ていくと……。私も一緒に行くことになると思いますよ」


 ああ、詐欺事件のせいで信用を失ったんだな。兄と父親は最後まで詐欺師を信じていたのだから、ギリギリまで勧誘活動を続けていたんだと思う。エマの家族経由で騙された奴は、エマの家族を恨む。


 エマの父親は何かの店をやっていたはずだ。この狭い街で信用を失くすのは致命傷になる。資金も尽きているだろうし、この街に居る限り再起は不可能だろう。


「でも、エマさんがついていくことはないでしょう。一人でこの街に残ってもいいのでは?」


「私を雇う店なんて、どこにもありませんよ……」


 確かに、エマを雇う店なんてどこにもないかもな。詐欺師の片棒を担いだ人間の家族。どう考えても問題ありだろう。銀行をクビになった経緯は絶対に聞かれるだろうし、そうなったら詐欺事件のことを話さざるを得ない。

 今回の詐欺事件、街の中で結構な噂になっていたからなあ。エマの家族を恨んでいる人も居るんじゃないかな。もう逃げるしか無い。


 だからといって、他所の街に移り住むのも大変だろう。知らない土地でほぼ無一文から生活を始めるなんて、苦行以外の何物でもないぞ。可哀想に……。


 とは言ったものの、こんな好都合なことはない。エマよ。銀行をクビになってくれてありがとう。


「エマさんさえ良ければ、なんですけど。僕が新しく作る工房で働きませんか?」


「はぇ?」


 エマが間の抜けた返事をする。


「今僕は、新しく作る工房の工房主を探しています。エマさんに働いていただけると助かるんですが。どうでしょう」


 職と金と家族と信用を一気に失って背水の陣。俺が見放したら人生が終わる。おまけにルーシアの友人だ。こんな信用できる人材は滅多に居ないぞ。裏切る可能性が極めて低い。

 ただ一つ心配なのは、エマの家族だ。兄と父親が全く信用できない。詐欺師を盲信できるほど騙されやすく、エマと同じく背水の陣だ。追い詰められた人間は何をするか分からない。


「え……と、ありがとうございます……。でも、父にも相談しないと……」


「しないでください。僕が雇いたいのはエマさんだけです。ご家族の方には何も言わないでください」


 エマの言葉を遮った。エマの家族は要らない。母親のことは知らないが、父親と兄はエマの足を引っ張る未来しか見えない。


「え……? それはどういうことでしょう……?」


 エマは弱々しい口調で聞く。


「申し訳ございませんが、エマさんのお兄さんとお父さんは、この街を出ていくしか無いと思います。これはご本人の問題ですからね。仕方がありません」


「あ……それは分かります。雇っていただけないということも、理解しているつもりです。でも、私がこの街に残る理由も話したらダメなんですか?」


「少し話すくらいは構いませんよ。でも、住所などは教えないでください。機密情報を扱う仕事ですので」


 これはただの言い訳。本当に俺が心配しているのは、新天地で上手くいかなかった家族が、エマに金品を要求することだ。

 金を稼いでいるのがエマだけという状態になった時、絶対に頼ってくる。と言うか、強請りにくる。一時的にでも縁を切った方が身のためだ。


 ついでに言うと、エマの家族が金のために石鹸の製法を探ろうとする可能性もある。罰を受けるのは俺だ。マジで迷惑。


「そう……ですか。分かりました。でも、すぐにはお返事できません。少し考えさせてください」


 エマは真剣な顔つきで答える。

 どうしようかな。即決を促したいところだが、無理強いをするとエマに恨まれそうだし……。一日だけ待つか。


「明日また、同じ話をしましょう。その時までに決めておいてください。先程の話、実はかなり急いでいるんです」


「分かりました……。明日、お返事をさせていただきます。ありがとうございました」


 エマは、そう言って部屋の扉を閉めた。



 まだ結論は出ないが、一応は工房主の候補が挙がった。だが、感触は良くなかった。断られる可能性が高い。明日改めて説得を試みてみよう。

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